「慶主従.SWEET &SERIOUS.FIRST LOVE」
作者251さん
――一体いつからだろう。
そんな事はよく覚えていない。
ただ、微笑まれると嬉しくなって、胸が刹那に熱くなる。
声さえも言葉を放つ前に奪われるほどのときめきに視界が白く輝く。
その輪郭を思うだけで心が温かくなる。
『愛しい』とはこの気持ちの事を言うのだろう――。
――いつもの夜と、同じ光景のはずだった。
陽子は景麒の私室で、茶を飲みながら自分の下僕と取留めのない話をしていた。
相対する卓子で、自分が他愛も無い話をし、彼が相変わらずの薄い表情で主人の話を聴き、相槌を打つ。
何の変哲も無い遣り取り――それでも、陽子はこの時間が好きで、密かな楽しみであった。
理由は至極単純で、それでいて、とても複雑なこと。
いつの頃からか、陽子は自分の下僕に特殊な感情を抱いていた。
それは、友人に向ける好意や、家族に向ける思慕とも違うもの。普段は優しく陽子の胸に在り、時に激しく込み上げてくる、仄かな甘さの切ない想い。
陽子は自分の下僕に、片恋をしていた。
だがこれは秘密だ。自覚して以来、決して言うまいと心に誓って、陽子は彼と時を過してきた。
事実には言っていい事と、悪い事がある。そしてこれは、『良くない』ものだと、陽子は思っていた。
前の主人に恋着されて病んだ麒麟に、恋心を抱いている。
それを知ったら彼はどう思うだろう。
落胆して嘆くだろうか。裏切りに等しいと恨むだろうか。
それとも、辛苦を思い出させて哀しませるだろうか。
どれに至っても、悲痛に貌を歪めさせる事しか思い浮かばない。――そんな事が、如何してぬけぬけと言えよう。
そう思ったから、陽子は自分の想いに蓋をして、表面上、主従の主を装ってきた。
『主人』の貌でなら、良心を傷めずに近くに居られる。『当然』のように隣に座って、息を接げる。
『全てが上手く行く方法なんだ』と、陽子は自分に言い聞かせた。
想いが露見して苦しませるくらいなら、黙っていた方が良い。
息苦しくても、変われず傍に居られるのなら、それで良い。
――いつか破綻して手放すくらいなら、自分の気持ちに背いていたい。
想いを殺す事に精一杯になっていた陽子は、エゴと願望の軋轢が眼中に入らずに、根底では無理が祟ってきている事を気付けずにいた。
息抜きと銘打って傍に居る為の話の種が尽きてしまい、手持ち無沙汰になった陽子は、随分前に空になった茶器を、ことりと音を立てて卓に置いた。
そしてそのまま、何となく言葉を発するのに窮して、陽子は茶器を注視したまま黙り込んでしまった。
景麒は卓の対岸に座りながら、何処となく不安定な翳りを背負って沈黙する主人を見詰めた。
――この処、彼女が不図した瞬間に壊れそうだと思う時がある。
昼間は凛と貌を引き締めて少女臭さを匂わせないが、いざ玉座を降りて官服を脱ぐと、一介の少女に戻る。
そしてその少女の貌にも、いくつか種類がある。
友人達と談笑する時の貌、部下と云うより『同志』の漢(おとこ)達と話をする時の貌、そして今、自分と話をする時の貌。
どれも同じで、どれも違う一面。その中でも、取り分け景麒と向き合う時の貌が、最も少女染みているのだと、景麒は思った。
表情豊かな鮮やかな翡翠と、その瞳を支える綺麗な貌付き。時折、形の良い唇から零れる微笑は、息も止まるほど愛らしい。
その笑顔を見る度に、景麒の胸には、えも云われぬ想いが込み上げる。
忠誠や信頼とは違う、溢れるような熱い想い。
――いつからか思っていた。その微笑を飾る唇に触れたいと。
だが、そう思う度に、精一杯の理性を使って劣情にも似た慕情を押し留めていた。
『嘗(かつ)ての主を狂わせて亡くしたお前に、彼女に触れる権利は無いだろう』と、心の底から自らを戒める声がする。
最早、景麒の中で、彼女と主従以上の関係を望む事は罪であり、同時に怯懦(おそれ)でもあった。
傾国の恐怖と、恋情に対する禁忌は、心の奥深くに刻み込まれて色褪せない。
主人の傍らにいる事に、幸福と或る種の恐懼を感じる。
この相反する想いに縛られ、心が疲弊を感じ無いこともなかった。だがそれでも、彼女の傍から離れる事だけは、本心も本能も受け付けなかった。
だから目を逸らして見ない振りをした。
主人に対する、忠誠以上の想いは無視して、ただの下僕の貌をする。
女王である彼女を助ける為に、自分が下僕としての盟約を果たす為に、そして何より、彼女の隣を自分の居場所にする為に。
あらゆるものから視線を外していた所為で、景麒は、自分がどれほどこの少女に執心しているかを理解していなかった。
景麒は沈黙の中を幽かに身動(みじろ)いで、主人に視線を向けた。
視線の先には、微弱な愁いの影。
――何か気に病む事でもあるのだろうか。
普段は快活の光を誇る宝玉の瞳が、今は何かに滲んでいるように昏い翳を映している。
表情全体も沈みがちで、少し窶れているような。
萎(しお)れかけの花のように項垂れる姿が哀れで、黙って見ているのが辛かった。
景麒は暫し視線を彷徨わせた後、意を決して「主上」と声をかけた。
陽子は景麒の呼び掛けに軽く顔を上げる。景麒は生彩に欠ける貌を見ながら、
「…何か御気に掛かる事でも御座居ますか」
と問い掛けた。
「なんで」と陽子の唇が声も無く呟く。
「…いえ、少し、御元気が無いように見受けられましたので…」
「……何でもないよ?」
微妙な間を空け、妙に明るい声を出して、陽子は答えた。
「気に掛かることなんて何も無い」
「…本当ですか?」
「……本当に」
返事とは裏腹の、晴れない貌。景麒は薄く溜め息を吐いた。
「…どうして其処で溜め息を吐くかな…」
昏い貌で陽子は微苦笑する。
「…わたしでは役不足かと思いまして」
景麒はその苦い笑いを見ながら、やや沈んだ貌で言った。
「相談相手にも堪えないのか、と…」
「――そんな事ないよ…」
乏しい表情に自嘲する様子を汲んで、陽子は否定する。心の中で、「ただ、お前には言えない事なんだ」と付け加えて。
平坦な返答に、景麒は主人との間に見えない壁を感じた。
こんなに近くにいるのに、心は何処か遠くにあるようで――。
洞察力に欠ける自分を薄く嗤うと、「中々直らないものですね」と景麒は独りごちるように言った。
「ひとの意を読み取るのが苦手で、大切な事を見落としてしまう。――悪い癖です」
景麒が回顧するような表情を浮かべるのを、陽子はぼんやりと眺めていた。
――悔いているのだ。
彼は、自分の拙さ故に壊れてしまった過去を悔いている。国が沈みかけた事を、自分の責任のように感じている。――それは、忘れ去るには余りに身近な昔。
自分の知らない彼の過去を思ったとき、陽子の胸にちくりと針で刺すような痛みが疾った。
そんな貌しないで、と頭の中で誰かが言っている。
想い馳せるような瞳で、還らない過去を語らないで。
触れられないものに手を伸ばそうとしないで。
他の誰かの事なんて考えないで、こっちを向いて。
――ねえ、『わたし』を視てよ―――。
様々な言葉が陽子の脳裏を過る。思うごとに、しくしくと胸に痛みが昇る。その思考を、ある考えが占めていた。
それは胸の痛みと共に、陽子の心を縛りつける。
――何だろう。あと少しで、わかるような気がするのに。
「…なあ」
不明瞭な思考と相反して、陽子の口は勝手に呼び掛けを放っていた。
言葉は陽子の意識を透過するように、意味を持つ前に表に現れる。
「…もし、過去を取り戻せるとしたら、お前は予王と遣り直してみたいと思う?」
――もしも全てが元通りに還るとしたら、彼は前の主人と、共に歩んでいきたいと思うだろうか――。
陽子の問い掛けに、景麒の瞳が軽く見開かれる。その紫が濃くなるのを見て、陽子は漸く自我を取り戻した。
自分の落とした言葉の意味を理解して、はっと口を噤む。
――卑怯だ。『彼』の主人である自分がこんな事を言うなんて。
譬え思っていたとしても、陽子を目の前にしてそんな事が言える筈無いだろう――。
自分の行動に狼狽しながら、陽子は咳き込むように言った。
「…ごめん。変なことを言った。今の、忘れてくれ」
「…主上?」
怪訝な瞳をした景麒の貌が、陽子を覗き込む。
その澄んだ紫と目が合った時、陽子は心を支配していた感情に気が付いた。
――嫉妬。
遠くない過去に失われた景麒の以前の主人――彼を囚えていた女に、嫉妬したのだ。
陽子はカッ、と自分の頬に熱が灯るのがわかった。途端に、全身の血液が頭に昇ってぐらぐらに意識が揺れる。
なんて浅ましく、愚かな事を――。
浅墓な自分が恥ずかしくて、窒息しそうに成った。
「…部屋に戻る」
陽子は唐突に言うと、席を立つ。
もうほんの僅かでも、平静な貌をして彼と対峙出来ないと思った。
何より、見透かされるような瞳に戸惑いを隠しきれなくて、精神が破綻してしまいしそうだった。
「主上…!」
景麒は豹変した主人に不安を覚えて、思わず手を伸ばした。
理由はよく判らない。だが、今此処で彼女を放ってしまってはいけない――と胸の中で警鐘が鳴り響いていた。
「御待ち下さい!」
景麒の細長い指が、出かけた陽子の右腕を捉える。反射的に、陽子はそれを振り払おうとした。
「…離して…っ」
「急に、如何なさったんですか…?!」
「何でもない…っ」
「その有様で、何を言うのです。何処が『何でもない』と――」
「お前には、関係ない…!だから、離せ!!」
関係ない、と言われて、景麒はふっと頭に血を昇らせた。
「主上!!」
叱り付けるような呼び声に、陽子はビクッと大きく肩を震わせる。右手を締め付ける圧倒的な力と、微かに怒気を匂わせる端正な貌。紫の双眸が、射竦めるように陽子を見ている。
その目と目が合って、混乱した陽子の思考がさらに掻き乱された。
本音、建前、恋情、嫉妬、忸怩、不安、あらゆる思いが攪拌されて、くらりとした眩暈に頭が重くなる。
意識が翳って、まともな考え事が出来ない。
ただ、胸が苦しい。咽喉が焦がれるほどの熱さで塞がれている。
苦しい。苦しい。ただ只管、苦しくて仕方が無い―――。
「…っもう、わかんないよぉ…」
陽子は自由な左手で顔を覆って俯き、悲痛な声を上げた。
――如何したらいいのか、如何したいのか何一つ解らない。
押さえ込みたいのに、後から後から想いが溢れる。
自分の気持ちに制御が利かなくなって、陽子は胸が潰れるほどの息苦しさに襲われた。
解決の糸口(こたえ)が見付からない――。
ぷつりと琴線の切れた音と同時に、堪えきれない遣る瀬無さが涙になって溢れた。
「主上…?」
景麒は細い少女の手首を掴んだまま怪訝に眉を顰める。
覆い隠した手の平から、一片(ひとひら)の雫が頬を流れる。
――泣いているのか。
景麒は声を殺して涙を零す主人に瞠目した。
蓬莱にいた時以来、決して自分には見せなかった泣き顔――。
自分が彼女に涙を流させている、という事実に、景麒は茫然とする。
俯いていた顔が不図、持ち上がる。涙に濡れた翡翠が、宝玉のように光を放つ。
不図顔を持ち上げて、滲んだ視界が戸惑う下僕を捉えたとき、陽子は堪らず彼に手を伸ばした。
泣きながら、今までずっと触れられずにいた広い背中に縋りつく。
景麒は、そんな風に突然自分の胸に飛び込んできた少女に狼狽した。
只でさえ、泣かれた所為で平静を保てなかった所に、留めの衝撃を撃たれる。
思考が完全に停止して、まともな事が考えられずに景麒は硬直した。
だが其処に、しゃくりあげる涙声が身体から身体へと、直に伝わる。
鈍磨した頭に切なげな哭き声が響いた時、景麒の胸に戸惑いから別の感情が浮かび上がった。
両腕が、躊躇いがちに少女を抱き締めようとする。――しかし、触れようとした瞬間に、別の想いに塞き止められて、景麒の両腕は所在無さ下に宙で静止していた。
――だきしめたいのに。
ずっと触れたかった。抱き締めたかった。近付く事を夢見ていた。
それなのに、景麒の腕は、何かに怯えて、その先のものに触れられずにいる。
「…駄目…なんだ。…ほんとは、こんなこと…。――いけないって…わかって…るのに」
涙声の狭間でぽつぽつと、何かに抗うような陽子の呟きが漏れる。
陽子の中で、『言うな』と別の誰かが言っている。
言うな。絶対、口に出したりしてはいけない。きっと、深く後悔する事になる。
そんな事は解っている。だけど、自分に嘘を吐くのが苦しくてならない。
もう既に、何でもない貌をして景麒の傍にいる事が辛い。
傍に居たいのに、傍に居ると平静を保てなくなる。
自分が自分じゃなくなるみたいで、それが恐くて逃げ出したい衝動に駆られる。
――それでも、離れたくない。
――…頭の中、ぐちゃぐちゃだ――…。
「…主上…」
取り乱し、うわ言のように言葉を滑らせる陽子を、景麒は困惑した面持ちで見詰めた。
呼び声を聴いて微かに上を向いた陽子の視線が、景麒の瞳と出会う。
陽子はその目に見詰められて、もう自分の気持ちを抑えられなくなった。
瞬いた陽子の瞳から、つう、と一筋、透明の雫が滑り落ちる。
「…すき…」
涙と共に、力ない唇から、二音の単語が零れた。
「――景麒のことが…、好きなの…」
思いもよらない言葉に、景麒は愕然と目を見開く。
あまりにも唐突過ぎる告白に、景麒の思考は追い着けて行けなかった。
――何か言わなくては。
鈍くなった思考で、景麒は思った。
消え入りそうなこの声や、崩れてしまいそうなこの肩に、応えなくてはならない。
――でも、一体何を言えばいいのだ。
錯綜する想いが咽喉に痞えて、声を出す事も、抱き締める事も出来ずに、景麒は立ち尽くしていた。
「――…御免…」
動く事すらままならず、ただ身を固める景麒の胸に顔を埋め、陽子は小さな声で言った。
「急に、こんな事……。――好きになったりなんかして、御免……」
切なげな陽子の声色から、あらゆる痛苦が窺える。
その声を聴いて、景麒の中で何かが容(かたち)を変えはじめた。
――嗚呼、なんて事だろう。凛としたあの声を擦れさせるほど、苦しめていた事に気付かなかったとは。
景麒は罪悪感に胸を潰しながら、搾り出すように呟いた。
「……――如何して、そんな、ことを…」
陽子は呆然と呟く景麒に「だって…っ」と声を上げ、唐突に口を噤んだ。
『だって、予王の二の舞になったら』。――そんな残酷な事は言えない。
陽子は言葉を飲み込んで俯き、声を震えさせながら「――…駄目って言って」と囁いた。
「今ならまだ間に合うから。『応えられない』って、『駄目』って言って突き離して」
御願い、と陽子の声が小さく滑り落ちる。
「――……」
行き場の無かった景麒の手の平が、陽子の肩にそっと掛かる。軽く掴んだその肩は、小刻みに震えていた。
それに触れた時、景麒は胸が詰まるほどの息苦しさを覚えた。
――この方は、こんなにも小さい―――…
景麒の中で、何かが音を立てて崩れた」。
「主上…ッ」
乞うように呼び、躊躇を振り切った手で少女の躰を掻き抱いく。
景麒は、拒まれるのを望みながらも自分から引き離れる事の出来ない陽子を、躊躇っていた分を重ねて思い切り抱き締めた。
「…っ?!景…!」
頼みとは相反の行動に、陽子は戸惑った。反射的に身を捩るようにしたが、強く締め付ける力で押さえられてしまう。
抗う分だけ、身体を抱き竦める力が強くなる。
「―――…は、離して…」
「…出来ません」
景麒は、自分より一回り以上小さな主人を力ずくで抱え込みながら、息詰まるように言った。
「わたし自身がこんなに求めているのに、突き離すなんて事、出来ません」
数瞬遅れて景麒の言葉を理解した陽子は、途端に瞳を歪ませて、「駄目だよぉ…っ」と泣きそうな声を上げる。
「肯定しないで。お願いだから、拒絶して。…じゃないとわたし、いつかきっとお前を苦しませることになる。わたしがお前を、不幸にしてしまうんだよ…?」
――誰よりも大事で、愛しく思っているから、不幸にしたくない。
だけど、ずっと変わらぬまま居られるとは思わない。知らぬ間に肥大した想いが、いつか彼を傷付ける。
そうでなくても、変わってしまった自分が彼と未来を破壊するかも知れない。
――そんなのは厭だ。無理とわかっていても、自分自身が彼を苦しませる事だけは許せない。
――どうしようも無いエゴだと云う事は判っている。でも、自分の想いを殺してでも、守りたいものがある――。
景麒はそんな陽子の心中を察したのか、陽子の髪を優しく梳き上げた。
何もかもを背負い込んで、こんな風に心が壊れる寸前まで押し隠して。
如何しようもなく生真面目で不器用な彼女が、哀しいほどに愛(かな)しい。
労りを込めて陽子の背を抱きながら「…構いませんから」と、景麒は言った。
「主上が如何に思われても――好いて下さっても、厭かれても、わたしは主上を御慕い申し上げます。
ですから、主上がこの身の上を憂えて下さる必要は無いのです」
止め処無い愛しさを胸に留め、想いの全てを出来るだけ伝えようと、丁寧に言葉を選ぶ。
「…貴女は指先一つで、わたしを自由に出来る。わたしを幸福に出来るのも、不幸に出来るのも主上だけです。
――そして『今』、その権利を持つのも、主上だけです」
「…でも…っ」
頭(かぶり)を振る陽子を柔らかに押し留め、景麒は言った。
「主上が下さるのであれば、苦しい事でも嬉しい。――譬えそれを他人(ひと)が不幸と言っても、主上と共にあるのであれば、わたしは倖せなのです」
そう言って景麒は、陽子を少しだけ離すと、濡れた瞳を正面から見詰める。
「…主上が望まれるのであれば、わたしは未来永劫、貴女の傍におります。そしてそれは、わたしの望みでもあります。
…ですから、離れよ、などと二度と御命令なさらないで下さい」
どうか、御傍に――景麒は陽子の耳に囁く。
景麒、と陽子の唇が音も無く動いた。止みかけていた涙が、見る間に目尻に膨らみ、弾ける。陽子は小さな頭を摺り寄せて、景麒に身を預けた。
「…御泣きになるな…」
上手く微笑えない貌で少し微笑むと、景麒は自分の額を陽子の額に寄せ、右手で涙に濡れる頬を優しく包んだ。
陽子は瞳を閉じ、頬に触れる手に手を重ねて、伝わる温もりに想いの全てを委ねる。
その貌を見詰めている景麒の胸には、彼女に対する想いが満たされた。
恐怖や抵抗が溶けるように引いて、ただ只管、愛しい気持ちばかりが降り積る。
――愛してしまったものは、仕方が無い。
景麒は陽子の瞳から溢れてくる熱い雫をそっと拭うと、その顔を軽く仰向かせて、静かに主人の唇を求めた。
ふ、と浚うように触れて直ぐに離れる。薄く目を開くと、その先で何かを訴えるように、翡翠が景麒を見詰めていた。
――目が合った瞬間、鼓膜に、ぷちん、と心の留め金が外れる音が響いた。
景麒は添えた手で陽子の顎を引き寄せ、強く唇を重ねる。存在感を確かめさせるようなキスに、陽子の睫毛が戦慄いた。貪るような景麒の仕草に一瞬戸惑うが、それでもぎこちなくそれを受け容れると、彼の為すがままに身体を放す。
重ねられるだけの口付けは、やがて深さを増していく。全てを感じたがるように、景麒は陽子の柔らかい唇を吸い、角度を変えて何度も何度も口付けた。
唇を通わせ、求めて離れては、触れ合う。それは繰り返されるたびに、どんどん激しくなっていく。
「…んん……っ」
呼吸を妨げられた陽子が、苦しげな声を漏らした。景麒に縋る指先に力が篭り、爪の先が真白に染まる。
気の遠くなるような長い口付けの末、求め足りなくなった景麒の舌が陽子の薄紅の唇を割いて中に流れ込んだ。
「ぁ…ふ、…っぅ…」
口内を侵蝕する舌は、翻弄するように陽子に絡まって自由を奪う。舌から舌へ、ほんのりとした甘さと熱とが伝えられる。
深まり行く初めての求愛に、陽子の身体は困って持て余された。陽子は、普段の彼からは想像もつかない身の振りに震え、くらりと意識があやふやになっていく感覚に浸された。
どくどく、と心拍が焦って速まるのが解る。まるで意識と切り離されるかのように、胸の内から体温が上がり始め、少しずつ身体が何かを欲して変わっていく。
甘く痺れる全身倦怠感が陽子を包む。足に力が入れられなくて、陽子の膝がじりじりと地面に下がった。
景麒は崩れがちな少女を支え、有りっ丈の愛しさを込めて陽子の息を追い続ける。思ったよりも薄い背を抱き、紅に隠された後頭部を引き寄せて拘束し、逃げ入る隙を摘み取った。
心も身体も、疾うにそれだけでは済ませなくなっている。
「っんぅぅ…!!」
長過ぎる接吻に耐え切れなくて、陽子はがくりと崩れ落ちた。溢れた喘ぎに息を吐かせ、景麒が陽子から唇を外す。
「―――っは…っ、はぁっ」
息継ぎを許された陽子の肩が大きく上下に揺れている。景麒はふらつく陽子を抱き留め、彼女の呼吸が休まるまでの間を待った。
眩む視界、高鳴る鼓動、熱い吐息。極度の混乱状況に、ときめきを覚えた身体の中が、鳴き声を上げている。
先刻までの混乱とは明らかに違う処から来る切なさに酔いが回ったようで、陽子の身体には、何処にも落ち着きが残っていなかった。
――意識が溶ける。
重なる触れ合いに思考回路が霧散する。
掬っては零れる砂のように言葉が融けていくのは何の所為だろう。
それは陽子を抱える腕(かいな)の力か、窒息するほど強く塞いだ唇の魔法か。
―――それとも、それが、彼だったからだろうか。
「――…証を下賜(くだ)さいますか」
陽子の耳元で景麒が囁く。
「貴女がわたしを選んで下さったという証拠。これは幻ではないと、御教え下さい」
陽子は軽く瞬(しばた)き、夢見心地に浮く瞳を滑らせて景麒を見詰めた。
迎える彼の瞳の中に、強い光と明らかな欲情が湛えられている。言葉の真意を見付けて、陽子は頬に朱を昇らせた。
彼が望んでいる事――。
躊躇と羞恥、それから少しの不安が陽子の心を駆け抜ける。しかしそれはほんの僅かの事で、陽子の中で、出す答えは決まっていた。
「………ん」
陽子は真っ赤になって目を伏せ、こくり、と頷く。景麒は恥らう陽子をぐっと抱き上げた。そして華奢な外見に似合わぬ力で陽子を抱えて、己の臥室に足を向ける。
陽子は彼に運ばれる間ずっと景麒の首に顔を埋め、履(くつ)が床を踏み締める音に耳を澄ませていた。
牀榻に入り、陽子を臥台に下ろして腰掛けさせると、景麒はその前に跪いて膝を折った。
「御前を離れず、詔命に背かず、忠誠を誓うと誓約申し上げる」
出逢って以来、三度目の契約の詞(ことば)が灯りと音の無い臥室に現れる。
「―――許す…」
陽子がそれに応えると、景麒は黙ってその御足に口付けた。片方ずつ、両の履(くつ)を脱がせ、次に、陽子の膝に置かれた手をとり、甲に口付ける。
景麒の唇はそのまま陽子の上肢に向かった。
左右の首筋に一度ずつ、優しく触れるだけのキス。
景麒は肩を縮込ませて口付けを受ける陽子を気遣いながら、敷布の上にそっと倒した。
これから為す事に怯えるような気配を察して、景麒は陽子に、恐いですか、と小さく尋ねる。
「…ちょっとだけ」
短く答え、陽子は困った貌で微笑んだ。
幼子を宥めるように、景麒の掌が陽子の額を優しく撫でる。陽子はそれに、「大丈夫だよ」と言い、首を廻らして景麒の唇に触れた。
自分から近付いた陽子の唇は、ほんの少し震えていた。
本来なら、人を気遣う余裕なんて無いだろうに―――。
言葉にならない想いで胸が一杯になる。景麒は慈しみを込めた唇で陽子を慰撫した。
優しく触れながら、その手は下がって胸の上に。衣の上からでも、少し高めの体温と拍動が伝わってきた。
陽子は、景麒の首筋に腕を廻し、さらさらの髪に触れながら彼の一挙一動を身体に刻み込んでいく。
発展途上で止まった陽子の胸の膨らみに重なる大きな手。――この白くて綺麗な手が好き。
真っ直ぐに陽子だけを見詰める瞳。――この薄紫の瞳が好き。
「主上…」と陽子の耳を擽る通った声。――この透明な声が好き。
「…好き。大好き…」
闇に揺蕩う細い呟き。景麒のみに届く言の葉は、それだけで充分過ぎるほどに想いを繋げる。
首筋、鎖骨、肩口、胸元。唇で続く愛撫は穏やかに拡がっていく。
はだけられた襟口から褐色の肌が露わになる。
景麒の掌は、音も無くその下に這入(はい)り込み、素肌同士が直に温度を分かち合う。
肌をなぞる指先の感覚に、陽子は深く息を漏らした。
緊張と高揚が身体を駆け巡り、触れられるというただそれだけの行為に吐息が熱くなっていく。
耳に掛かる甘い息に誘われて、景麒は肌を浚う掌に少し力を加えた。
「…っ」
微かな刺激に反応して陽子の息が一瞬詰まる。その初心な反応が可愛くて、景麒は更に強く陽子の身体を触った。
触れる毎に上がり行く呼吸と体温に欲望が呼び起こされて、景麒の動きが大胆になる。
素肌の輪郭を撫でるだけだった掌が、勢いを含んで上肢を弄(まさぐ)り、熟りきれなかった胸を揉みしだく。
圧力に翻弄されて容を変える乳房がしっとりと汗ばんで景麒の肌に吸い付いた。
色付いて先を擡(もた)げる蕾に呼ばれて、景麒は尖った花先に舌を這わせた。
「きゃぁ?!」
心より敏感な身体が、てろりとした感触に驚き、陽子は思わず高い声を上げる。
陽子は自分で出した声に羞恥を感じ、真っ赤になって口を押さえた。
恥じ入ったその仕草に欲情が刺激される。景麒は甘さの足りない蒼い果実を舐めまわした。
「…アっ」
くちゅくちゅと音を立てて乳房を吸われ、もう一方では指と掌が硬さの残る実を辱める。
陽子は勝手に飛び出していく声を極力抑えながら、体性を研ぎ澄ませて景麒を感じた。
「んっ、ぁ、う…っん」
初めての接触に、異性を知らない無垢な身体が、男の匂いを覚えて艶やかに華やいでいく。
まるで度の強い酒精を呷ったような感覚と熱さに意識を侵蝕され、心が何処かに浮遊する錯覚に陥った。
――酔い心地に、頭がくらくらする。
景麒の掌が折り曲げた陽子の膝頭から裾を乱して中に入る。欲情して火照った景麒の肌に触れられ、陽子の下肢がぴくりと小さく痙攣した。
彼を受け容れようとする少女の意思に反して閉じかけてしまう膝を抑え、景麒はそっと内腿まで指を進ませた。
思ったよりも肉付きの良い脚を滑らかになぞりながら、指先が娘の部分を求める。
覆いの少ない茂みに景麒の手が触れる。開いたことの無い花は、僅かに緊張したまま景麒が来るのを待っていた。
「んく…っ」
これから起こる事に萎縮した陽子の咽喉が軽く鳴る。花を撫でた景麒の指先には少しの露が絡まって細い糸を引いた。
温まっているものの、これではまだ景麒を受け容れるのには堪えられない。
景麒は中途半端に弛んだ帯を解いて、一気に隠れた部分を晒した。
幼さを少し残すも、均整の取れた肢体が臥台の上に姿を現わす。唐突に全てを奪われ、夜の空気と景麒の視線に羞恥を思い出した陽子の身体がつぶさに震える。
弄んだ乳房から引き締まった腹に向けて口付けを流し、最後に蕾んだままの花の潜む場所へ。
陽子は彼の目線が躰の中に入ったのを感じて、
「…や…!恥ずかしぃ…っ」
と厭を伝えた。しかし、濡れた瞳も、ほんのりと赤らんだ頬も、上ずった恥らいの声ですら、景麒にとっては徴発にしかならない。
欲望に急く唇が目醒めを経験しない陽子の蕾を捕らえた。
「ひ…っ!」
長い舌が花弁の外側をざらりと舐める。未知の触覚に怯える躰を抑え込んで、景麒は撫和を続けた。
ぴちゃぴちゃ、と水気の滴る音が陽子の破廉恥な心を刺激する。
「ん…っんん…、ん…っ」
ざわめく舌に快楽を掘り起こされて、陽子は性感に息を弾ませた。
臥台に突き立てた爪先が、かくかくと震えて必死に何かに耐えている。
開花に弛んだ花弁から、隠し込まれた花の芽が背を伸ばした。尖った舌先で景麒はそれを撫でまわして口に含む。
「やぁあぁぁっ!!」
堪えきれなくなった陽子の唇から嬌声が迸った。
勢いに醒めた花から甘い蜜が溢れ始める。それがもっと欲しくて、景麒は花の奥に舌を伸ばした。
「あ、あ…っ、ぁああ…!」
快感に打ち震えながら、必死に自我を離さぬように迫り来る波に抗う。
その一方で、もう一人の自分が未だ得た事の無い快感を求めて波に揉まれる。
理性と淫楽の狭間に揺られ、陽子は熱に浮く喘ぎを上げた。
愛撫を施す景麒自身、淫らな悶えに迷う主人に誘われて、理性を抑え込めなくなってきていた。
卑猥な彩(いろ)にぬめる花芯を強く吸うと、無理強いに開かせた少女の脚が大きく戦慄く。
「……っあぁ―――――…ッッ!!!」
ふわりと空中に投げ出されるような甘い感覚に、陽子の意識は一度遠のいた。
荒い息を吐きながら褥に沈む少女から身体を上げると、景麒は自らを覆うものを取り去っていった。
無造作に離された絹の衣が音も無く床に滑り落ちて、窓から射す月影に鈍く輝く。
景麒は、紅い髪を汗で額に張り付かせて息削る少女を引き寄せて抱えると、乱れ髪を梳(くしけず)る指先で、主人の頬を優しく撫でた。
二度三度、軽く口付けると、鮮やかな翠に輝く瞳が少し微笑い、受諾するように頷いた。
景麒はその瞼に接吻を施し、両手を陽子の腰に廻して抱き寄せる。
深く息を吸うと、花先から静かに身を沈めていった。拡がりの浅い蕾はとても狭く、異物を恐がるように強張っている。
内壁に侵入を妨げられ、思うように上手く進めない。じりじりと時間を掛け、景麒はゆっくりと陽子の中に這入り込んだ。
進出の中途で、景麒は何かに引っ掛かるように止まった。
それから先に進むのをやや躊躇うが、景麒は、陽子が息を吸うのに合わせて最後の一手を貫かせる。
「――――ぃ…っ―――…!!」
顔の近くに置かれた陽子の掌がぎゅっときつく握り締められた。
陽子は唇を噛み締め、じっと痛みに耐えている。
主人と繋がった景麒も破瓜の血の気に当てられ、悪酔いしそうな心持ちになった。
――だがそれが如何したと言う。本当に辛いのは彼女の方だ。
景麒は、自分の掌に爪を立てる陽子の拳を掌に包み込んだ。そうすると、救い求めるように、陽子の指が景麒の指に絡んでくる。
それに応えて、景麒は、陽子の指に、確りと指を絡ませた。
「…そのままでは、唇が切れてしまいます」
景麒は力の篭った陽子の唇に、自分の唇を割り込ませる。
「っふ…!?景麒、だめ…!」
「傷付けるのであればわたしを。わたしは一向に構いません」
離れた唇がまた触れ合う。無理矢理組み重ねた景麒の唇を、痛みに堪えきれなかった陽子の歯先が、がり、と噛み切った。
傷付けられた唇から一条の赫い線が零れる。
重なり合ったまま堪えること暫し――不意に陽子から痛みに抗う力が緩んだ。
「ごめんね…?」
陽子は小さく謝って景麒の肌を汚した赫いものと傷痕をそっと舌で舐め取る。
「痛かったよね?…血も、駄目なのに」
「わたしのことなど。御辛いのは、主上の方です。御身体は――宜しいのですか?」
「うん。まだ…少し痛いけど…けど、もう、平気だから」
そう答えて、陽子は儚げに微笑った。
「…痛みより、景麒と一つになれた嬉しさの方が強いんだ。…だから、もう大丈夫」
精一杯の気遣いで景麒に語りかける姿がいじらしい。
景麒は不器用に微笑んで陽子を硝子細工でも扱うような手つきで大切に抱いた。
抱かれながら、陽子は軽く首を傾いで、「ねえ景麒」と下僕に呼びかける。
「…続きをしようか」
景麒が陽子の申し出に瞠目すると、陽子は面映げな貌で景麒を見詰める。
「――若しもこの先があるとしたら、連れてって欲しい。もっと景麒を感じたいから。
…だからその先は、景麒と一緒に行きたい。…導いてくれる?」
上目遣いの目線が可愛らしくも艶(あで)やかに望みを乞う。
「主上さえよろしければ…」
景麒は口先だけで答えると陽子の放つ、未熟な甘い誘いに乗って、穏やかに動き始めた。
流石にまだ痛みが引ききらないのか、陽子の貌には苦痛の翳が見える。
しかしそれも時が経るに従って様相を変えていった。
落ち着きかけた鼓動がまた高鳴って、呼吸が乱れ始める。
唇からは甘い喘ぎが零れた出した。
「…うぁ…っぅん…っぁあ…!!」
陽子は、傷みの為とも、快楽の為とも見分けの付かない顰(ひそみ)に貌を歪めさせる。
愁眉を寄せる貌ですら美しい、と景麒はその貌に見惚れた。
腰の動きは加速度を増して激しくなる。
深く突かれては戻って浅く入り、また深くなる。陽子の身体は寄せて返す躰の熱さと圧力が運ぶ快感に呑まれていった。
「ふ…、ん…っ、ぁ、あ、あんっ!けい…き…っ」
繋いだ手を強く強く握り締め、陽子は何度も彼を呼ぶ。
「景麒、景麒、けいき…っ!ああ!!」
一つ呼び声が重なるたびに、景麒の胸に不思議な感覚が積もった。
彼女に呼ばれるととても気持ちが良くて、自らを現わす味気ない号が大事なものに思える。
――特別大事な彼女が紡ぐ言葉だからか。
そう思うと途端に愛しさが躰の隅々までを浸透していく。
「主上…っ」
思わず声を上げると、陽子は潤んだ瞳を景麒に向け、「名前で、呼んで…」と言った。
「ずっと…、聴きたか…っ…わたしの、なまえ…景麒…の、こえで、呼んで欲しい…のぉっ」
「…っ、陽子さま…」
景麒はその願いに一瞬躊躇ったが、愛しい人の望みに応えて初めてその名を口にした。
名を呼ぶと言う行為が主従と言う壁を取り崩し、親密さを与える。
ぽろりと一粒、陽子の睫毛を濡らすものが零れ落ちた。
――聴きたい。もう一度、ちゃんと呼ぶ声を聴かせて欲しい。
望みに忠実なままに、陽子は喘ぎと涙声の混ざった声で哀願する。
「…おねが…ぃ…っ…聴か、せて…もっと、呼ん…でぇっ…!」
「…っ陽子さま…!ようこさま…っ!!」
混濁する意識の中に名を呼ぶ声が溶けて流れる。
重なる躰に、融け合う心に、そして愛しの名を呼び合う幸福に。その全てが一つに混じって大きな波を作り出した。
最高潮の快楽が二人を躰から、心ごと浚って深くに堕としていく。
躰が果てて思考が途切れるその瞬間まで、二人は互いを求め続けた。
密かに目を覚ました景麒は、傍らで寝息を立てる陽子に腕枕しながら、その寝顔を厭かない貌で眺めていた。
愛しきを見詰める瞳の中に覚悟に似た強い思いが映っている。
もう決して失うものか、と景麒は思った。
――一生放さない。今度は、どんなに離れろと言われても着いて行く。
彼女が辿ると言うならば、どんな急勾配の野道でも、茨の繁る棘の海でも進んでいく。
その先がいつの日にか黄泉路に変わろうとも、喜んで歩み続ける。
彼女が変わってしまったとしても、望むべくは最期まで供をする。
これは自分の気持ちに向き合った時に決めた事だった。
――不自由な運命の中で得られた自由。限られた永久(とこしえ)を彼女の為に捧げる。
「心は、いつでも貴女と共に――」
音にも成らなかった囁きを呟くと、景麒は眠れる美姫の紅い唇に重ねるだけの接吻を落とした。
窓の外には星の降る空。いつもと同じで、全てが変わった十六夜の晩の事だった。
《了》