作者:805さん > @二冊目
――気が付くと眸で追っている。 「…何だ?」
書簡を繰りながら、陽子は書物の文字から目を上げずに呼び掛けた。
一瞬言葉の意味が解らず思考が停止してしまい、呼び掛けられた浩瀚はすぐに返事をする事が出来なかった。
無言で書卓に対座する冢宰に向かって、陽子は重ねて問い掛ける。
「先刻からチラチラと…。何か言いたい事でもあるのか?」
言って陽子は書簡から顔を上げた。その翡翠と視線がぶつかって、浩瀚は漸く自我を取り戻した。
「…いえ。特には」
平静な回答「なら、いい」と陽子は興味なさそうに呟き、再び視線を書簡に投じる。仕事に没頭する若輩の女王を視界の端で見遣り、浩瀚は内心息を吐いた。
――言いたい事があったわけではない。ただ、見詰めていただけだ。
浩瀚は独白しながら、再び視線を対面に向ける。
何故だろう。此処最近、無意識の内に、この女王ばかりを視野に収めようとしてしまう。
網膜に像を結ぶのは鮮やかな紅。その色彩を現(うつつ)に眺めながら、浩瀚は自分の行動を、まるで他人事のように冷静に内省していた。
――胸の中に奇妙な蟠りがある。
それは不安定で多忙な国政を重荷に思うからではなく、油断の成らない人事に神経が磨り減らされているからでもなく。――ただ、いつの間にか、この国の女王に目を惹かれていると云う事にある。
可変しな話だ、と浩瀚は思い、思考に浮かんだ理由を誤魔化すように、手元にあった処理済の書簡に手を伸ばした。二、三度軽く指で弄び、思い付いたように書を広げる。文字の羅列を目で追いながら、その一方で自分の事を考えていた。
――老婆心だろうか。
浩瀚と卓を挟んで相対するこの国の主は、まだ若く頼りない。その割に何処か無鉄砲な処があるので、思い切った事を平気で遣って退けてしまう。だから、本音を言うとあまり目が離せない。
それが理由だろうか、と浩瀚は頭の中で独りごちる。しかし直ぐ様、違和感を襟中に捕らえた。
――否。心配、と云う言葉は相応しくない。
そんな警戒的な心持ちではない。案じや憂いとはまた少し違う何かが、瞳を惹き寄せているのだ。
不確定な理由を探り当てるべく浩瀚が懐疑に思案していると、意中の人物から「浩瀚」と静かに呼び声が掛かった。
「はい」
「…悪いが、この書類に印璽するには今少し時間が掛かる。出来れば、一刻後までには纏めておくから。…だから、此処はもういい」
自分の仕事が残っているだろう、と陽子は言う。
確かに、冢宰府に片付けなくてはならない仕事を幾つか残して来ている。浩瀚は暫し考え、そうですね、と呟いて陽子に顔を向けた。
「主上が宜しいのであれば、此処は一度退がらせて頂きましょうか。…夕方、もう一度御伺いしますから、その時に印璽されたものを頂きたいと思います」
言いながら席を立ち、椅子を卓の下に戻す。陽子は浩瀚を見上げ、
「ああ。その頃まで此処に居るだろうから、そうしてくれ」
と言った。浩瀚はその言葉に軽く頷くと、陽子に一礼して書房を出ていく。
陽子は、その後ろ姿を無表情に見送った。
東国の陽が西の空に傾き、山間に半身を隠す頃、浩瀚は告げた通りに、女王の書房にもう一度足を向けた。
解放式の廊屋には茜が満ちて、肌や髪をを黄昏に染め上げる。人気の少ない私殿を抜け、書房の前まで辿り着くと、浩瀚は入り口から中に向かって声を掛けた。
「主上、いらっしゃいますか。先のお言葉通り、書簡を頂きに上がりました」
普段なら直ぐ様、凛とした声から応答が掛かるのに、何故か今は返答する気配が無い。
――席を外してしまったのだろうか。
浩瀚は少し不審がりながらも念の為、「失礼します」と言って堂室に足を踏み入れた。
中に入ると、硝子越しの夕闇が書房を浸して、室内は心許無い橙色をしている。調度品の落とす影が何処か空々しい。
この部屋の主が使う卓に目を向けると、奥の席に俯き加減の紅い人影があった。其処は、女王が午過ぎに座したままの場所。
ちゃんと居るではないか、と浩瀚は軽く溜め息を吐いた。――しかし、人影は先からぴくりとも動かない。
「…主上…?」
浩瀚は怪訝そうに呼び掛けながら、書卓の方まで歩いていく。そして近付いてみて、漸く彼女が寝入っている事に気付いた。
椅子に浅く腰掛け、代わりに背凭れに大きく背を預けて俯いているので、夕日の陰影に踊らされてただ思案しているだけのように見える。
紛らわしい寝方をする、と浩瀚は薄く微苦笑し、起こそうと思って国主の肩に手を掛けかけた。
しかし掌が官服に触れる寸前、彼女の寝顔を見るのは初めてなのではないか、と不図思い付いた。
そう思うと、このまま起こすのが何となく惜しい気になる。
惜気に思い至る理由が解らない。だが、あと僅かだけその珍しい様子を眺めておきたくて、浩瀚は今一度その寝姿を見詰めた。
陽傾の金色に染めらながら俯く目下の人影は、軽く足を組み交し、胸下で腕組みをして顎を引いている。その姿勢が、宵闇に翳る紅い花を髣髴とさせる。
着丈に誤魔化されて解りづらいが、絹の官服にくるまれた肩や背は少女らしく、薄い。その身体に支えられる小さな頭に、思わず人目を奪う容貌が眠っている。――人の外見を美醜で判断する癖は無いが、それでもよくよく見ると、矢張り綺麗な娘だと思わされる。
通った高い鼻筋に、意志の強そうな口元。心根の強さが全体的な印象に現れて、出来の良い貌を少年顔に映えさせている。――今は眠りの所為で、それがあまり強調されてはいないが。
しかしその御蔭で、本当は意外と幼い顔をしていると云う事が解る。
眺めるだけだったはずだが、いつの間にか囚われたように瞳を奪われている。
浩瀚は眠る少女の面影に、何かを追いかけるように視線を滑らせた。
視線は綺麗に弧を引く眉を下り、その下にある、今は閉じられて隠された宝玉のような翡翠を縁取る長い睫毛に流れる。それを通って瑞々しい頬に落ちると、ふっくりと艶やかな口唇に辿り着いた。
――触れたらとろけそうな。
瞳は終着点の唇に留まったまま。如何してか目が離せずに、惚っと見蕩れていた。意識が口唇に集中し、世界に気を留められなくなった。
美味そうだ、と浩瀚は思った。
熟れた果実を思い出させる、柔らかそうな唇。
――触れてみたい。
急にその唇が味わってみたくなって、浩瀚は吸い寄せられるように近付いた。静かに屈み込んで吐息を詰める。
唇と唇が出逢う――目を閉じて刹那に忍び寄った時、窓の外に羽音が疾った。
ばさばさばさ、と鳥の羽ばたく気配で、分断された世界が蘇る。瞬間、浩瀚は自分の行動の意図に気が付いた。
弾かれたように身を引き、人形の様に静止した娘と距離を取る。
距離を置いて離れた事で漸く平静を取り戻した浩瀚は、こくりと生唾を飲み込み、危なかった、と微かに冷や汗を滲ませて独白した。
――不覚にも、危うく手が出る処だった。
浩瀚は所在無げに浮ついた掌で額を掻き、深く息を吐く。
夕暮れは降魔が刻、と云うが、その一瞬の魔力に引かれたようだ。
真逆、国家の最高権威に手を伸ばすとは。
――これ以上この場に居たら、次は何をするか解らない。
書簡の事は明日に廻し、眠り姫は女官にでも任せよう――そう判断し、決めるや否や、浩瀚は足音を殺して堂室を後にする。
夕闇の濃くなった書房には、の残された一人分の息遣いだけが細く揺蕩っている。その呼気が一瞬深くなり、次の間に長く流れた。
陽子は薄目を開けて、昏くなった室内を一瞥する。人の気が絶えた空気を見取ると完全に目を開け、組んだ腕を崩して細い指を口先に運んだ。
そして二、三度弄ぶように爪先で唇に触れる。触れながら、何処か侮蔑の入り雑じった目線で書房の入り口を凝視した。陽子は、憤りも羞恥も感じさせない表情でポツリと呟く。
「…腑抜けめ」
低い声で吐き捨てられた声が、宵の空気に落ちて転がった。
不遜を働きかけた翌日、浩瀚はやや睡眠不足の貌をして朝議に臨んだ。
朝議は景王の一声で始まり、滞りなく進んでいく。奏上を受ける玉座の王をなるべく視界に入れないようにしながら、浩瀚は密かに溜め息を吐いた。
昨日の行動で、彼女に視線を奪われている理由が判った。それは、思い当たるに至極単純な理由だった。
――欲情していた。この、年端も行かない女王に。
言葉にすると思い掛けないほど胸に突き刺さる。
襟中では密かに、華奢な肩や首筋、そして紅鮮やかな唇に触れたがっていた。――その事実に少なからず翻弄され、昨夜はあまりよく眠れなかった。
「――それでは、朝議を終る」
瓏とした声が響き、朝が開ける。解散を宣言して玉座を辞する女王の紅が、僅かに目を上げた浩瀚の視野に翻った。しかし居心地の悪さ故、相手の顔を視る事は出来なかった。
――これ以上私情に掻き乱されてはいけない。
冢宰としての国務を担うべく浩瀚は、ともすれば乱れがちの思考を振り切った。国主が部屋を出て行った後、下官に処務を振り分ける。
所用を承った下官達が散じて堂室に人が居なくなってから、浩瀚は一人で部屋を出た。
回廊を巡り、仕事場に向かう。急くような足取りで日陰の角を曲がった時、「――浩瀚」と柱の影から声が掛かった。
浩瀚は突如投げられた声に身を縮ませ、反射的に振り返る。視線の先に、白塗りの壁に背を凭せ掛けた官服の娘が立っていた。
「――主上…」
虚を突かれて少し浮ついた声で呟きを漏らす。――とっくに書房に戻っていると思っていたので、油断していた。
待ち伏せていた陽子は腕組みを解き、茫然としている冢宰に近付く。あと一歩の距離まで近付いて、陽子は口を開いた。
「…昨日。書簡を取りに来なかったろう?」
浩瀚は必要以上の距離の近さに焦りを覚えていたが、間近で呟かれる声色の低さに抗議を感じ取り、この段になって漸く、彼女が昨日の約束不履行に立腹しているらしい事に気付いた。
「――…申し訳ありません。…処務が長引きまして…」
後ろめたさから思わず出任せを呟いて、語尾を濁す。陽子はそれを聞いて軽く肩を聳びやかすと、
「…ならそうと人伝にでも言ってくれれば良かったのに。――正直、待ちくたびれた」
と言った。その言葉から、浩瀚はうたた寝をする陽子の姿を思い出し、微笑に似た表情を浮かべた。
「そのようで。眠り込まれるほど御待たせしてしまいましたね」
応答を聴き、陽子はチラリと浩瀚を見遣る。
「――…ふぅん。わたしが居眠りしていた事は知っていたのか…」
微かな呟きを耳にし、浩瀚は微かに表情を固まらせた。
動揺と寝不足に足元を掬われて、つい余計な言葉を口にした。――これではまるで、『それ』を見ていたと同義の発言をしている。
何とか上手く誤魔化さなくては――。はぐらかすのに適当な言葉を探りあてようと、浩瀚は黙り込んだ。
陽子は無言で逡巡する冢宰に一瞥をくれて「まぁ、そんな事はどうでもいいけど」と呟く。失言に追及しないような素振りを見止めて、急き立った浩瀚は胸中で安堵した。
表立っては中々崩れない浩瀚の表情の裏側に、明白に浮上したような顔色を見付けて、陽子は薄く笑む。
「…しかし、余計な処まで目が届くのも困りものだな…」
浩瀚は、意味深長な陽子の呟きに図らずも顔を上げてしまった。出会い頭、心成しか妖しい光を放つ翡翠に瞳を奪われる。射竦める碧色が平静さを奪い、身体を不安定に傾けさせた。浩瀚は、急に脈波が乱れ、体温が下がっていく感覚を察した。
「――…如何した?」
陽子は硬直した浩瀚を見据えながら声掛けた。
「何だか顔色が悪い…」
呟きながら、残り一歩分をぐっと近付く。不用意に迫られて、動揺した浩瀚の心拍が跳ね上がった。
「そんな、事は――」
冷静の破綻しかけた思考では、上手く言葉を繋ぐ事が出来ない。崩れがちに、ぐずぐずと言葉の欠片が口端から零れた。
「悪い」
きっぱりと否定する短い響きと共に、陽子の細い指先が浩瀚の顎先を捕らえた。陽子は浩瀚の首から上を拘束し、そのまま強く引き寄せる。
「寝不足なのか?目も赫いし――」
少し首を傾ければ、昨夜し損ねた事が苦も無く遂げられるほど近くまで連れて来られた。浩瀚の中で、心中を掻き乱す動揺が肥大する。
「眠れなくなるほど考える事が、あるのか…?」
囁きに零れた陽子の吐息が頬の表皮を擽った。
「め、滅相も無い…!」
浩瀚は意志の力を振り絞って、陽子の指先から逃れた。空中に残った指が支えを失って宙を掻く。
「…そうか…?」
陽子は思案深げに呟き、「ま、あまり無理するなよ」と言って手を戻すと身を引いた。
やっと均衡の取れる距離まで離れて、浩瀚の中で追い遣られていた平静さが立ち直り始める。とは言っても、未だ脈拍は早く、呼吸も崩れがちだが。
陽子は普段の平静さの欠ける浩瀚を他所に、「あ、そうだ」と独りごちた。
「本題を忘れる所だった。兎も角、昨日の書簡には目を通して印璽したから、後で取りに来てくれるか?」
軽く息を吸い込み、浩瀚は「分かりました」と答える。陽子は浩瀚をまじまじと眺め、今日は忘れるなよ、と付け加えた。
浩瀚は引かない汗を首の裏に残し、「畏まりまして」と言った。
「――では、後で」
応じたのを見遣り、陽子は切り上げ口上を言い捨てると、浩瀚から背を向けて歩き始めた。浩瀚はその背を落ち着かない目で追い掛けていたが、暫くして、軽く首を横に振って歪んだ思考を打ち払い、自分の仕事場に足を伸ばした。
陽の当たる廊屋を歩きながら、陽子は後ろの気配に目を向ける。極小さな声で「…案外…」と口の中だけで呟き、うっすらと唇の端を上げた。
午前の公務をこなして昼餉を摂った後、浩瀚は女王の書房に向かった。
別に例の書簡は急を要するものではないから、取りに行くのはいつでも良かったのだが、妙な時刻に行くと昨日の二の足を踏みそうな気がしたので、さっさと片づけようと思ったのだ。
普段のように部屋の外から声を掛けて堂室に入る。しかし、生憎部屋の持ち主は不在だった。
何処に行ったのだろう、と浩瀚が思っていると、「如何なさいましたか?」と後ろから声を掛けられた。振り向くと、書物を両手に塞いだ女史が戸口に立っている。
丁度良かった、と浩瀚は「主上が何処に居られるか知らぬか」と問うた。「ああ、それでしたら」と祥瓊は微笑む。
「主上でしたら、書庫に」
そうか、と呟いて謝辞を述べると、浩瀚は書庫に向かって歩き始めた。祥瓊は冢宰を見送って、書物を書房に運び入れる。そして書卓に荷を置いてから、あ、と微かに声を漏らした。
「――確か、なるべく人を寄せるなって言われてたんだっけ…」
祥瓊は慌てて廊屋に出たが、其処には既に何の人影も見られなかった。
浩瀚は人気の無い廊屋を抜けて書庫に入る。中に足を踏み入れると、途端に書物独特の匂いが鼻腔を突いた。
室内は不自然なほどの静けさに包まれているので、踏み出す一歩が予想以上に大きく響く。
何となく、静謐に音を立てるのに気が引けて、無意味に足音を殺しながら、浩瀚は人影を探した。
冴え渡る紅を見付けようと、書棚の間隔に視線を滑らせるが中々見当る事が出来ない。
自然と足は、どんどん薄暗い部屋の奥に向かって歩みを進める。そうやって暫く機械的な動作を繰り返していると、突如、無音に慣れた耳が微かな音を拾った。
歩みを止めて耳をそばだてると、静寂(しじま)に囁きが流れる。音質の違う二種の声と布地の擦れる音を捉えて、浩瀚は眉根を寄せる。
「――駄目だってば…」
くすくす、と転がすような笑声をはっきりと耳にした。その甘やかな響きに、咽喉元からじわじわと何かが高まっていく。焦燥にも似た感覚を抑えながら、浩瀚は書架の隙間に目を忍ばせた。
重ねた書高の向こう側、仄昏い空間に、闇色を被った赤と薄金の像が蠢いている。衣擦れの合間に、「…主上」と求めるような声が重なった。
浩瀚は、日陰に映える白い指先が紅を掻き乱すのを視た。同じく白い顔が娘の襟の隙間に鼻先を埋めているのが、その肩越しに判る。
「――少しは後の事も考えろよ、景麒…。乱れ髪を元に戻すのは、一苦労なんだから…」
言葉とは裏腹の、揶揄うような口調。その耳慣れた声は、確かにこの国を統べる者のものだった。
「主上…ッ」
制止を振り切るように、呼び声と衣擦れが響く。声の主は、宰補のもののようだったが、こんな乱れた声は初めて耳にする。
眼前に全ての意識を奪われ、直立して静止したまま、浩瀚は双眸を広げて目前の光景を視ていた。身体の表面は固まっているのに、内部が急速に息衝いていく。――知らぬうちに呼吸が速まっていった。
「…耐性が無いな、お前は…」
重ねて可笑しそうな揶揄が零れる。さらさらと髪を梳く褐色の肌が、色の薄い金色と混ざった。
「何度言っても聴かぬのだから…。抑制と云うものを知らないのか?それとも、そんなものは初めから存在しない…?――まさに、獣そのものだな……」
「――っ…酷い物言いを、なさる…」
「事実だろう?しかし一応、羞恥は残していると見える。――ならば、止すか…?構わんのだぞ、わたしは…」
「そ、それだけは……」
哀願に対峙して、ふふ、と鼻に掛かった甘い声が暗がりを伝う。下僕の髪を撫でながら、陽子は言った。
「往生際の悪い奴…。いい加減自分が淫奔だと云う事を、認めるんだな…」
「主上ぉ…っ」
嗜虐的に攻め立てる言葉と、それに相対した慰撫に興奮したのか、主人の肌を貪る月色の影に加速が掛かった。
景麒は書棚に身を凭せ、自分より随分と小さい主(あるじ)を懐中に抱え込む。体勢が入れ替わった所為で、先刻まで見えなかった少女の顔が、浩瀚の目にも映るようになった。
陽子は口元に笑みを湛えて下僕の背に腕を廻し、彼の愛撫を受け容れる。
昏中でも鮮やかな碧が、周囲に配られる。ゆっくりとその目が、黙視する浩瀚の処まで来て止まった。
――勘付かれた――?
見透かすような視線とぶつかって、噴出した冷や汗がこめかみを伝う。凍り付いて息を詰めると、翡翠の注視が外れて宙(そら)に流れた。――時間にすればほんの一瞬の事だったが、それが何時間にも感じられた。
解き放たれた心拍が、早鐘のように鳴り響く。ともすれば聞こえそうなほど激しい鼓動に、浩瀚は焦りを覚えた。
書棚二つ分隔った先で、主従達が肌を交えていく。衣を剥がされて露わになった女王の肩の線が、仄かな光に照らされて、艶やかな光沢を放った。急くように解かれた彼女の腰紐が、景麒の手を離れて大理石の床に落ちる。持ち主の髪と同じ朱色の細帯が、妙に色鮮やかだった。
陽子は下僕の唇が肌に触れる度に、擽ったそうに嗤う。そして時折、浩瀚の耳には届かない小さな囁きで下僕を辱めて甚振(いたぶ)った。蔑まれる度に、景麒が忍辱に昂揚して息を吐く。
――あの宰補が。
瞬きすら忘れて注視しながら、浩瀚は思った。
朴念仁そうなあの無表情な麒麟が、主人からの被虐に打ち震えて悦んでいる。
平素とは似ても似付かぬ、あられもない景麒の姿を、浩瀚は呆然と見詰めていた。
くつくつ、と娘が愉快そうな声を漏らす。その緑瞳は、明らかに加虐を愉しんでいた。陽子は淫靡に艶めいた嘲笑で下僕を見下している。――不意にその視線が、下僕から逸れて弧を描いた。
翠の視線が虚空を流れ、或る一点――浩瀚の隠れた書棚――に辿り着く。看破の可能性に、浩瀚はぎくり、と身を竦ませる。外せない視線の先で、翡翠が嗤った―――気がした。
失われていた瞬きを取り返すように、浩瀚は幾度か瞬(しばた)く。視野が途切れて再び開けた次の間に、もう陽子の目は下僕に戻っていた。
「―――愚かだな…」
はっきりそう囁くと、陽子は首を逸らせて景麒を引き寄せ、唇を許す。景麒は与えられた主の慰労を得ようと、触れられた唇を何度も何度も貪った。
――自分は、『それ』すら、叶えられなかった。
娘の唇をせがむ景麒の仕草に息苦しさを覚え、浩瀚は顔を背けて、足を一歩後ろに引いた。そしてそのまま、勢いをつけて姿勢を変える。来た時以上に足音を殺して歩き出し、逃げるように書庫を脱した。
書庫から自分の書房に、如何遣って戻ったか覚えていない。気が付いた時には、浩瀚は自分の書卓に着いて虚脱していた。
――あの二人が、『そう云う』関係だったとは。
弛緩して惚けたまま、浩瀚は茫然と絡み合う肢体を思い出す。
特殊な契約によって結ばれたこの世界独特の主従が、ただの主従関係から一線を超える事は珍しくない。
しかし、今現在の、この国の主従において、そんな事は起こりえない、と浩瀚は思っていた。
何しろ一方は、王の冠を取れば、女気の無い小娘。もう一方は超がつく堅物の麒麟。その、色香の馨らない組み合わせから、その手の事には染まりようがないと、勝手に考えていた。
だが、先刻まで目前にあった光景から、二人が同衾の関係である、と云う事実は偽りようが無い。
妖艶に嗤う女王と恥辱に悶える下僕――。
網膜に灼き付けられた生々しい残像が、瞬く度に脳内にチラつく。
艶めく木目細かい肌と、思った通りの薄い肩。乱された紅い雲髪に、色付いた口唇――。
肌を隠す女王の衣が完全に抜け落ちていなかった分、行為の猥褻さが強調されて思い出される。
回想が歪曲して、いつしか彼女に絡む男が自分になっている妄想が、浩瀚の思考を侵した。
『―――愚かだな』
娘の嘲りが、鼓膜で空回りする。
――そう。愚かだ。女王を欲すなど。――しかし触れてしまいたい。…触れる事が出来れば――。
理性と欲情を天秤に架け、葛藤に想いを翳らせた浩瀚の瞳が、卓上を注視し続けていた。
陽の影が夕に背を伸ばす頃、陽子は自分の書房に戻った。中では祥瓊が書物を整理している。部屋主の帰室に、祥瓊は顔を上げた。
「お帰りなさい。遅かったのね」
「ああ。…雑事に少し、手間取ったからな」
そう、と祥瓊は答え、手にした書を区分する。陽子はそれを眺めながら、「…なあ。浩瀚が、来なかったか?」と問い掛けた。
祥瓊は振り分けの手を止めて、不思議そうに陽子を見る。
「ええ、昼間来られたけど、でも、その時貴女居なくて…。だけど、ちゃんとお教えしたのよ?『書庫に居る』って。…会わなかったの?」
陽子は祥瓊の言葉に、暫し奇妙な間を空け、「―――いいや。会わなかったな」と答えた。
それを聴いて祥瓊は、変ねえ、と首を傾げる。それから思い付いたように、「ああ、御免なさいね」と謝った。
「確か、人払いを掛けていたのよね。あたしったら、それを忘れちゃってて――」
「…いや?全然、構わないよ…」
すまなさそうな貌をする祥瓊を、陽子は軽く微笑う。そして微笑を仕舞い、一括りの書簡を手に取った。
「――野暮用しに、出てくる。帰りが少し遅くなるかも知れないから、終ったら先に戻ってて」
そう言って戸口に足を向ける。
「分かったわ。行ってらっしゃい」
祥瓊は部屋を出て行く友人を見送り、書物の整理を再開した。
妄想に拍車が掛かって使い物にならない自分を自嘲しながら、それでも浩瀚は脱力して動けなかった。
本来なら目を通さなくてはならない書簡が数通ある。そしてその内の幾つかは、国氏の印が要る。
だが、今あの顔と対峙して、平静に振舞えるかどうか――。
情欲を抑えた上で、先刻覗き見た事を隠し通せる自信が、浩瀚には無かった。
――取敢えず今は、冷静に成らなくてはならない。
その為に相手から思考を遠ざける事にし、気分転換に外の空気でも吸うか、と浩瀚は間延びした仕草で席を立った。
入り口に向かって足を踏み出す――その時、「浩瀚、居るか?」と外から声が掛かった。
唐突な出来事に、頭の中が真っ白になった。浩瀚が返答を選び損ねている間に声が続く。
「入るぞ」
数瞬後、空気の流動と共に、官服の女王が入ってくる。歩きながら、陽子は浩瀚の顔を直視して言った。
「昼間、書簡を取りに来てくれたんだって?だが、その頃、丁度席を外していて――」
悪かったな、と言い、陽子は微笑む。
「二度手間になると面倒だから、持って来た。――確認してくれるか?」
ぱらぱらと、書簡を開いて示す。しかし浩瀚は、今最も避けたい人物を目の当たりにして、直立不動に凍り付いていた。陽子は、不自然に立ち尽くす冢宰を見遣って薄く嗤う。
「如何した?そんな遠くからでは確認出来ないだろう?――それとも、お前の目は、そんなに何でも見えるのかな…?」
含みのある言葉を吐いて、陽子は躊躇無く浩瀚に詰め寄った。反射的に逃げかけた浩瀚の足が、書卓にぶつかってこれ以上の逃げ場がない事を教える。
距離が縮む分、内心の平静も減ってゆく。錯乱した神経が暴走して、体内の器官が軋みを上げた。破れるほどの拍動で、血液が波打つ。
「ほら、これでいいんだな?」
横並びに詰めて、陽子は浩瀚に書簡を見せた。とん、と細い肩が浩瀚の胸に当たる。浩瀚はそれだけで、ぐらりと意識が揺らぐのを感じた。
定まらない視点が縦横無尽に娘の姿を映す。――不図、首筋の一点に、瞳が吸い寄せられた。
通常の目線では見付けずらい襟首の裏――朱髪の生え際に残された、小さな紅い痕。――それはきっと、彼女の下僕が残した求愛の印(しるし)だ。
そう思った瞬間、先刻の妄想が弾けて理性を押し流した。
浩瀚は陽子の肩を掴んで、広い書卓の上に押し倒す。卓上の書物や文箱が床に落ちて、派手な音を立てた。
堰を切ったように何かが溢れて、行動を突き動かす。浩瀚は勢いに任せて、触れられずに居た娘の紅い唇に、強く口付けた。
「―――…っ」
息詰まる気配を感じて、浩瀚は唇を離した。目を開くと、下方から鮮やかな翡翠が刺すような視線で浩瀚を見ている――と、不意に、その紅い唇が歪んだ。
「――――やっと本性を出したな…」
低い呟きに虚を突かれ、浩瀚は微かにうろたえる。その油断に乗じて、陽子は手を伸ばして浩瀚の襟首を掴み、仰向けから足を使って体重を乗せて乱暴に体勢を入れ替えた。
無茶苦茶な行動に、浩瀚は驚愕の表情を浮かべる。それを見るや、にい、と陽子は口の端を持ち上げた。
「此処最近、ずっとわたしの事を見ていたろう…?」
そう言って陽子は嗤う。光の少ない書庫で浮かべていたのと同じ微笑みを向けられて、浩瀚は漸く彼女の真意に気付いた。
「――ぜ、全部、気付いて――」
「…ふふ。余計な処まで目が届く、と言うのは、本当に困りものだな」
明白に嘲る口調に、浩瀚は胸に憤りが昇るのを感じた。対して陽子は、くすり、と嘲笑を漏らす。
「―― 一度くらいはね、お前を出し抜いてみたい、と思っていたんだよ」
罠だ、と浩瀚は思った。
全て見透かされていた。人が翻弄されているのを、解って行動していたのだ。
――なんて女に、捕まってしまったのだ――。
悪魔の手管と自分の浅はかさに、浩瀚が息を震わせると、陽子は再び笑んだ。
「私情に憤る貌も、悪くはない…」
その嘲笑がぞっとするほど美しくて、屈辱を与えられていると解っているのに、身体を押し戻す事が出来ない。
恐慌になりつつある浩瀚の心を知ってか知らずか、陽子は嗤って浩瀚に近付いた。
ふっくりとした唇が押し当てられ、唇の隙間から舌が送り込まれる。忍び込んできた柔らかな舌が、誘うように歯列を舐めて、戸惑う舌を絡め取った。
素人娘とは思えない鮮やかな技量に翻弄されて、思考が霧散する。
嗤いながら、誘(いざな)う視線で陽子は言った。
「―――わたしが欲しくはないか…?」
「…た、台補を出し抜けと…?」
矜持を守るための、せめてもの抵抗に、クスクス、と咽喉で転がすような娘の笑声が対する。
「あれ、はわたしの下僕(しもべ)。自分の下僕(もの)に操を立ててやる謂れは無い。――そんな事より、わたしはお前の本音が聴きたいな…」
わたしが欲しいか、と陽子は同じ問を繰り返した。
――相手は男を虚仮にして虐げるような女だ。此処で頷けば、辿る末路は目に見えているだろう。…しかし。
「―――下賜(くだ)さい…」
目前の魔力に、理性が負けた。
「――いいだろう」
ふふ、と甘い声が浩瀚の鼓膜を擽る。陽子は加虐的な微笑を浮かべて言った。
「…お前のその、理知的な貌が崩れる様を、ずっと見てみたかった…」
脚で浩瀚の身体を抑えたまま、陽子は頭に手を遣り、髪を括る黒檀の簪を引き抜いた。
蕾んだ紅がふわりと散り拡がって、下に流れる。その様を下から眺めながら、浩瀚は夜明けに目醒める花を思い出した。
――高嶺の開花だ。
尊き頂きに在りながら、美麗な姿で人目を惹き付け、中毒性のある馨しい芳香で心を魅了する。――そんな、魔性の華。
自分もその一人だ、と浩瀚は思った。
――隠された魔性に惹かれて、いつの間にか虜(とりこ)にされていた。
コトリ、と音を立てて簪を置くと、陽子はその指で浩瀚の襟首を崩した。そして衣服の前を開けながら、妖艶な微笑を湛えて浩瀚の首筋に甘く口付ける。
陽子は指先と唇で、しなやかに男の服を乱していく。覆いの取れた首筋や胸、脇腹に、触れるか触れないかの微妙な撫和を施しながら、陽子は右手を浩瀚の下肢に辿り着かせた。
するりと器用に忍び込まされた冷たい指先が、直接浩瀚に触れてくる。
「しゅじょう…!」
浩瀚は慌てて起き上がり掛けるも、身体を塞がれている為に、逃避を阻害される。陽子は踏み敷いた男が逃げられずにいるのをいい事に、翻弄するような仕草で浩瀚を掻き乱した。
「――っ…!」
無理矢理与えられる刺激に、情欲がそそり立つ。さわさわと根本から組んでは解されるような動きに、浩瀚は眉根を寄せて息を乱した。
「如何した?息が荒いぞ…。まだ、大した事もしていないというのに…」
笑みを含んだ声が、浩瀚の腹下から響く。与辱しながら、陽子は掌で浩瀚を締め付けた。
「ぅっ…」
きつすぎる刺激に、驚いた浩瀚の咽喉がくぐもった声を零す。牡の意識が興奮してきている――その反応を愉しみながら、陽子は更なる負荷を与えた。
淫らに蠢く指先が、肉の茎をしごき上げる。強弱を付けながら転がすように擦ると、みるみる熱と重みが膨らんでいった。
暇(いとま)無く送り込まれる快楽に抗うように、浩瀚小刻みに身体を震わせるのを見て、陽子は嗤う。
「耐(こら)えなくてもいいんだぞ?無理はするな、と言ったろう…」
「無理など…っ」
出任せに吐いた浩瀚の言葉を聴いて、陽子は「ふぅん…?」と揶揄うように呟く。そして前触れも無く、舌先を尖らせて手の中のものを舐め上げた。
「ふぁ…!!」
指とは明らかに違う感触に、浩瀚は思わず声を上げた。
「――ん、いい声…」
聴きなれない悲鳴にも似た声を捕らえて、陽子は妖しく瞳を光らせる。
この刺激には強くないらしい――陽子は相手の弱点を見付けると、躊躇無く動いた。陰部の生え際から焦らすように舌を捲きつけ、ゆるゆると舐め下す。先端まで昇り詰めると、登頂から覆うようにして口内に男を咥え込んだ。
含みきれない部分を指で揉み解しながら、口に含んだ肉隗を裏から舌で捲き上げる。ひとつ舌がざわめく度に、浩瀚は息を上げていく。陽子は指先以上の執拗さで浩瀚を攻め立てた。
「ぁ…っ」
重ねた刺激の仕上げとばかりに、陽子が音を立てて強く吸い上げると、限界を超えた浩瀚は、その中にはち切れた欲情を吐き出した。独特の粘度を持つそれを、陽子は幾許かの余りを残して飲み下す。
そして徐(おもむろ)に伸び上がって浩瀚の顎を両手で覆うと、口移しに中のものを送り込んだ。もがきながらも、こくり、と音を立てて、浩瀚はそれを飲み込む。
「――自分の出したモノくらい、自分で片すんだな…」
陽子は囁き、続けて舌を与えて絡ませた。
「…こ、このような事を、一体誰から、学ばれたのです…?――っまさか、台補から――…?」
快楽に逝かされた後遺症で上手く纏まらない言葉を、浩瀚は途切れ途切れに口に出す。
「…さぁね。黙秘だ」
はぐらかすように答えると、陽子は再びくつくつと嗤った。
「そんな事より、お前は如何なんだ…?――もしかして、これで仕舞いか…?」
「――…っ御冗談を…!」
徴発的な囁きに、浩瀚は淫行に薄められた自我を取り戻す。浩瀚は、陽子に腕を伸ばして身体を引き寄せ、傾れ入る力でその支えを折ると、堕ちてきた薄い背を掻き抱いた。身体を重ねると同時に回り込んで入れ替わり、陽子を書卓に押し付ける。
紅く長い髪が濃茶書卓の上に、花弁状に広がった。目下の華を組み伏して、浩瀚は吐き捨てる。
「わたしはまだ、貴女自身を頂いていない…!」
憤りの疾る言葉に、陽子は薄い笑みを零した。
「…続けられるならいい。ならば与えよう。…その代わり、もっと好い貌してくれよ?」
組み敷かれる事に臆する事無く、陽子は流し目に浩瀚を見詰める。
「――さぁ、感じさせてくれ」
その翡翠には、淫靡な欲望の火が燈っていた。
浩瀚は吸い寄せられるように陽子に近付く。しっとりと濡れた唇に唇を重ねながら、未だ乱れきっていない陽子の官服に手を掛けると、前合わせを乱暴に押し広げた。身体を覆う絹を一気に肩口まで引き下げ、艶めく素肌を露わにする。
陽の目に晒すと、その肌の上に点々と紅い痕が付いているのが判る。鎖骨の下から始まって、胸や肩に、うっすらと刻まれている。
――宰補の残り香だ。
これは先刻、彼女の下僕が置いていったもの。この身体と、身体を交えた証拠。――それを意識した瞬間、浩瀚の胸に、はっきりと嫉妬が湧き上がった。
浩瀚は紅い点に口付けると、肌を強く吸った。吸い上げて唇を離すと、鮮やかな華が現れる。華が咲いたのを確かめると、次にまた、薄紅の疵に唇を押し当てた。
ひとつ、また一つ、薄紅をなぞって新たに色を付けて行く。そうやって古い華を潰しながら、新しい華を植えていった。
「――あまり妙な所に痕を残すな…」
嗤いながら陽子は咎める。
「…痕が残ると、お困りになる事でも…?」
肌から離れずに浩瀚が問うと、陽子はまた軽く息を吐く。
「ある。隠すのが面倒なんだよ」
その塵とも動じない口調に、浩瀚は少し苛立ちを覚えた。
浩瀚は荒ぶる心のままに、陽子を包む衣を掻き乱した。帯を崩し、その下で下肢を締める朱色の腰紐を解いて、幾重にも重なった袍を割く。
高価な布地を剥ぎ取ると、その下から艶(あで)やかな肢体が現れた。纏う物を失うと、丸みを帯びたその躰は、思いの外(ほか)肉付きよく褐色の柔肌に彩られている。
上肢に盛り上がる、容の良い二つの膨らみ。その頂きが、綺麗な薄桃に色付く。引き締まった腹の下には、なだらかな線を描く細腰が続いている。
均衡の取れた若々しい肢体に妖しく誘われ、浩瀚は箍が外れたように急き込んで、その身体に手を付けた。
細指で乳房を捏ね上げ、確かな弾力を味わう。眼前で揺れる登頂の突起を、むしゃぶるように口に含んだ。
「…ンっ…焦るなよ…せっかちな奴だな…」
愛撫を受けながら、陽子は揶揄うように囁く。浩瀚は陽子の胸元から微かに顔を上げた。
「――随分と余裕で在られる…。誰ぞが来遣ったら、如何する御積りで…?」
「さあ…?その時は、取り込み中だ、とでも言うさ…」
ふふ、と陽子は擽ったそうに笑って、浩瀚の頭を引き寄せた。
「ま、誰も来やしないさ…」
ポツリと落とした言葉が一瞬引っ掛かったが、緩やかな圧迫に意識を揺さぶられ、浩瀚の中で、言葉は意味を生じる前に、思考回路から滑り落ちた。
誰かに見付かる危険性がちらりと頭を掠めたが、そんな事より目前の好機を逃す事のほうが忍びない。
首筋に掛かる甘く熱い息に性感を刺激され、浩瀚は陽子の身体にのめり込んだ。
張りのある乳房に舌を伸ばし、舐め上げて転がせば、蕾みが硬さを増していきり立った。
「…ゥン…舌遣いは…悪くない…」
婀娜っぽい声で呟き、陽子は浩瀚の背を焦らすような仕草で撫で付ける。つつ、と優しく撫でたと思うと、突如甘く爪を立てて肌に赫い線を刻んだ。
微かな痛みに、浩瀚は眉を顰めて陽子を見遣る。視線がぶつかると、色鮮やかな唇が歪んだ。
明白に誘うようなその表情に、欲情が溢れ出す。止め処無い欲情が、強固な理性を沈めて溺れさせた。
滑らかな肌を求めた浩瀚の指が、緩く開かれた陽子の脚の間に滑り込む。蜜壺は容易にその侵入を許した。
「んん…っ」
既に潤みを湛えたその中は、温かく息衝いている。中で指を泳がせると、陽子は微かに頬を上気させて甘い吐息を漏らした。
浩瀚の頭の中に、チラリと寡黙な麒麟の横顔が蘇る。
――あの麒麟が、先刻までこの中に居た。
若く美しいこの主に嗜虐されながら繋がって、昂ぶっていた――そう思った瞬間、如何しようも無い妄執が咽喉を灼くほど突き上げてきた。
「主上…ッ!!」
叫んで抱え込んだ脚を大きく押し広げ、浩瀚は前触れ無く陽子に押し入った。陽子は眉間に皺を寄せて、綺麗な貌を顰めさせる。
「馬鹿…っまだ早い…」
悪態を吐きながらも、陽子は下半身に意識を凝らして急き込む浩瀚を中に受け容れた。
書卓をはみ出した陽子の足から、履が脱げて床に落ちる。浩瀚は、それがコトン、と落ちる軽やかな音を、遠くの方で聴いた気がした。
下肢は完全に一つに繋がって、血の巡りを直に伝える。娘の胎が絡みつくだけで、蕩けてしまいそうな感覚に陥った。
「…っく、主上…」
陽子はうねるような刺激に身を窶す浩瀚の首筋に、褐色の腕を回して緩く縋り付いた。花酔いに暮れるような顔を引き寄せ、陶然とする彼の瞳を覗き込む。
「――ふふ、乱れたお前も素敵だよ…」
浩瀚に口付けながら、陽子は掌を忍ばせてその鬢を乱した。
しどけなく肌を彷徨う指先に触れられて、ぞくぞくするような刺激が浩瀚の背筋を駆け抜ける。
奥の奥まで繋がる快感が欲しくなって、浩瀚は陽子に覆い被さった。
桃のように丸く柔らかな臀部を捕らえて突き上げる。動きを速めると、熱に溶かされた内壁が生き物のように浩瀚に吸い付いた。
「んっ…はぁ…っ」
うっすらと汗をかいた陽子の額に、細い紅が張り付く。顰み顔に揺れる碧の宝玉がこの上なく美しい。
微かに漏れる甲高い声をもっと聴きたくなって、浩瀚は圧迫に耐えながら秘肉を漁った。
戦慄く内部を捏ね繰り回して奥を探る。煽りながら、揺れ立つ乳房を咥えて強く吸った。
「――っあぁ…!!」
陽子の首筋が仰け反って、愁うような表情に変わった。浩瀚を捕らえた内部が波打ち、つぶさに震える。
「…これが、よろしいか…?」
揺れ惑うような身体の動きに、彼女の弱みを見た気がして、浩瀚は先刻与えられた分を送り返した。
「はぁぁん…ッ」
押さえ気味に嬌声が零れる。浮き立つような声に昂揚を覚えて、浩瀚は腰の動きを速めた。動く分だけ内部の高まりが熱くなる。
引いては勢いを増して押し寄せる収縮に捲かれて、浩瀚は息を詰めた。するとその瞬間、強打を受けるのみだった陽子の脚が浩瀚の下肢に絡んで締め上げ、浩瀚は腰元を強く押さえ込まれた。
「っああ!!主上っ…」
突然の動きに虚を突かれた上、自身をぎりぎりに締め付けられて、浩瀚は激しく息を漏らした。瞳を振り仰がせると、身体の下で魔性が嗤っていた。
「…その顔の崩れる様が、見たい、と言ったろう…っ?」
弾んだ息で陽子は言う。ぐっと下半身に力を入れると、浩瀚は苦痛に歪むような貌をした。
――これも、わざと。
悦楽に溺れる振りをして、油断させていたのか――。
掻き乱れる意識で浩瀚は思った。
くねるような陽子の腰の動きと容赦ない追捕に、浩瀚は息を上げる。
「――っぅう!!しゅじょおぉ!!」
音源の少ない書房に犇(ひしめ)くのは、薄い嘲笑と興奮に爆(は)ぜる吐息。淫らに吸い付く刺激に耐えかねて、浩瀚は熱く滾ったものを解き放った。
くらりと眩む視界の中で、甘美な娘の微笑が揺れる。脱力して堕ち込んできた男を受け留めながら、陽子は荒れた呼吸を抑えて言った。
「――中々好かったぞ?その表情と、腰遣い…」
その言葉が浩瀚に届いたかどうかは定かでない。
僅かの間堕ちていた浩瀚が不図、我に返ると、身体に服を引っ掛けて書卓の上に腰掛けた女王が、愉快そうな目で自分を見下げている事に気付いた。
緩慢な仕草で窓の外に目を向けると、空はすっかり宵の色に塗り潰されている事が判る。
「――今は」
惚けた口調で呟くと、陽子は「日没からそんなに経ってないよ」と言って笑う。
浩瀚は起き上がって書卓から降りると、乱れた服を引っ張って身を取り繕った。背中越しに、女王の視線を感じる。嗤いながら、陽子は浩瀚に声掛けた。
「――そんなに急くことも無いだろう」
「何を悠長な…。今まで誰も来なかった事自体、不思議な事ですよ」
「不思議なんかじゃないさ」
揶揄の篭った口調で言われて、浩瀚は怪訝な貌をしながら、陽子に振り向いた。陽子はその目を受けて平然と言い放つ。
「人払いを掛けてたからな」
浩瀚は陽子の言葉に、ぽかんとした表情を浮かべた。
「――『誰も来やしない』と言ったろう?」
吹き上げる笑いを堪えるように、陽子は言う。
――それでは、初めから『このつもり』で――。
浩瀚は驚愕に目を見開き、茫然とした様子で暫く陽子を見詰めていた。しかし、思いついたように深く息を吐くと、自嘲めいた笑いを浮かべた。
「貴女には負けました」
言いながら浩瀚は、床に落ちた陽子の履を拾った。
「そうか?お前の口からそんな言葉が出るとはね…」
魔性の艶めく貌で、陽子は可笑しそうに笑った。浩瀚は膝を折り、無造作にぶら下がった陽子の脚を取る。そして履を履かせながらながら、
「――本当に、仕え甲斐のある方だ…」
と薄く呟き、自ら傾城の主である女王の脚に口付けた。その小さな囁きを聴いたか聴いていないのか、陽子は浩瀚を見詰めてただ微笑っていた。
<了>
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