作者:890さん >890-892 @二冊目

その日は酷く暑かった。
それでも、やっと涼しくなった夜風は頸筋に心地よく滑り込み、 先程まで就いていた職務の緊張もほぐれていく。
何といっても大僕といえば王の身を預かっているも同然。
常に緊張の糸が張っていて、気を抜く暇もない。
やっと一日の仕事を終えて、邸へ戻る最中だった。
夏の夜は明るい。
青白い月明かりに照らされて、隣には鈴が虎嘯を追い掛けるように、早足気味に歩いていた。
「ねぇ、虎嘯?」
鈴がその細い頸を上げて、虎嘯を見上げる。
鈴は年齢からすれば、虎嘯なんかよりずっと年上のはずなのに、その肢体は細く幼い。
こちらを見つめる目も、まるで少女のもので、くるくると良く動いた。
大きな瞳が、虎嘯の顔をまっすぐとらえている。
「邸に戻ったら何食べる?今日は暑いから冷たいものがいいよね?」
邸に戻ってから軽食を食べるのは習慣だった。
大僕と側女。ふたりは同じ邸に住まう人間達の中で、一番帰りが遅い。
陽子が休んでから、いつもふたりで帰って来た。
そしていつもふたりで、軽い食事を摂る。
鈴の真っ黒な髪が月明かりに照らされて仄青く艶めいていた。
頼り無げな細い頸に、漆黒の髪が絡み付くように揺れている。
それは鈴の歩みに合わせて、時に肩に滑り落ちた。
「うん、そうだなぁ……」
鈴から目を逸らし、月を見上げながら虎嘯は考えた。
最近食欲がない。
暑さに参っているのだろうか。それとも職務に緊張し過ぎて疲れているのか。
「今日はもう疲れたから、茶だけでいいかな。あとは胡桃でもあればそれでいい」
「……あら、そう……」
鈴は少し首を傾けて、そんなふうに応えた。
「食欲がないなんて良くないな。明日だって明後日だって、仕事はあるのに」
「そうだな」
生返事をしつつ、ふたたび鈴を見る。
ぴたりと視線があった。
鈴が微笑む。
「なんなら、あたしのこと食べてみる?」
「……あ?」
一瞬、ふたりの歩みが停まる。
でも、それは本当に一瞬だけ。
「嘘。冗談。」
鈴は小走りで虎嘯の前に廻り込んだ。
「早く帰ろ。疲れてるんでしょ?」
「ああ…そうだな」
「先に帰ってる!お茶いれて待ってるから!」
言うが早いか、鈴が走り出す。
「あ、おい、待てって」
虎嘯は鈴を追って走ろうとして、やめた。
今追い掛けて腕でも掴んだ日には。
本当に、鈴を食べてみたくなるような気がしたから。
「肝心なところで度胸がないんだよな……」
ぼそりとそれだけ呟いて、虎嘯はゆっくりと、再びのろのろと歩き出した。


                                                  <了>

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