作者:361さん >669-672、687-691、709-712 @二冊目

深夜に近い刻限の事だった。
景麒は自室で何をするでもなく時間を費やしている。其の時、廊屋の方からある気配を感じて、景麒は入り口に目を向けた。
「…景麒、居るか」
部屋の外から掛かる声は、紛う事無き主人のもの。
「はい」
「――話がある。入ってもいいか」
「…どうぞ」
言いらえの後に空気が動いて、其れと同時に主人が姿を現わした。就寝前らしく、夜着に薄物、と云う軽装。しかし、衣装に反して表情は沈んだように重く厳しい。――切羽詰った何かを感じさせるほどに。
「…如何なさいましたか」
険呑な陽子の表情を不審がりながらも、主人相手に立ち話をさせる訳にも行かないので、景麒は声を掛けながら椅子を示す。陽子は真っ直ぐ景麒に近付いて、すぐ済むから、と首を横に振って其れに従わなかった。
二人きりの室内で距離が狭まり、景麒は少し居心地の悪そうな貌をする。其の微妙な表情の変化を見取って、陽子は険しい貌を益々険しくした。
陽子は鋭いほどの目線で景麒を見詰めながら、無言で足を一歩踏み出し、更に距離を打ち消す。しかし景麒は、其の刺すような視線に耐えかねて、軽く目を逸らしてから、足を一歩後ろに下がらせた。景麒が後退した瞬間、陽子は軽く唇を噛んだ。
「何故逃げる」
視線と同じ、刺すような声。
「…――此処最近、わたしの事を避けているだろう…?」
低い声色で、陽子は言う。
「…そんな事は」
「ある」
否定しかけた景麒の言葉を、陽子は打ち消す。じり、と陽子がまた一歩足を踏み出した。――距離が詰まる度に、景麒の中で鼓動が速まっていく。
余り不用意に近付かないで欲しい、と頭では思うものの足は既に凍りついたように動かなくなっていた。
「何で急に避け始めたか――その理由を訊いてもいいか」
「…避けてなどおりません」
「嘘を吐くな」
鋭い切り返しが言葉を封じる。景麒が言葉を選び損ねて硬直している様を見ながら、陽子は静かに手を伸ばした。真っ直ぐに伸ばされた左手が、景麒の白い貌に触れる。其の瞬間、景麒は僅かに身体をびくつかせた。
拒絶するような反応を感じて、陽子は表情に苦いものを混ぜる――が、すぐに自嘲気味の表情を浮かべて手を引いた。
「…なるほど。それほどわたしが疎ましいか」
吐き出すような言葉に、景麒は瞠目して主人を見詰める。視点の先で小柄な主人が、歪んだ微笑で笑っていた。
「拒絶したくなるほどわたしが嫌か?――では如何して抱いたりしたんだ?気紛れか?」
陽子は吐き棄てるように呟いた。
――主従を超えた関係で契りを結んだのが一月前のこと。
禁忌に値する関わりをもつ事――これは二人だけの秘め事だった。
しかし密約を交わしてから――景麒は一度も主人に触れようとしなかった。
其れどころか最近は用が無ければ、陽子に近付く事さえない。
主人と離別する事を厭うと云われる麒麟に、距離を置かれる。――陽子には其の理由が、如何しても解らなかった。
理由を思うほど、焦燥感に胸を灼かれる。行き場の無い苛立ちが、影となって始終付き纏う。――はっきりしない事は嫌いだったから、決着を付けようと思った。
そして今、陽子は彼に近付いてみて、其の訳が解った気がした。
――何の事は無い。ただ、疎ましいだけ…。
震え出しそうになる身体を必死で抑えながら、陽子は言った。
「失望した?容易く許しを与えた事で、誰とでも関係を持てる、身持ちの緩い女だとでも思ったか…!?」
軋むような胸の痛みが苛立ちを湧き出させるから、自然と語尾がきつくなる。
――嬉しかったのに。
特別に大事だと思う相手が、慕って愛してくれると云う事が途方も無く嬉しかった。――だから許したのに。
裏切られたような――絶望的な気分で、陽子は景麒を見詰めた。凍えた翡翠と無機質な紫が交差する。
「慕っていた、と云う言葉は嘘か?それともそれは、わたしがお前の主だから?」
「主上」
誰でも良いんだろう、と陽子は景麒の呼び掛けを遮って叫んだ。
「主人であれば、わたしでなくても――何でも良かったんだろう…ッ!!」
「主上!!」
景麒は心を乱されて喚く主人に手を伸ばす。陽子は其の手を力任せに振り払った。
「触るな!!」
手を弾かれて、景麒は表情を凍らせた。
「…無かった事にしよう」
息を震わせて、陽子は景麒を見据える。――本当は今にでも泣き出しそうだった。
「…この間の事は、全部忘れる。なに、大した事じゃない。夢を見ていたと思えばすぐに忘れてしまう。『わたし達の間には、何も無かった』。…それでいいだろう…?」
切り詰められた言葉の隙間から、傷んだ想いが零れてしまいそうだった。其れ以上を口にすると涙になる気がして、陽子は口を噤む。
「――…話はそれだけだ」
俯き視線を逸らして、邪魔をした、と言うと、陽子は返事を待たず、景麒に背を向けた。景麒は主人の後ろ姿を無表情に見詰める。
陽子が足を踏み出そうとした、其の瞬間、景麒は後ろから陽子を抱き上げた。
「―――な?!」
あまりにも突飛な行動に、陽子は声を失った。陽子が呆然として抵抗を忘れている間に、景麒は陽子を抱えたまま無言で自分の牀榻に押し入る。そして柔らかな褥の上に、どさ、と乱暴に放り出した。
景麒は主人が慌てて身体を起こそうとした処を、封じるように圧し掛かる。細い両手首を臥台に押し当て、自由を奪った。
状況に錯乱しながら陽子が顔を上げる。――其の先に、表情の乏しい彼の、怒ったような貌。
無言のまま、景麒は羽交い絞めた主人の首筋に唇をつけた。
「や、やだッ!!」
冷たい唇に項を吸われながら、陽子は拘束から逃れようと必死で身を捩る。しかし引き剥がそうともがけばもがくほど、圧迫する景麒の掌に力が篭る。
「嫌だ!!離せ!!言う事を聴かないかっ!!」
暴れて動いた分、生まれた綻びから夜着の合わせ目を崩される。崩れ落ちた襟の隙間が、新たな侵入を許す。ざらついた舌の感触が鎖骨を滑った。
抵抗も空しく、緊縛が濃くなる。突き立てた脚の間を強引に膝で割られて襦袢の裾が捲れ、露わになった太腿が夜の冷気に晒される。
「――――ぃやぁぁ…っ!!」
――同情のつもりか。惑う姿が憐れだったか。何の言葉も無しに身体を重ねようとしている。
嫌を叫びながら陽子は思った。
――酷い。その気もないくせに、こんな事――――。
悔しさと哀しさと。抉られるような胸の痛みに、堪えていた涙が溢れて頬を伝った。
吐息を詰めて落涙する様子を感じて、景麒の背に躊躇いが生じた。封じた手首はそのままに、そっと唇を離して暫し逡巡する。
「――自分の主人、ただそれだけで愛せるというなら、苦労なんてしなかったでしょう…」
沈黙を破って、陽子の耳元に、静かに声が落とされる。行動と相反する切なげな声色に、陽子の身体が一瞬怯んだ。
「気紛れや義務感で容易に誰かを抱けるほど、わたしは自分を割り切れません。『如何して抱いた』?…それは、貴女が貴女だった所為です。他の誰でも無い、貴女だから愛しかった。貴女だから欲しかった。…貴女だから、抱いてしまいたいと、ずっと思っていたんです」
「―――うそだ…」
なら、如何して――――。
強張ったまま、茫然と陽子は呟く。ゆるゆると涙の滑る翠の瞳に、傷付いたような表情が霞んで映った。
「近付き方が解らなかった、と言ったら、貴女は御笑いになりますか――?」
呟いて、景麒は苦しそうに息を吐いた。
――最初は嫌悪感すら抱いた新しい主に心奪われる時が来るなど、予想もしていなかった。
前の主人とよく似た少女。しかし卑屈に怯えていた娘は大きく変わって、しなやかな強さを身に付ける。
景麒が、頑固で無鉄砲でだけど誠実な主人を、いつの間にか愛してしまっている事に気付いたのは、そう遠い過去ではない。
そして忠誠以上の想いを抱いてしまってから、想いと折り合いを付けるのに精一杯だった。
未来の不安定な政権に君する彼女は、王としてはまだ拙い。
私的な事で煩わせるわけには行かない。まして、主人を狂わせた過去を持つ者が、この国で女王とわりない仲を望む事など。
――それでも、想いを叶えてしまいたい衝動に駆られた。
不図した瞬間に垣間見せる、無防備に微笑う顔を見るたびに、いっそ身体ごと愛してしまいたい、と何度思った事だろう。
だからその夢が叶った時、罪悪感に拉がれながらも、歓びで胸が一杯だった。
しかし、限りなく近付けるように成った分、手加減の仕方が判らなくなった。――心はいつでも其の身体を欲している事に、気付いてしまったから。
「放って置けば委細構わず手を伸ばしてしまいそうだった。何をするか見当も付かない――そんな自分が恐かったんです」
抑えきれない想いを通えてしまったら、今度は失う事が恐くなった。
愛しむ以上に欲する想い――其れが露見して嫌われたくなかったから、自分を遠ざけるしかなかった。――そうやって欲情に蓋をしてきた。
だが其の抑制は、目が合えば揺るぎ、近付かれれば緩み、触れられれば簡単に崩れるほど脆いもの。
想いに相反する行動は、無理が祟って破綻を来たした。
当の本人に誤解されて拒絶された上、『大したことじゃなかった』と言われて逆上し、理性が吹き飛んだ。――其の結果が、今の有様。
――情けを下賜される身でありながら立場を忘れ、強姦しかけといて嫌われたくないなどとは、とんだ御笑い種だ。
景麒は自嘲すると、臥台に縛り付けた主人の手首を離した。
「失望したのは主上の方でしょう。――御不興を許してくれ、とは勿論言いません。御心のままに、罰して下さって結構です」
申し訳御座居ませんでした、と言うと景麒は主人の上から身を引いた。
微かに震えながら、陽子はのろのろと起き上がる。涙で濡れる瞳で景麒を睨み付け、「―――勝手だな」と呟いた。
「近付いたり、遠ざかったり。お前の身勝手さには、呆れて言葉が出ない」
返す言葉も無い、と云う風に景麒は目を閉じる。陽子は無抵抗な彼の胸倉を掴み、「この、大馬鹿者…っ」と吐き棄てると、思い切り引き寄せて彼の唇に自分の其れを押し付けた。
景麒は自分のされている事が解らず、思わず目を見開いた。陽子は硬直した下僕の態度を無視して更に強く唇を重ね、息を詰めさせる。飽きれるほど長い間キスした後、漸く唇を離すと、息を弾ませながら、陽子は言った。
「お前の行動からじゃ、何考えてるか全然解らない。自分一人で勝手に決めて勝手に行動して。全部お前次第って訳か?じゃあ何だ?わたしの気持ちは如何でも良いのか?!巫山戯るな!!」
正面から景麒を見据え、また泣き出しそうな貌で、「苦しかったんだからな」と陽子は呟く。――其の切なげで危うい表情は、抑えを切り崩すには充分なもの。
「嫌われてるかも知れないって…、何に失望させたんだろうって、幾等考えても解らなくて。ずっとずっと苦しかっ…」
情欲をそそる表情に理性の箍を外され、景麒は終わりを聴かずに陽子の唇を封じて言葉を遮った。勢いに任せて再び臥台に押し倒し、貪るように何度も何度も口付ける。
「――ずる…い。…そうやって、いいたい事も言わせてくれない…」
「…徴発されて何もせずに居られるほど、わたしは気が長くないんです。…貴女が愛しげだから、いけない。―――今日はもう、このまま…」
長い間抑圧していた想いが急速に解き放たれて、言葉が行動に追い着かない。景麒は何かに追い立てられるように、陽子を愛し始めた。
「あ…っ」
途中だった首筋のキスから滑るように繋いで胸元を広げ、艶やかな肌を慈しんで紅い華を咲かせていく。
一輪花が咲くと、其処が火が燈ったように熱を持つ。痛いくらいのキスは、背徳の烙印。息吐く間も無く幾つも幾つも、刻み込まれる。
景麒は、陽子の夜着を括る腰紐に手を掛け、微かな衣擦れを立てながら一気に奪い去った。身体を隔つ衣も乱して剥ぎ取り、初めて愛した時には残せなかった痕を、今度は惜しげもなく付けていく。――これは、ちゃんと愛した証としての置き土産。
夢じゃないという事を、この華の烙印が証明してくれる。項、鎖骨、胸元に沢山振り撒き、首の裏にも捲いておく。
「あ…馬鹿っ!なんて処に…」
「…高襟に隠されて見えませんよ…」
景麒が熱い息を吹きかけ、耳朶を甘噛みすると陽子の吐息が乱れた。
触れられて熱を帯びてきた肌は、敷布の絹が擦れるだけでも身体を昂ぶらせる。一月前に愛されたきり放置された身体に眠る、忘れかけていた感覚が、細胞の奥から蘇る。
「ぁう…っ」
景麒が柔らかな陽子の乳房を擽り揉みしだき、最後に蕾を揶揄うと、涙声にも似た悩ましげな声が、陽子の咽喉元から零れる。
其の甘い響きが景麒の欲情を掻き立てる。抑え込まれた想いが暴走しそうに景麒の身体を突き動かした。
景麒は陽子の胸元に顔を埋め、転がすように舌で乳房を弄ぶ。其の一方で緩やかに開かれた脚に指を這わせ、震える肢体を攻め立てた。
「はぁ…あっ…ぁあ…」
景麒が動く度に、細い髪が陽子の肌を浚う。陽子の身体は、其の微かな感触にすら、反応してしまう。
躯の奥から突き上げるような熱が込み上げる。堪えていた何かが一気に溶かされて、溢れていく。
――これほど自分に堪え性が無いとは思わなかった。
羞恥に頬を染めながらも、陽子は求めるように縋り付いて景麒の素肌を抱き締めた。
見掛けより細い景麒の首に手を廻し、愛しそうに頭を抱える。
其の重さや輪郭、体温や吐息――総てが間近に感じられる。
――忘れられない。忘れられる訳がない。だってこんなにも、身体が欲している。
「――せて…」
陽子は吐息混じりの甘い声で、景麒の耳元に小さく囁く。景麒は其の微かな呟きに顔を上げた。
「大した事じゃない、なんて嘘だ。この一月、忘れた事なんて一度も無かった…」
震える声で揺蕩うように呟いて、腕に抱いた景麒を引き寄せる。耳元に顔を寄せ、陽子は哀願するように囁いた。
「だから感じたい。夢じゃないって、信じさせて…」
口を吐いて出た先刻の暴言は、本心を偽る為の目眩まし。
一月前から関係が変わって、其の日を境に景麒から遠ざけられるようになった。
極端過ぎる態度も最初の内は辛抱出来たが、時間の経過と共に苛立ちに代わる。気が付くと妄執が湧き出て、思考を侵されていた。
厭われているかも知れないと云う疑心に息を奪われ、謀られたかも知れないと云う猜疑に胸を焦がされる。
必死で見ない振りをしていたが、当の本人とは嫌でも顔を付き合わせるから、懐疑が深まるばかりで離れてくれない。
いっそ自分の方から近付いてみる事も出来なくはなかった。でも、自分の立場で抱いてと言ったら命令に成る気がして、気が引ける。
――そんな心無い関係なんか持ちたくもない。だけど、心が執着を覚え始めている。
このまま放っておけば想いが砕けて、先の女王の二の舞になると思った。――彼の為にも自分の為にも、何より国の為に同じ轍は決して踏みたくない。今なら、まだ引き返せる処に居る。
そう考えたから、何もなかった事にしようと決めた。あれは白昼夢。幻想だった事にすれば、きっといつか忘れてしまえる。そうしたら、他愛も無いことだと微笑える日が来るだろう。――そう、自分に言い聞かせなければ遣って行けなかった。
でも遅い。知らぬ内に、引き返せない処まで足を踏み入れていた。
――――離れたくない。手放したくない――――。
愛されたいと、身体が叫んでいる。
「主上…っ」
囁きに応えるように、景麒は陽子に口付ける。唇の隙間から舌を忍ばせ、浮ついた舌に激しく絡ませた。
景麒の首筋を支える陽子の指先に力が篭る。口内を犯し合う毎に、景麒の白い肌にうっすらと赤い線が付いていく。――これは愛された証。想いを交えたと云う、確かな標。
証を付け合いながら、景麒は陽子の下腹に指を滑らせる。薄く夜露を湛えた花弁を指の腹で擦れば、花芯が戦慄いた。
「はぅあ…!」
細い指が静かに沈み込み、絡め取るように中を掻き回す。次第に溢れてくる微かな水音が、深夜の帳を引いていく。
乳房を吸う景麒の唇が、ゆっくりと這うように下肢に降りる。なだらかな女体の曲線を追う舌が下腹に辿り着くと、景麒は陽子の脚を肩に担ぎ上げた。
「やだっ、そんなとこ…」
恥部を覗かれる恥ずかしさに陽子は顔を真っ赤にして腰を引きかけるが、景麒の指がしっかりと脚を捕えている為、逃げられない。
「本当の貴女をもっと知りたい…」
景麒は囁き、濡れた花の隙間に舌を忍ばせた。指とはまた違う感触に、躯が波打つ。
「あぅんッ!!」
尖った舌先が花の芽を愛でてとろけさせる。宥め透かし、という其の愛撫に陽子は嘶いた。
「ぅく、あ、ぁぁ…」
しどけなく舌が彷徨う度に、臥台に投げ出された陽子の足の指先が痙攣する。あらゆる感触に昂ぶりを覚える身体には、過ぎた刺激だった。揺れ惑う陽子の緑瞳から涙が零れる。
「んんっあ、やぁぁんッ!!」
執拗な追駆に耐え切れなくて、陽子は逃れるような素振りを見せる。だが、景麒が其れを許してくれない。
「駄目、景麒…っもう、――あ、ああぁぁ!!」
退路を断たれた身体は一心不乱に愛撫を受容する。無理矢理焚き付けられる快楽が理性を蹴散らし、思考力を低下させていった。
景麒が火照った花弁に口付け優しく吸うと、陽子は切なくも妖しい涙声とも溜め息ともつかない喘ぎを零す。
其の、色香に艶めく主人の様子が他の何より愛しくて、狂おしいほどの激情を煽られる。
――これ以上は、もう待てない。
景麒は顔を上げて起き上がり、ゆっくりと主人の上に詰め寄った。
「近付いても、宜しいか…?」
いつもは平坦な景麒の声が、今は乱れて掠れている。陽子は震える吐息の下で途切れ途切れに答えた。
「…それ、は…許しが、要ること…なのか?」
濡れた睫毛が瞬いて、はらりと静かに涙が滑る。泣き笑いに微笑み、陽子は首を廻らせて景麒にキスした。
「―――お前には、もう、全てを許した…から…。…だからお前の、好きにして、いい…」
受諾の言葉と儚く揺れる笑顔に触れた瞬間、景麒の頭の中で、何かがブツリと音を立てて弾け飛んだ。
景麒は返す言葉も惜しんで、力の抜けた陽子の脚を押し広げ、強引に内部に入り込む。豹変とも言える其の荒々しさに、陽子は声にならない悲鳴を上げた。
「―――っぁ…っ…」
驚いて竦む陽子の躯を他所に、景麒は自身を奥深くまで貫き通す。主人の華奢な身体に覆い被さり、昂ぶる心其のままに細腰を突き上げた。
「んぅッ…!待ってっ…景…っ、はげし…!あ、ひあぁぁっ!!」
がくがくと揺さぶりを掛けながら、必要以上に煽り立てる。其の容赦無い侵入に、ギリギリまで塞ぎ込まれていた陽子の悦楽が抉じ開けられる。
「っあああああ――!!!」
宙空に放り出された陽子の容の良い脚が大きく戦慄き、小指を反り返らせる。其の夜、初めての昂ぶりに達した。
景麒は一度目の昂揚に脱力した主人の身体を抱き直し、暇無くとろけた躯を捲くし立てる。
「あう…ッ…!!」
解き放たれた官能が新たな刺激に目覚め、途切れた快楽が再び膨れ上がった。
「んっ…あぁっふぁああ…」
急かすような動きが内壁を摩擦して爛れるような熱さを生み出す。攻められて攻められて、多感な躯は容易く高みを超えてしまう。
絞り出すような嬌声が灯りの絶えた部屋に響き渡った。
――足りない。
景麒は極みに達して痙攣する陽子をうつ伏せにし、脚を開かせて激しく昂ぶる自身を深みに忍び込ませる。
「んくッ…!」
ビクッと、褥に押し付けられた陽子の肩が強く震えた。
景麒は浮かせた腰を引き寄せ、奥深くを探るように陽子の躯を掻き乱す。陽子の意志に関わらず、初めての姿勢でくびれた内部が捲き付くように彼を受け容れる。其のまま褥に沈められるように激しく打たれて、きつく結び付いた躯は否応無しに息衝かされた。
「はぁぁぁぁあん!!ああ、んあぁ…っ!!」
達しても達しても無理矢理急き立てられれば、何度でも昂ぶりが蘇る。次第に声が掠れて音にもならなくなった。
――自分が自分じゃないみたいだ。
陶然とした瞳で陽子はぼんやりと思う。
空かずに何度も愛され続けて、とうとう動く事すらまま成らなくなった。
狂ったような愛撫に意識を跳ばされ、四肢に力が入れられない。其れなのに、追い込まれる其処の感覚だけは妙に鮮明で。
もう何度快楽に飲み込まれてしまったか判らない。其れでも、堕ちる度に景麒が引き上げて離してくれない。
――もう、何も考えられない――。
虚ろな瞳で褥に埋もれ、為すがままにされる陽子を、景麒は愁眉を寄せて悲愴に見詰めた。
繰り返し繰り返し攻め続けた主人はまるで何かが切れてしまったかのように動けずにいる。
其処まで彼女を追い込んだのは自分なのに、身体を突き動かす衝動は枯れる兆しを見せようとしない。
其れどころか、身を沈めれば沈める分、欲望が深くなる。
――足りない。どんなに愛しても、愛し足りない。
まるで陵辱するように押し入り、引き裂くように腰を突き上げる。臥台に押し付けられた主人の脚が強く引き攣った。
一つ動く度に臥台が軋みを上げる。景麒は息を詰めて動きを早め、時を置かずして積み重なった欲望を吐き出した。其れでも、吐き出した傍から、新たな昂騰が湧き出る。
――もっと欲しい…。
抑制していた分が何倍にも膨らんで、怒涛のように押し寄せる。猛り狂って暴走した本心が言う事を利かない。
――欲しい。もっともっと、壊れるまで愛したい。
絶え間無い劣情が僅かな理性を押し切る。餓えた獣が得物を屠るように、景麒は無抵抗な主人の身体を乱して侵した。
「っ…ぁ、ぁぁ…っ…」
組み伏した身体が景麒の下で喘ぐように息を吐く。其の愁うような貌を瞳に映すと、締め付けられるように胸が痛んだ。
――初めて抱いた時とは比べ物にならないほど無理をさせている。
頭では解っているのに、欲情に負けた気持ちが急いて、世界で一番愛しい人なのに気遣う事が出来ない。可哀想と思うのは心だけで、身体は肢体をいたぶり続ける。
――嗚呼、だから抑えてきたのに。
浅ましい本性を晒して嫌われたくなかったから、自ら触れる事を禁じた。行き過ぎた真似をして棄てられる事が恐かったから、抑えられるのであればと、必死で自我を封じ続けた。
でも遅い。本当は気付いていた。押さえ込めるような処には居ないと。
――――離れたくない。手放されたくない――――。
全身全霊が、愛していたいと求めている。
景麒は陽子の細い身体を抱き上げると、しな垂れた肩を支えて首筋に顔を埋め、背中に烙印を彫り込んだ。背筋を啄ばめば、惑うように其の身体が靡く。
悦楽を詠う甘美な啼き声が夜の空気に流れて闇に虚ろう。其の響きが哀しいほどに恋しくて無性に顔が見たくなり、景麒は陽子の背を抱えて身体の向きを変えさせた。
正面から臨むと、脱力して陶然とした主人の貌が無法に重ね続けた罪悪を浮き彫りにする。瞬間、罪の意識に駆られて、息が詰まった。吹き出る衝動を僅かに残った良心で封じ、景麒は小さく許しを乞いながら、慈しむように陽子に口付ける。
何度も繰り返されるうちに、其の恋情と憐情が、止まった陽子の思考に息を吹き返させる風に変わった。ゆっくりと、陽子は断片化した自分を取り戻していく。浮上すると陽子は瞳に光を湛え、震える指先を伸ばして景麒の頬を優しく捕えると、慰めるようにキスを返した。
「――…いい…よ。何したって、いい…。――だって……」
贖いの言葉に応えた儚げな声が、途切れ途切れに景麒の耳に届く。景麒が伏せ目を上げて主人を見詰めると、陽子は躊躇いがちに囁いた。
「…欲しかっから…。…ほんとは、ずっと…」
玉座に就いて以来、初めて耳にする脆弱な声。景麒が驚愕に言葉を失えば、陽子は消え入るように呟いた。
「……でも、口に出したら、軽蔑されそうで恐くて…。何かが壊れてしまう気がして、言えなかった…」
「――軽蔑なんて如何して出来ましょう。…いいえ、欲しがっていたのは、わたしの方です」
本当は知られたくなかった、と景麒は呟き、差し延べられた指先を取って唇にあてがった。
「こんな貪欲な本性など。…こうやって疵付けるようにしか愛せない…。――こうなる事が解っていたから、自分を誤魔化してきたのに…」
苦しげな本音を耳にして、鮮やかな翡翠が潤んで光を雫に変える。
――仮想に怯えて二の足を踏んでいたから擦れ違った。真正面から向き合えば、恐れる事なんて無かったはずなのに。
陽子は面映げに微笑んだ。
「―――もう、抱いてくれないって、思ってた……」
「無理です、そんな事。耐えられる訳がない」
「…本当?」
「嘘など吐きません」
其の憮然とした口調が如何にも彼らしい。陽子は、今の彼と平素の彼の姿とに差異を感じて、少しだけ微笑う。
「…貴女以外何も欲しくない…」
弱々しい笑顔に思慕を揺さぶられ、独白して景麒は主人を引き寄せ、額に口付けた。
――せめて。
これ以上の我儘は望まないから。だがせめて、あとほんの僅かな間は、自分だけの彼女でいて欲しい。
止まれるだろうか、と景麒は思った。
今は再生した抑制で何とか自我を抑えている。しかし、これがいつまで保つだろう。
――次に動き出したら、今度は壊れるまで止まれないかも知れない――。
何処か痛々しいキスを降らされて、陽子は首を廻らせた。見上げる先に、何かを堪えるような、哀情の詰まった瞳が待っている。其れは、陽子が今まで見てきた彼の表情の中の、どれにも当て嵌まらないものだった。
――こんな貌も、するのか。
見慣れた彼の、見知らぬ表情をぼんやりと眺めながら、陽子は思った。
同じ空間で息をし、共に過して来たといっても、互いを理解しきるほど永い時間傍に居たわけではない。寧ろ、まだまだ知らない事の方が多い。
――知りたい。
奥深くに隠された猛々しい本性や、その一方で相反する悲哀に満ちた側面を、もっと見たい。
「…足りないんだったら、いいよ」
陽子は景麒の胸に預けた頭を少しだけ反らせ、上目遣いに呟いた。
「これが現実で、先刻の言葉が真実なら、もう、何だっていい。…だから、欲しかったら、幾等でも求めて」
「…主上…」
心を読まれて、景麒は僅かに虚たえた。焦る下僕を無視して、陽子は続ける。
「…その代わり、もっと感じさせて?…お前の本心や確かな想いを、激しさで感じさせて欲しい…」
幾許も余力の無い腕を必死に伸ばし、陽子は景麒に縋った。そして彼だけに届くように、短く囁く。
「―――御願い…」
せがむ吐息に煽られ、景麒は最後の抑圧と躊躇を棄てた。
「主上!!」
弾かれたように動いて汗ばむ肌を掻き抱き、震える乳房に歯を立てる。
「ひぁ……ッッ!!」
千切れるような刺激に、暇に慣れて油断していた陽子のたおやかな背が大きく撓って揺らいだ。
瞼を閉じた陽子の瞳から透明な雫が幾つも零れて光の筋を作る。
抑えても溢れる喘声と疼きに苛まれる淫音は熱情を奏でる深夜の即興二重奏曲。終局に向かって、旋律が荒ぶる。
――嗚呼、いっそ、このまま絶えてしまいたい。
「景麒っ…!」
「主上、主上しゅじょうっ!!」
呼び合って口唇を重ね、舌を吸い合って吐息を交える。擦れ違って隔った時間を取り返すかのように、二人は長い間、深く深い口付けを交した。
接吻を繰り返しながら、身体が軋むほど抱き合い、濡れながら悶える。激しく求めて絡み合うと、擦れる下肢が卑猥な音を立てて甘蜜を垂れ流した。
溢れて混ざり合い、吐き出された欲情が零れ落ちては敷布を汚す。灼け付くような焦燥と煮え滾るような激情の蒼白い焔が、淫楽に塗れた躯を焦がして爛れさせた。
――心は刹那に切なく、身体は妄りに淫らに互いを求めている。
これ以上に無い勢いで、二人は快楽の頂点に昇り詰める。其のまま加速度を増して駆け上がり、真っ白に燃え尽きながら極限点を振り切った。
慟哭のような嬌声が暗闇を斬り裂いて、二人の躯は繋がったまま折り重なるように臥台に倒れ込む。遠のく思考に感覚が散らばり、意識が絶えても、互いに伸ばした手だけは、決して離しはしなかった。


水中から浮き上がるように陽子は意識を取り戻した。目を開けると其処には見慣れた下僕の顔がある。疾うに目覚めていたらしい彼に、陽子はそっと微笑んだ。
其の貌には、この部屋に来た時にあった翳りは微塵も無い。何処か艶めいた其の微笑を、景麒はうっとりと眺めていた。
「…夢じゃないんだ」
身体に残った痕を見て陽子は嬉しそうに呟いた。景麒は返事をする代わりに、無邪気に微笑う顔に近付いて、唇で軽く触れる。擽ったそうに微笑うと、陽子は「お返し」と呟いてキスを返した。
そして其のまま、何度も軽く触れ合う。其れを幾度か繰り返した時、「主上」と遠慮がちに景麒が言った。表情の薄い彼にしては珍しい、少し照れたような面持ち。陽子は瞬くと、
「…したい?」
と訊いた。景麒は気拙そうな貌で、はい、と答えた。其の、あまりにも素直な反応に、陽子はクスっと微笑う。景麒は返事を待たずにそっと項に口付けた。
陽子は、放っておけば其のまま下に降りそうな彼の手を軽く押し留めて「だめ」と言った。
「今日はもうおしまい。寝坊して朝議に遅刻、なんて厭だから」
公務の事を口にされると二の句が接げない。景麒は息を吐くと、少しだけ未練を残した目をして主人から手を離した。そんな彼を、陽子はもう一度微笑う。
「…この続きは明日な」
主人の囁きに、景麒は軽く目を瞬かせる。
「明日の晩、人目に付かないように、わたしの部屋においで。そしたら続きをしよう?」
暫し考えるような間を置いて、景麒は頬を薄く紅潮させると「御意」と呟いた。
――細い想いを幾つも編み上げて、鎖のように繋げて行きたい。積み重なった明日への想いが、途切れる事無い強固な絆に変わるまで。
二人は幸福そうに微笑み合って目を閉じる。すると幾許もせず内に、僅かの間に見られる、夢の隙間に墜ちていった。

                                             〈了〉

 




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