起きた。
目が覚めた。
階下に住む大家の声で。
昨日は世にも楽しいゲーム(殺人事件)に巡りあい
程なく解決して気分よく帰ってきて、そのまま床に就いた。
今日も今日で、のんびりと寝起きして実験やら何やらをする予定だったのに
階下に住まう大家の声で目が覚めた。
悪い目覚ましとしか思えない。
僕は気だるい体を起こして、階段を降りて大家の所に向かう。
「ハドソンさん、すいませんが少し声のボリュームを」
「このパンケーキ、美味しいですわハドソン夫人。特にこのふんわり感がたまりません」
「まぁそう言っていただけるだけで光栄だわ」
朝から女性はお気楽なことだ。
ほんの少し注意して、もう一度寝直そうと思ったが
此処の大家であるハドソン夫人の目の前に座っている女の姿に僕の脳は一気に覚醒した。
「・・・おい」
「あら、シャーロック起きたの?」
「おはようございますホームズさん」
「悪い目覚まし時計の原因はどうやら君の声らしいな、・。
古い目覚まし時計のベルよりも質(たち)が悪く、携帯のアラームよりも酷い声だ。お陰で目が覚めた」
「目が覚めたのなら光栄ですわ、ホームズさん。
寝起きの酷い顔と寝ぐせだらけの酷い頭をどうにかしてきたらどうですか?レディが居る前で
そのザマは”惨めな僕を嘲笑ってくれ“と言っているようなものですよ」
・。
ロンドンでフリーの記者の仕事をやっている人間・・・いや、僕から言わせれば混血人種といったところだろう。
父親は韓国人、母親は日本人。しかし幼い頃に事故で両親を亡くしているが
今ではロンドンで有名な資産家である家の養子。
口が悪いのは、生まれつきなのか・・・それとも、引き取られた家でのモノか。
どちらにせよ女性としては見るに耐えない言動ばかりだ。
「こんなところで何をしている?」
「何って、ハドソン夫人のパンケーキを頂いてたんです」
「君の声が上まで聞こえてきていたぞ。今何時だと思ってる?近所迷惑だ!睡眠妨害だ!」
「真夜中じゃあるまいし、太陽は既に空高く登っています。夜な夜な大声で喋っているのなら
近所迷惑にはなるだろうし、睡眠妨害にもなるでしょう。しかし、時刻は既に朝の8時を回ってます。
人間は既に動き始めて、会社や学校へと足を進めていっているんですよ?まったくモグラじゃあるまいし
何を寝言を言っているんですか貴方は?起きたと言い張るのなら、しっかり起きててください。
愚図る子供じゃあるまいし、いい大人が見っともない」
彼女の言葉に反論ができない。
そして彼女は勝ち誇ったかのように
パンケーキの皿の横に置かれたカップを口につけ飲む。
「を見ていると、まるでシャーロックの女の子バージョンを見ているようだわ」
「ハドソン夫人。こんな高機能社会不適合者と一緒にしないでください」
「一緒にされる僕も不愉快だ」
ハドソン夫人は「あらあら」と何だか微笑ましい表情をしていた。
何が「あらあら」だ。
しかも其処は微笑ましい表情をする場面ではない!
それに此処でこんなことをしていてもキリがない。
僕とは言葉の使い方が似ている。
このまま言い争いを続けても収拾がつかないことは目に見えていた。
「、話がある。上に来い」
「私、朝食抜いてきてお腹空いてるんです。ホラ、日本語のことわざにあるでしょ?
”腹が減っては戦はできぬ“ってね。それにハドソン夫人のパンケーキ美味しいですから」
「だったらその皿ごと持っていくまでだな。ハドソンさん、お皿は後でちゃんと返しに来ます」
「え・・・えぇ」
「ちょっ、ホームズさん!私のパンケーキ返してください!!」
僕はの目の前に置かれたパンケーキの皿を持ち上げ部屋を出て
階段を登り自分の部屋へと戻る。
その後ろ、階段をドタバタと品のない音が続いてやってくる。
「うわっ・・・相変わらず、モノばっかり。つか、汚っ」
「パンケーキを窓の外に落として、鳥の餌にしてやってもいいんだぞ?」
「やめてください。食べ物を粗末にするなと言われませんでしたか?」
「鳥が食うんだ、粗末じゃない」
僕がそう言うと、が小声で「この偏屈者め」と呟いた。
本気で皿ごと窓の外に落としてやろうかと考えたが
とりあえず僕は曲りなりにも英国紳士だ。そして曲がりなりにも―――――。
「それで、お話とは何ですかホームズさん?」
「二人っきりだ。シャーロックと呼べと何度言えば分かる?」
彼女を一番に独占している男だ。
女は嫌いだ。
ああ、嫌いだ。
女は嫌いだけれど、だけは何故か許せた。
それが何なのか僕自身人生最大の謎とも言えるものだろうと思っている。
は普段僕のことを「ホームズさん」と呼ぶ。
だけど、二人っきりの時はやはり名前で呼ばれたい。
だからいつも言う。
二人っきりになったら”シャーロック“と呼べ・・・と。
「はいはい。分かりましたよシャーロックさん」
「それでいい。で・・・こんな朝早くに、はるばるベイカー街のこんな番地まで何をしに来た?」
「そうですね・・・しいて言うなら」
するとは僕が手に持っていたパンケーキの皿を奪い取り
暖炉前の一人がけのソファーに腰を下ろした。
「美味しいパンケーキを頂きにきて、高機能社会不適合者の天使のような寝顔を携帯カメラに納めてやろうと思って」
「僕の寝顔なんて、見たい奴が居るのか?」
「アンダーソン検視官辺りに売り飛ばそうかと。そしたら彼、面白おかしく何かしてくれるんじゃないかしら?」
「反吐が出そうなことをやろうとしてたんだな君は。早く起きて正解だった」
が座っているソファーの肘掛けに手を置いて
彼女の真正面に立ち、上から自分より少し年下の相手を見つめる。
アジア系独特の黒眼が、僕の瞳とぶつかった。
東洋人とは思えない肌の白さは、まるで冬のロンドンに降る雪のよう。
「僕の寝顔なんかよりも、君のほうがいいんじゃないか?もし誰かが撮ったとしたらそれこそ高く売れるな。
家麗女の寝姿・・・とかタイトル付けて」
「私の寝顔は色んな意味でモザイク掛けなきゃいけないのでダメです」
「そうか。僕はそんな寝顔だとは思ったことは無いんだがな」
「とりあえずそう思う脳みそを調べてもらって、目を眼球交換した方がいいですね。
私の寝顔をそう思っている時点で既にアウトです」
「素直じゃないな」
「私と貴方は同類だと思います」
「否定はしないさ」
僕の言葉には笑った。
顔を段々と近づけると彼女は笑うのをやめる。
そうだ。
僕を受け入れる態勢が出来た証拠だ。
少々寝覚めは悪かったが、朝早くからの姿を見れたことは気分が良い。
いつも見るのは大体日中か、夜くらいだからな。
下手したら1週間会わないことだってある。
そう考えたら、良い。
「シャーロックさん」
「お喋りは終わりだ。僕を受け入れる準備が出来たのなら言葉を止めて目を閉じろ」
言い聞かせて、後数センチ。
僕はゆっくりと自分の目を閉じて、に近付く。
「煙草臭い」
「っ?!」
良いムードを台無しにする声が彼女の口から放たれた。
その言葉に僕は閉じかけた目を開き、から離れた。
「私が煙草嫌いなの、シャーロックさんはご存知のはずでしょ?」
「こ、心得ているつもりだ」
「煙草はやめたんじゃないんですか?ニコチンパッチはどうしたです?」
「丁度きれたんだ」
僕がそう言うとはため息を零し、パンケーキを手に持ち
ソファーから立ち上がる。
そしてパンケーキが乗っていた皿をテーブルに置いて
手に持ったパンケーキを食べながら、部屋の出入り口に立って振り返り僕を見る。
「煙草の匂いのする貴方とはキスしたくありません」
「おい・・・そう言って、いつまではぐらかすつもりだ?もう3週間になる。
いい加減キスくらいさせろ。君がキスさせてくれないから僕は煙草を吸うんだ。
やめたいのにやめきれない原因を作っているのは君のせいでもあるんだぞ」
「ニコチンやめれない原因を私に押し付けないでください。
キスをしたいのであれば煙草をやめてください」
「誰も肉体を求めているわけじゃないだろ?・・・・・・・、頼む」
「私とキスするより殺人事件と口付け交わしてたほうが貴方にはお似合いですよ、ホームズさん。
では私はこれからクライアントと会う約束をしているので失礼します。
あ、お皿・・・ハドソン夫人に返すの忘れないようにしてくださいね。ジョンによろしく。それでは」
「待て!」
僕の声を掻き消すようには階段を降りて、アパートを出た。
バタバタと階段を降りる音に、上の寝室からこちらにと
降りてくる足音が聞こえてきた。
「おい、騒がしいぞ朝っぱらから」
「うるさい」
「それは僕のセリフだシャーロック」
ルームシェアをしている友人のジョン・ワトソン。
彼は大あくびをしながら部屋へとやって来た。
のんきなものだ。
こっちは寝覚めも悪ければ、後味も悪い・・・一日が最悪という形で始まったのだから。
「そういえば、さっきの声がしたんだが」
「気のせいだ。夢でも見たんじゃないのか?」
「そうかもね。・・・何か機嫌悪くないかシャーロック?」
「別に」
機嫌が悪い?
ああ大いに気分は最悪で、最低だ。
機嫌が悪くて当然だ!
独り占めしたい彼女は3週間もキスをさせてくれない。
何かと理由をつけてはそれを掻い潜っている。
今日こそは、と意気込んでいたはずなのに・・・。
「クソッ!!あー・・・イライラする」
「朝から苛立ってるなシャーロック」
「こんな時には煙草を」
「煙草はやめろ。医者としても言っているが、そんなんだからも嫌がるんだぞ。
彼女いつも君に言うじゃないか・・・”私は煙草が嫌いだからやめてください“って」
『煙草の匂いのする貴方とはキスしたくありません』
ジョンの言葉に、の言葉を思い出した。
そしてため息が零れ、ドアに掛けていたコートを羽織る。
「ニコチンパッチを買ってくる」
「いつになく素直だが、懸命だ」
「僕はいつだって素直で正直だ、自分にも」
独占したい、彼女にも。
煙草を吸いたい衝動を抑えつつ
愛しい彼女の口付けを待つために、禁煙グッズを求め
朝早くロンドンの街を歩くのだった。
KISS×KISS
(煙草を絶てたら君との口付けが出来るのか?)