閑話.KISS
作者201さん
眩い朱が目の前を透過する。
主人の隣で仕事をする景麒は、紫の瞳の上に鮮やかな髪色を宿していた。
終った、と横で彼女が呟く。
「ああ、流石に体が固まったな」
緩慢な仕草で陽子は背伸びした。景麒は疲労を解す主人に「御疲れ様です」と言いながら、彼女が仕上げたばかりの書簡を集めて纏める。
「今日はもう、コレで終わり?」
少しぼんやりとしたような貌で陽子は言った。
「はい。御目通し頂きたいものは、これらが全てでしたから」
景麒が言うと、陽子は軽く眠気を誘う貌で、そか、と呟いた。
職責から解放されたようなその様を見遣って、景麒は少し微笑う。そして、目に華やかな紅色の髪に視線を投げた。
「――主上」
「ん?」
「失礼ながら、御髪が崩れているようで――」
景麒が言うと、陽子は自分の髪に手を遣り、高い括り目に触れた。
「あ、ホントだ。結びが少し甘かったかな」
呟きながら髪を直そうとする。景麒はその褐色の肌に手を伸ばし、「わたしが直しましょうか」と言った。
陽子は、景麒の申し出に軽く目を瞬かせる。景麒は不思議そうに自分を見てくる主人を怪訝そうな貌で見返した。
「・・・何か?」
いや、と陽子は微笑う。
「お前にそんな事が出来るのか、と思って」
「・・・失礼な」
憮然とした口調に、陽子はまた微笑う。
景麒はその貌を見ながら、何処か決まり悪げな貌で溜め息を吐いた。
――確かに得意なことではない。と、言うより寧ろ、出来ない。
しかし、そんな不可能な事を思わず口走ったのは、どうしてもその髪に触れたくなったからだ。――尊くも美しいそれに手を伸ばす、大義名分だった。
「はは。珍しいからな。じゃあ、御願いしようか」
陽子は言って、景麒が髪を弄りやすいように軽く背を向けた。
御無礼を、と呟き、景麒は括り目を解く。艶やかな赤が解けて、少女の肩に流れ落ちた。
景麒はぎこちない手つきで、絹糸のような髪を梳いた。さらさらの髪を、愛しむように撫でていく。傷付けないように、丁寧に梳きあげた。
陽子は柔らかな微笑を浮かべ、目を閉じて彼の仕草を受け容れている。
景麒の白く細い指からは、紅が零れ落ちては宙に流れる。こうして触れられる時を惜しむかのように、景麒は細くなる手中の束を細くしては掬い、また拾って梳く、と云う動作を繰り返した。
くす、と陽子が軽い笑声を漏らす。
「なんか、こう云うのってくすぐったいな・・・」
「・・・然様で?」
「うん。・・・ちょっと照れくさい。――けどでも、嬉しい・・・、かも」
景麒が瞬くと、陽子は振り向かずに言った。
「安心出来るというか。心地が好い・・・」
陽子の髪を梳く景麒の指が躊躇いがちに止まった。
覇気を解いて、陽子は景麒に軽く身をもたせる。――そんな甘えるような姿は、景麒以外の誰にも見せない。
その後ろ姿を、景麒は堪らなく愛しいと思った。
不図、髪以外にも触れたくなって、景麒は手元の項に、黙って唇を付けた。
ひやりとしたその感触に、陽子は驚いて反射的に振り返る。
不意打ちの口付けを受けた首筋を押さえ、次の瞬間、頬を微かに火照らせて桜色に染めた貌で景麒を見詰めた。
羞恥に動揺する陽子の貌に、更に深い愛しさを覚えて、景麒は主人に軽く上を向かせて近付いた。
「景・・・誰か来たら・・・っだから――」
景麒は穏やかな制止を振り切って言葉ごと唇を封じる。
「――だ、め・・・」
塞ぎきれなかった言葉が困ったような音色で零れた。緩く抱え込んだ体から、押し返すような力が生じる。景麒はそれに上乗せした力で優しく抑えた。
あくまで静かに、優しく抱きながら唇を重ねる。ほんの少しだけ、強い主人の体から力が抜けたのを察して、景麒は唇を離した。
腕の中で、体が震えている。景麒の直ぐ間近で、戸惑ったような主人の貌が揺れた。
頬を上気させて困惑するその貌を、もう少しだけ困らせてみたくなって、景麒は再び唇を寄せる。
「ちょ、景麒ってば・・・まっ・・・」
命令が紡げぬように、やや強引に唇を塞ぐ。強く抱き寄せると、抵抗の力が引き潮のように遠ざかった。
仕方ないなあ、と云うように、制止した陽子の手の平がゆっくり昇って、景麒の首筋を抱え込む。
弛んだ唇の隙間から御互いに、舌を伸ばした。戯れるように、軽く舌を絡め合う。
そうやって何度も交わりあったあと、景麒はそっと主人から顔を離した。
目下で、少しむくれたような貌が景麒を見詰めている。
「――言おうとした瞬間に口を封じるんだからな。わたしが突然の行動に弱いのを知っててやっているだろう。・・・ずるいよ」
滅相も無い、と景麒は主人の頬に手を伸ばしながら言った。
「御ずるいのは主上の方です。わたしが貴女に叶わないのを承知な上で、可愛らしげに振舞われるのだから」
「な、何を言うんだ、ばか・・・っ」
さらりと零れた飾り気の無い言葉に、陽子は貌を真っ赤にして俯いた。
「――ほらまた、そうやって・・・。貴女は全く、愛しくも困った方だ・・・」
呟くと、景麒は俯いた陽子の顎に手を掛けて仰向かせて口付けた。ほんの少しだけ出た、もがくような陽子の仕草を完璧に無視して、唇を吸いつづける。
景麒は陽子に口付けながら、紅の髪を掻き乱した。
「・・・もう、整えてくれるんじゃなかったっけ・・・?」
キスの合間に陽子が不平を漏らす。
「――そういえば、わたしは手先が器用な方ではありませんでした・・・」
「・・・嘘つき。」
漂々と言ってのける景麒に呆れつつ、それでも陽子は軽く微笑って絶えない口付けを繰り返した。