ああ・・・会いたい、逢いたい。
あの人に逢いたい。
「ホント、つくづく見合いなんてするんじゃないな」
私は、普段は着ない可愛らしいドレスを纏いながら
夜のロンドン、其処を歩いていた。
養母(ママ)が持ってきた縁談話。
話では証券会社のやり手とか、そんな人だった。
最初は乗り気じゃなかったけれど
養ってもらっているのだから、嫌とは言えない。
しかし断らなかったのが運の尽きだった。
『煙草は吸いませんよ』
人が良さそうな顔をして、嘘がお上手な男。
下ろしたてのスーツを見た限り、あまり着ないものだと分かり
上着に染み付いていなくても、シャツにはしっかりと煙草の匂いが付いていた。
煙草を吸う人は嫌い。
ストレスの捌け口にしているのか
それとも精神安定剤と託(かこつ)けて吸っているのか
煙草を吸うのには自由がある。
それでも、煙草を吸う人間を私は嫌う。
思いっきり嘘をつれた私は、気分が悪くなり
机を叩き、立ち上がった後・・・相手の男にこう言ってやった。
シャツの裾に口紅、付いてますよ。何処の女性と一夜を共にしてきたのかしら、ってね。
そう言ってその場を去り、今に至る。
おかげで気分が最悪。
嘘をつかれた上、煙草を吸っている人間と分かったから余計気分が下がる。
バックの中に入った携帯には何件も養母からの着信。
数分前からは留守電にもきっとお怒りの声が入っているに違いない。
今、家に戻ってしまえば確実に説教の嵐。
今日は何処かで一夜を明かすしか・・・と、考えていたらふと頭を過ぎった、あの人。
携帯を取り出し、養母の着信を無視して
電話帳を開く。
『 S.H 』
「頼る相手が、この人ってのが」
失笑。
どうして、真っ先にこの人の番号に向かったのか分からない。
でもさっきの嘘をついた男より
あの人のほうが偏屈者ではあるが人間としては出来ている方だ(多分)。
逢いたい。
会いたい。
ああ・・・逢いたい。
そう考えたら、何故かスマートフォンを触れる手が
番号を押し発信へと変わる。
-------------PRRRRRR・・・ガチャッ!
『今何時だと思ってる?』
「真夜中ですねホームズさん」
電話の相手、シャーロック・ホームズは如何にも迷惑そうな声を上げ電話に出た。
『寝せろ』
「昼夜逆転してる貴方がそういうのは珍しいですね」
『たまには夜に寝ることもしようと思っていたんだ。用がないなら切るぞ』
「ねぇ、シャーロックさん」
ふと、私は彼の、名前の方を呼んだ。
いつもは呼ばない。
彼は”二人っきりの時に呼べ“と言う時にだけ呼ぶ。
素直に呼んでやらないのは、ただ彼にいつもその言葉を言われるのが好きなだけ。
だから自分から率先して呼ぶことなんて無い。
だけど、私は自分から彼の名前を呼んだことで、何かが変わった音が聞こえた。
『何だ?』
電話から聞こえてきた彼の声は、いつもの氷のような冷たい声だけど
その中にドコか喜びを感じているような、そんな風に私の耳に入ってきていた。
「今から、お部屋に伺っても・・・いいですか?」
『構わないが君がいつも言う汚い部屋だぞ。それに今日は生憎と君をいつも座らせているソファーには
事件資料という先客がいるし、カーペットは先日ジョンがコーヒーを零してクリーニング店へと向かった。
ちなみに床には、スコットランドヤードの警官共が無断で置いていった事件資料のダンボールだらけだ。足の踏み場がない。
言っておくがベッドは僕の洋服が占領していて整理していない』
「デスクの椅子は?」
『一昨日壊れた。考え事をしてロッキングチェアのような事をしていたら椅子の脚が折れた。
新しいのは明日届く』
「他に場所は無いんですか?」
そう問いかけたら・・・彼はフッ、と笑いながら・・・――――――。
『僕が今寝転がっているソファーなら空いている。君一人入るくらい容易だ』
「シャーロックさんが寝転がっているんじゃ無理ですよ。いくら貴方が男でも
流石に細い貴方の体に私が乗っかったら、シャーロックさんの骨が折れそうで怖いです」
『失礼なやつだな君は。言っておくが、僕が起き上がったら君一人くらい入れるという意味だ』
「分かってますよ、そんなことくらい」
『わざと言ったな。とにかく、それでもいいなら来てもいいぞ』
どうせ、ホテルで金をとられるくらいなら
見知った相手で、心を許している相手の部屋に身を寄せていたい。
誰もいない部屋で寝るよりも、マシだ。
「行きます」
『分かった』
「あの、シャーロックさん」
『何だ?まだ何かあるのか?』
「煙草、吸ってませんよね?」
問いかけたら、彼はため息を零し――――――。
『吸っていない。ニコチンパッチを付けているからな』
「・・・・・・分かりました」
『鍵は開けておく。勝手に入ってこい、だが入ってきたら必ず鍵は閉めろ。ハドソンさんに怒られるのは僕だからな』
「了解です。ではまた後ほど」
『あぁ』
そう言って通話を切断。
私は小走りでベイカー街の、彼が住まう部屋へと向かう。
時々、思う。
煙草を吸う人を嫌う・・・だけど、シャーロックさんの煙草の匂いは好きだ。
嫌いなのに。
煙草を吸う人も、その人を纏う匂いも、大嫌いだというのに。
あの人の、シャーロック・ホームズの煙草を吸う仕草も
彼を纏うその匂いも、好きなのは何故だろうか?
「・・・好き、だから」
彼という、人間が好きだから。
彼という、存在が好きだから。
だから、許せるのかもしれない・・・ただ、唯一
シャーロック・ホームズだけが、私の中で「煙草を吸っていても嫌いにならない人間」ということ。
しかし、こんなことを彼の前で言ってしまえば
本人が頑張って禁煙をしているのに、彼の同居人でありながら
医師でもあるジョン・ワトソンに私が叱責されてしまう。
だから、絶対に言わない。煙草を吸っていい、だなんて。
でも、時々思うのだ。
あの人の纏っている、煙草の匂いに包まれたいと思う。
ニコチンパッチを付けているけれど
彼の部屋の、寝転がっているソファーには匂いはきっと付いている。
時に、それに包まれながら眠っていたい。
柔らかく、高級素材で作られたベッドよりも
ほんの少し弾力があり、彼の匂いが染み付いたソファーに寝るのも良い。
会いたい。
逢いたい。
ああ・・・早く逢いたい。
心の中で、何度もなんどもそれを言いながら
私は夜のロンドンを小走り。
彼が待つ部屋に、彼の居る部屋に、彼の隣に、早く・・・行きたい。
ロンドンを駆ける蝶
(会いたくて、あいたくて、私は向かう彼の元へ)