シュテルンビルトを去った後。
俺は俺の今いる場所に戻ってきた。
其処に戻ると、俺を雇ってくれた大富豪様は喜びながら出迎えてくれた。
どうやら俺の働きに満足しているようだった。
しばらくバイクを走らせてきたものだから
体は疲れており、俺は用意された部屋のソファーに寝転がる。
「あ〜・・・疲れた」
仰向けになってソファーに転がり、豪華な装飾がされた天井を見る。
そこでぼんやりと思い出す。
あの日の出来事。
嬢ちゃんとモデルの仕事をしていたあの時間。
天使と向かい合った俺に悪魔が耳元で囁いていた。
「ライアンさんにもご迷惑おかけしてますね、私」
「いいって。それにこういうのも面白そうだし、嬢ちゃんの為なら別に構わねぇよ」
「すいません。こういうワガママこれっきりにしますね」
苦笑を浮かべる嬢ちゃんに、悪魔が誘惑する。
「今ならイケる。今なら奪える。さぁ奪ってしまえ」と何度も耳元で囁いていた。
今ならチャンスだと、確かにあの時そう思えた。
だが、目の前の彼女は俺にそんな事を望んじゃいないと分かっていた。
頭の中で悪魔の誘惑を掻き消して、目の前の彼女を見た。
コレ−モデルとしての仕事−が彼女ワガママだと言うのなら――――――。
「じゃあ、俺のワガママもこれっきりにするからよぉ―――」
「――え?」
俺のほんの少しのワガママも叶えてくれ、という意味を込めて
嬢ちゃんの手を引っ張り自分の元へと引き寄せ――――唇が触れ合う、ほんの数センチで動きを止めた。
其処に居た誰もが驚きの声をあげ、目の前に居る少女もまた驚き、そして頬を赤らめていた。
「俺がマジでキスすると思った?」
「えっ?」
「するわけねぇだろ。んな事したら俺がジュニア君に殺されるっつーの」
そう言って嬢ちゃんの額に唇を軽く触れさせ、体を離した。
嬢ちゃんはと言うと俺の唇が触れた額に手を当て呆然と立ち尽くしていた。
ジュニア君以外の、他の男にこういうことをされたことがないのが丸分かりすぎる反応だった。
カメラの方を向き、カメラを構えたままの男を見る。
「おい、今の撮れたか?」
さっきのキス(未遂)が撮れていたのなら儲けモンだ。
我ながら自分でイイ絵になったのではないかと思い、カメラマンに問いかけた。
「え?・・・あ、い、いや、シャッター押すの忘れてて」
「なーにやってんだよ。せっかくイイ絵撮らせてやろって思ってやったのに
何やってんだ。二回もんな事したらエンジェルさんは心臓が止まって死んじまうっつーの」
「そ、そこまでないですよライアンさん!」
「顔真っ赤にした奴の言うことじゃねぇぞ、嬢ちゃん」
俺の言葉に嬢ちゃんは反論が出来ないのか、言葉を放つのをやめた。
せっかくのイイ絵が結局は無駄になったというわけだ。
しかし、無駄になったとはいえ
彼女にほんの少しだけ触れられたのは我ながら良しとしようと肯定させた。
本当に唇まで奪ってしまえば
あの男−バーナビー−は俺に嫉妬の牙を向けてくるに違いない。
「あー、ちょっと待って!別のカメラで撮れてるみたい」
「えっ!?」
「お!マジか!!」
スタッフの声に誰もが別のカメラの方へと向かい、先ほどの光景を画像で映し出した。
いい具合に俺と嬢ちゃんの距離は、あたかもキスをしているかのように見える距離だった。
「わぁああ!!やだやだやだ!!だ、ダメですダメですこんなの!!」
「いいね、いいね。こういう絵どうよ?」
嬢ちゃんは顔を真っ赤にして否定の声を上げるも、俺はというと嬉々とした声を出し
写真を眺めるスタッフや俺を巻き込んだ女を見た。
「キスはしてないけど、この間に商品挟み込むってのはどうかな?」
「うん、いいんじゃない?不意をつかれたこの表情、なかなかイイわね。
真ん中にリップの商品載せちゃって”獣も欲しがる天使の口紅“みたいな文句付けちゃうとか」
「おお!いいですね!!」
写真が思わぬ方向で良いように使われ始めていて俺はニヤニヤと笑う一方。
その傍らで嬢ちゃんは顔を真っ赤にして言葉を失っていた。
ちなみに女プロデューサーが嬢ちゃんの肩を何度も揺すり気を確かにと声をかけ続けていた。
やはり刺激が強すぎたか、と心の中で反省しつつ
嬢ちゃんの側に行く。
「嬢ちゃん、悪ぃな」
「ライアン、さん」
「コレが俺の”ワガママ“だ。でも、さっき言ったようにこれっきりにする。誓って、もうこういう事しねぇから」
「ライアンさん」
俺が笑いながら頭を叩くと、嬢ちゃんの頬の赤らみは段々と無くなり
いつもの白さへと元に戻っていった。
彼女にとって多分俺の存在というのは「兄貴」みたいなものだ。
だからよく俺を頼ってくれる。
それはそれで、俺としては嬉しい事でもあった。
多分その一線を踏み越えてしまえば、今までのような関係は無くなってしまうだろう。
俺もそれは望みたくないし、嬢ちゃんだって同じだと思いたい。
だから唇が触れ合う、ほんの数センチで動きを止めた。
今ある関係を崩したくないという、気持ちが俺に囁き続ける悪魔の動きを止めたのだ。
「ビックリさせたな」
「心臓、止まるかと思いました」
「まぁジュニア君以外の男にこういう事されたことねぇんだったら、なるだろうな」
「も、もうライアンさんったら」
怒って膨れる顔もたまらなく愛しく思えるのは
好意があって、そして崩したくない関係があるからこそ。
多分もう、二度と隣に立つなんて、目の前に居るなんて出来はしない。
だからその日、その時、その瞬間を
ガラにもないが「ずっと大切にしよう」と思うのだった。
「イイ絵じゃねぇか」
雑誌に載る前の写真を貰い、それを眺める。
不意をつかれた表情が相変わらずの可愛さを物語っていた。
さて、コレを目にした時のジュニア君はどんな反応をするだろうか。
多分真っ先に俺に牙を向けてくるに違いない。
「つか、コレ見て嬢ちゃんに八つ当たりしなきゃいいんだけどな」
そんな事を考えている中。
街−シュテルンビルト−では天使が大粒の雫を零していた事を俺は知る由もなかった。
Other times, other manners.
(”臨機応変“時と場合に応じて何事も対応してきた、つもりだ)