縁結び本舗より
『Episode.3 匠の場合』

ひんやりとした唇。
吹き込まれたヌルイ液体。
やんわりと抱き竦められて感じた至上の幸福。
あれは夢だったのだろうか?

狂おしいまでに求めていた愛しい人の体温。
ぎこちなく背中に回された腕。
耳元で優しく脈打つ鼓動。
あれは微熱が見せた幻だったのだろうか?

それならばこの体温以上の熱にずっと包まれよう。
その間はこの脆く儚い幻の中でも生きていられるから…。






◇其之壱 お客様はカモ様です!?◆


ピピピ。ピピピ。ピピピ。

聞き慣れた電子音がやたら遠かった。

「はい。回収」
「ん」
「…これはどう見ても、37度8分、ですねぇ……」

頭の中がモクモクと分厚い灰色の煙で充満しているみたいだ。

まるきり条件反射で差し出した使用済みの体温計を、正位置やら逆位置やらで確認してみせたのはここの主である保健医。

(タロットカードじゃねぇつーの…)

ここの絶対権力者に対して、非力で無気力な患者は心中のみでツッコミを入れる。
幸か不幸か、彼の望み通りにここ数日微熱が続いている。
重病でも難病でも奇病でもない。単なる知恵熱など欠席理由にならない、と超過保護な両親を説得して登校しているものの、自ら蒔いた種とは言えこの微熱に彼はすっかり翻弄されていた。
苦悩→憂鬱→発熱→苦悩∞という具合に、巷で最近噂のデフレスパイラルの如く事態は悪化するばかり。
お陰であれから一週間、今ではすっかりここの常連だ。



「センセ。オレ…欲求不満かも知んねぇ……」
「欲求不満?」
「そ、欲求不満。で、これ知恵熱。悩んで熱が出せんなら発電所必要ねぇかもな」
「窪塚クンの悩みって、もしかして恋の悩みですか?」
「ぐっ……」
「青春ですねぇ…若いって素晴らしいですねぇ……それでお相手は?」

沈黙を図星の意と踏んで、綾人は内心ほくそ笑む。
今日もまた保健室という名の蜘蛛の巣に飛び込んできたか弱き蝶が一匹。
綾人にとって彼らはカモ…もとい、日々の潤滑剤…もとい、大事な大事な教え子達なのだ。
……下手なおべっかはこの際無視して、彼等は綾人の退屈な毎日に適度な刺激を送り込んでくれる。

「…ジジくせぇ……」
「否定はしませんよ。でも、亀の甲より年の功。些細な仕草や態度、表情の変化だけで相手の心理状態を読むことだってできます。例えばそう、君の悩みも。…君の悩み、それは禁断の恋でしょう?」
「げっ……」

綾人は如何にも思わせぶりな口調で蝶を誘う。
脆く不安定な心はいとも容易く甘い香りに惑わされる。
溺れる者は藁をも掴む、先人の知恵とは全く以て素晴らしいものだ。
解放・安定への熱望は時に視野を狭め、状況判断を誤らせる。
綾人はこの何気ない雑談の中に二つのトラップを仕掛けた。
何のことはない、要するにカマを掛けただけなのだが。
恋の悩み。禁断の恋。どちらも確率の問題だ。
殊にこの十六夜学園において、恋の悩みを抱える人間の大半は同時に禁断の恋と常識との板挟みに苦しむことになる。
学園内で恋愛感覚の麻痺した人間にも、学園外では平等に世間の常識の風が吹くからだ。

「センセ。悪りぃけど相談に乗ってくんねぇ?」
「構いませんよ。…でも、折角ですからとっておきの相談所を紹介しましょうか?きっともっと親身になってくれますよ」



今日もまた保健室という名の蜘蛛の巣に飛び込んできたいたいけ幼気な蝶が一匹。
こうして綾人の退屈な日々の潤滑剤は、時として縁結び本舗の潤滑剤にも姿を変える。
もっとも、この野心家受付嬢の腹黒い策略が日常茶飯事であることを元汰はまだ知らない…。





◇其之弐 相変わらずなふたり◆


「ねぇ、しよ?」
「す、するって何をだよ!?」
「何ってナニに決まってるでしょ?」

…ッたく、コイツは性懲りもなく……。
オレは見せ物小屋の見せ物でも、ストリッパーでも、AV男優…いや、この場合女優か……?
じゃなくて!オレには他人様に生き恥晒す趣味はないんだよッ。

「上総。お前、ココは縁結び本舗の本拠地。心臓部。中枢。アジトだろ?折角名実共に再出発したってのに、足並乱すようなコトすんなよな」
「おれ、欲求不満なの。最近ちゃんとしてないでしょ?」
「…昨日ホテルまで引き摺り込んどいて……欲求不満…だとッ!」
「何か最近普通のじゃ物足りなくて。刺激が足りない、って言うのかなぁ」
「〜〜〜ッ!!」

何が普通だ!
あれが普通なら、それこそ過労が風邪にも三大成人病にでも掏り替わってるだろ?
手を代え品を代え。あれやこれや。
そりゃもう…イロイロ……。

「却下!学園は無法でもココは有法。職場での不埒な行為厳禁。何せココではオレがルールブックだからな」
「そんなの関係ないもん。おれまだ15だし、少年法に守られてるし」
「…お前クサッてんぞ、それ……」
「腐ってもおれはおれ。…ねぇ、しよ?オフィスラヴもオフィスえっちも刺激的で絶対楽しいよ?保証する」
「保証されても、オレは困…ッん」

透かさず上総は掌で元汰の頬を捕らえて、その唇にそっと触れるだけのキスを落とす。
触れた唇の柔らかさで、一瞬隙を見せてしまったその迂闊さに元汰は自己嫌悪する。
このキスは実体を持たない無色透明の鎖。
たちまち元汰の抵抗心を切り崩し、捩伏せてしまう。
こうなったら最後、元汰曰わく上総はサカリのついた野良猫より質が悪い。

「ん…ぁッ」
「…元汰ってば可愛すぎ……」

耳元で囁くなッ!
噛むなッ!撫でんなッ!ひん剥くなッッ!
…もう…もう可笑しくなる……。



「やはり僕の言った通り、小池屋クンは囁かれ慣れてたみたいですねぇ。耳元で何度も可愛い可愛いって。それでも一向に擦れないところが尚可愛い。でしょう?上総クン?」

恒例の課外実習に、これまた恒例の乱入者。
元汰は羞恥以外の熱に侵され始めた身体を実験台に投げ出し、十八番の見ざる言わざる聞かざるを決め込む。
現実逃避も、往生際の悪さも、ここまで来るとある意味尊敬に値する。

「元汰?綾人さん」
「……」

んなの、聞かなくても分かる。

「大丈夫?平気?どっか具合悪いの?」
「……」

心配すんな。元凶はお前だ、上総。
今は何も見たくないし、何も聞きたくないし、何も言いたくない。
オレは…寝る…不貞寝…狸寝入り……。

「綾人さん、ごめんね。元汰、なんか気持ち良すぎてイっちゃったみたい」
「……」
「そう。いわゆるオルガスムスってやつですねぇ。でも、それは反則ですよ。セックスの基本は快感を共有することですから。何なら寝込みを襲ってみましょうか?二人で」
「……?」
「ダメだって。これはオレのでしょ?」
「でも、兄貴分の僕としては可愛い弟分の成長を確かめる義務がありますから」
「……ッ!」
「んじゃ、見るだけ。ね?」
「それじゃ、見るだけ。ですね?」

「お、ま、え、ら、なァ〜〜〜ッ!!」

捕食者達の殺気立った気配を感じて、元汰は透かさず十八番を解く。
怒りのままふるふると握り締めた拳を振り翳した瞬間、視界の端に過ぎった何かが辛うじて元汰の理性を繋ぎ止めた。
幾ら昔取った杵柄で、華奢な身体から繰り出されるとは言え、空手有段者の鉄拳などできれば喰らいたくない。

「あれ?元汰起きてたの?そのまま気絶しちゃってて良かったのにぃ」
「そうですよ。あのまま狸寝入りしてれば良かったんじゃないですか?」

コイツら…絶対楽しんでやがる……。
…ッたく、オモチャにされて堪るかっての!

元汰はまだ勤務時間内を幸いと綾人をギロリと睨み上げ、早く肝心の用件を伝えろと目配せする。
普段ならこんな睨み程度の脅しに屈する綾人でもないが、ここから先イニシアチブを取るべきは元汰なのだ。
それが分かっているからこそ、元汰も多少の無茶をする。
そうでなければ陰湿で執念深い三倍返しの常習犯に不利な喧嘩を売るなどという危険な賭、幾ら向こう見ずな元汰でも避けて避けて避け通すところだ。




「縁結び本舗へようこそ」

黒曜の瞳が仕事開始を告げる。
温情だが、どこか冷徹で野心的な眼差し。
明らかにビジネス優先の目つきだ。
今の元汰に綾人の食指は動かない。
なぜなら彼が欲するのは動揺や混乱。そしてそこに見え隠れする畏怖の念であって、揺るぎない強い意志などにかまける趣味はないからだ。
ここらが引き際、と綾人も自分の役割を果たすべく気分を切り替える。

「こちらが小池屋元汰所長。それから、蔵重上総、穂積紳耶。そして僕、石居綾人。総勢四人の精鋭が責任を持って、君の恋を成就させてみせます。本日は縁結び本舗へようこそ」

綾人は受付嬢も真っ青の営業スマイルでもてなし、いつの間にか壁際に待機していた紳耶も合わせて順番に紹介してみせた。

「そして、こちらが今回のクライアント。窪塚匠様です」

多少芝居がかってはいるが丁寧で優雅な立ち居振舞いに、こちらの方が畏縮してしまう。
元汰も上総も、依頼人の匠も、思わず綾人に見入り、不覚にも感嘆の溜め息まで漏らす始末。
しかし当の綾人はと言えば、これで自分の責務はまっと全うしたとばかりに手近な回転椅子にどっかり腰を落ち着けて、ふぅとすっかり和みモード。

「「…ジジくせぇ……」」

その詐欺的な豹変に、騙されたと屈辱的な気分を味わった二人の少年が同時に悪態をつ吐く。

「別に否定はしませんよ。これも愛故の休息です。愛する人との蜜月の為にも腰は大事にしないと。何せ男は腰が命ですから」
「「げっ、変態チック」」
「誉め言葉と取って置きましょう」
「「好い加減な解釈すんな!」」
「おや?」

二度在る事は三度在るとばかりに、一言一句違わない台詞がぴったりとハモったのだ。
その三度目のシンクロに、元汰は匠へ、匠は元汰へ視線を移す。
そして二人の視線が絡み合った瞬間、突如芽生えたのは仲間意識。



「……」
「……」
「綾兄ってマニアックでサドでホモだろ?三拍子揃って変態サンなワケ。あんなヤツが教鞭取ってるなんて…ホント世も末だよなァ……」
「おまけに朝っぱらからポエムってるし…ありゃ、救えねぇ保健医だぜ?」
「あ!アレ見たんか?」
「そりゃもう、ばっちし!」

怒濤のように会話は流れた。



「もしかしなくても強敵出現?」

出会い頭ですっかり意気投合してしまった元汰と匠の弾む会話に上総がぼやく。
同タイプの人間は、惹かれ合うか反発し合うか、そのどちらかと相場が決まっている。
今回は前者。
外見は違えど、元汰と匠、二人の醸し出す雰囲気が似ているのは確かだった。
彼らを取り巻く空気も。
彼らの纏う色も。
他人という無縁を忘れさせるまでに良く似ているのだ。
言い換えれば、どちらも美少年だがお口にチャックの前提つきで、大雑把で天の邪鬼なじゃじゃ馬ということなのだが。

「大丈夫ですよ。元汰はああ見えて仕事の鬼ですから。仕事で妥協なんて以ての外。ましてや、依頼人に深入りして契約破棄なんてドジ絶対踏みませんよ。何せ彼にとってのお客様は神様ですからねぇ」
「綾人さんにとっては神様よりカモ様でしょ?」
「おや?なかなか鋭い。座布団二枚でどうです?」
「即興にしてはなかなかのいい出来でしょ?」
「毒舌を以て核心を突き、相手を怯ませ関心を逸らす。そうして自分の核心には決して触れさせない。僕はそういうの、嫌いじゃありませんよ」
「…喰えない人だなぁ、綾人さんは……」

綾人のフォローなど何処吹く風。
上総は弾む会話を耳障りな騒音と、急速に不機嫌になっていく。
ぐんぐん膨らむ黒い感情は疾うに理性の垣根など越えてしまっていて、自分の手に負えない勢いと、それが現時点での互いの好きの比重差に思えて、余計に上総を闇へと引き摺り込む。
お互い損な性分ですね、と綾人は口には出さずに語りかける。
一途すぎて。
夢中になりすぎて。
愛する人と自分以外全てのものを排除したくなる。
そんな二人きりの世界に恋い焦がれるまでの狂気な想い。

自分と似た色を持つその少年を複雑な面持ちで眺めながら、綾人は小さく溜め息を吐くのだった。





◇其之参 喰えないヤツら◆


「今回は新生縁結び本舗の初仕事ってコトで、少々派手に行きますかッ!」



一時間弱の雑談。
そして、依頼人を丁重に送り出したばかりなのに元汰はそんなことを言う。

「え?何もう対策練ったの?ずっと雑談してただけなのに?」

子供染みた独占欲を募らせ、これまた子供染みた盗み聞きを決め込んでいた上総は、積もり積もった不愉快も忘れて疑問を露わにする。
この一時間足らずの間に彼らが話したことと言えば、趣味や特技、学園内や家庭内での些細な出来事。
流行のドラマや好みの音楽、最近観た映画やハマった漫画。
そんな風に下らない世間話や愚痴程度なのだ。
ぺちゃくちゃと良く飽きもせずに、と流石の上総も苛立ちの上に呆れを上乗せし始めていたところだ。

「人間の本心は雑談にこそあり、ってな。親父が良く言ってた。日々の何気ない行動、無意識の言葉にこそ真実があるワケ。ギスギスした空気や堅苦しい質疑応答なんて以ての外。警戒心は命取りだからな。つまり、疑心や緊張は時にフィルターとなって相手の本心を覆い隠すから、なるべく普通を装って接しろってコト!」
「へぇ…ふぅん……」
「少しはオレのコト見直したか?」
「って言うか、惚れ直したって方が的確かなぁ」
「ほ、惚れ…公衆の面前で、んな恥ずいコト言うなッ!」

得意げに伸びかけた鼻は瞬く間に上総に手折られ、代わりに深紅に染まる元汰の頬。
褒められて照れ隠しに逆ギレするところは元汰らしいと言えば元汰らしいが、たまには素直な反応も見せて欲しい。
特にこんな風にドロドロの嫉妬にまみれている時は、できることなら穢れさえ知らない無垢な笑顔でこの黒い感情ごと浄化して欲しいのに。
でないと、自分も愛する人も滅茶苦茶に傷つけたくなる…。

「別に照れることないでしょ?おれ達愛し合ってるんだから」
「真顔で愛とか言うなッ!」
「そんな顔していいの?おれ危うくなったら制御不能だよ?人前でも全然平気だし」

そう言いながら綾人と紳耶の位置確認を始める上総に、元汰は捕食者の意志を感じる。

マジだ…あの眼はマジだ……。
人前で致せるなんて一体どんな神経してんだ?コイツ!
図太い。図太すぎる。
…お前の神経、半径10メートル以上あんぞ、きっと……。
望み薄の綾兄は…これ見よがしにウィンクなんか飛ばしてるし。
頼みの綱のホズシンは…壁に寄りかかったまま瞑想中だし。
マズイ。マズすぎる。
このままじゃ、完璧に喰われるッ。
どうする?どうする?オレ!



「こ、今回の縁結びの鍵はホズシンってコトでヨロシク!」

手短に用件だけ伝えると、元汰は逃げるが勝ちとばかりに放課後の化学室を飛び出す。
その突然のご指名には流石の紳耶も度肝を抜かれたらしく、瞑想を解いて声の発生源を探すが、そこは既にもぬけ蛻の殻。

「言い逃げなんてずるいっ!」

不意をつかれて口惜しげな上総の叫びの中、綾人はくすくすとさも楽しげに、しかしどこか苦笑混じりに事の成り行きを見守っていた。




「昨日のあれ、単なる口から出任せじゃないんなら、きっちり説明してくれるよね?」



放課後の化学室に待ち人一人。
背後に感じる静かで穏やかな息遣い。
背中越しの声からも微かな気配からも悪意は読み取れない。
元汰は振り向くことなく、片手を上げて挨拶する。
その声の発生源である壁際はとある人物の最近の定位置だった。

「目眩まし用の捨て台詞ってだけじゃなさそうだ」
「まッな。説明はメンツが揃ってからってコトで。OK?」

くるりと方向転換して相手に向き直ると、男は壁に凭れたまま無言で頷く。
最近気づけばそこにいるその男は、相変わらずそれが象徴の如く掴みどころのない謎の人だ。

「気配絶ちなんて悪趣味なのな、ホズシンも。センセ、忍者の末裔か何か?」
「残念ながら、そんな高等技術持ち合わせてないよ。でも、それで脅かしてしまったんなら済まないね」
「またまたご謙遜を。幾ら何でも武術の心得くらいはあるんだろ?」
「護身術程度ならね。でも、そんな大層なものじゃない。恐らく元々の存在感や影の薄さの所為だ」
「ふぅん…そんなモンか……?」

「……」
「……」

会話は膨らむどころか途切れ、その場を支配し始めたのは奇妙な沈黙。
その紳耶にとってはむしろ心地良い静寂が、元汰にはやたらと居心地が悪かった。
そう言えば、あんな風に独りで帰宅したのも、こんな風に静かな時を過ごすのも、随分と久し振りだから新鮮味すら覚えるのだ、とふと気づく。
上総との騒々しい日常がいつの間にか見慣れた日常へと掏り替わっていたことにも改めて気づかされる。
途端に何故だか不意に物悲しくなって、元汰の頭に真っ先に浮かんできたのは上総の顔。
悪戯っぽく見開かれた琥珀の瞳。
得意げに右眉だけ攣り上げる癖。
いつもは憎々しいその表情が、今日はやけに待ち遠しい。
何だか急に切なくなる…。

…ッたく、ちんたらしてないで早く来やがれ!
金魚の糞なら糞らしく傍にいろっての!
じゃないと…調子狂うだろ……?
…でも、なんでこんな感傷的になってんだ?オレ……。
……あぁッ!沈黙が息苦しいッ!!
きっと慣れない静寂に戸惑ってるだけだ。
気が動転してるだけなんだ。
…全部、全部上総の所為なんだからな……。



「無口な元汰って…なんか絵になりすぎ……」

30分弱の静寂がその何倍も、何十倍も長く感じられた。
漸く破られた静寂の中に、待ち望んだ声と感嘆の溜め息が響く。

「…上総……ッ」
「ん、何?元汰」
「…昨日…逃げちまって…悪かった……」

呼びかけた弾みで、不意に泣きたくなる。
漏れそうになる嗚咽。そして、目尻に浮かんだ涙を悟られまいと元汰は慌てて俯く。
…自分がこんなに脆くて弱い人間だとは思わなかった。
嬉し泣きなんて一体何年振りだろう?

「え?泣いてんの!?元汰??」
「バッ…だ、誰が泣くかっての!」
「でも…」

勢い余って見上げた黒曜の瞳は既に言葉とは全く正反対で。
…たった丸一日離れただけで自分がこんな風になるとは考えもしなかった。

「どうしたの?ねぇどっか痛い?苦しい?」

嬉しいだけだって。
逢いたくて逢いたくて堪らなくて…それで漸く逢えたらから……。

「ねぇ紳ちゃん、元汰に何かあったの?大体今日の集合30分遅れでしょ?なのになんで、いつもビリ尻の紳ちゃんがいんの?……もしかして…元汰虐めたの紳ちゃん?」
「結果だけ見ればね」
「何それ?どういう意味!」

元汰の涙に動揺した上総が敵意を剥き出しにして紳耶に噛みつく。

ヤラれた…。
それも、まんまと。
完膚なきまで。
何せ集合30分遅れなんて初耳だからな。
…ッたく、そりゃ余計なお世話ってヤツだろ?ホズシン……。

「ちょっとコンタクトがずれただけだって」
「えっ、そうなの?……って!元汰目悪くないじゃん!!」

元汰は掌でぐいと目尻を拭ってから、今にも喰ってかからんばかりの上総を片手で制す。
そうして、感謝のような軽蔑のような羞恥のような複雑な面持ちで紳耶を見遣る。
そんな元汰の視線も臆することなく受け止めた紳耶は、やはり壁に凭れたままくすりと一つ笑みを零すのだった。




上総にとって綾人が喰えないヤツなら、元汰にとっての紳耶もまた喰えないヤツ。

初めて見た紳耶の笑顔はやはりどこか人間味を欠いていて、それでもどこか妙に人間臭くて。
結局のところ、彼は相も変わらず謎の人なのだった。
何でこうも一癖も二癖もあるヤツばかり揃いも揃って…と元汰は頭を抱えたくなる。
しかしそれが棚上げ以外の何物でもないことに、元汰は一生気づかないかも知れない…。





◇其之四 お客様は神様です!?◆


「今回の依頼は実兄との縁結び。窪塚匠の想い人は実の兄窪塚新で、二人は正真正銘血の繋がった兄弟ってワケ」
「え?ホモで近親モノ!?それはまた女の子達が泣いて喜びそうな話だね」
「茶化すなって。別に恋愛は個人の自由だろ?第一オレらに言えた義理か?」
「ごもっとも」

手前勝手で棚上げな上総の台詞を、元汰は透かさず戒める。
上総とて本心からではないだろうが、この商売、下手な常識は命取りになる。
しかし今は何よりも、先程の羞恥から出た憎まれ口の意味合いが強い。

「んで、厄介なのはこれから。この窪塚兄弟、実はとっくに両想いらしいんだ」
「…なら厄介どころか、この依頼自体必要ないんじゃ……?」
「しかし、二人の関係は依然として兄弟のまま。それ以上でもそれ以下でもない。でしょう?」
「ご名答。互いの想いは向き合ってるのに、そこから先の一歩が踏み出せない。どんなに足掻いても、どんなに悩んでも、答えを見出せない。だから苦しい。悩んで、焦って、苦しんで…でもやっぱり、自分ではどうにもならなくて……だから他人に縋りたくなる」



『…オレ、かなり重症かも知んねぇ……』
『重症?』
『そ、重症患者。風邪で看病してもらった時な、オレ熱の所為で幻覚まで見ちまいやがんの。新…兄貴がキスして抱き締めてくれる幻……』
『幻…ッか』
『そ、幻。だってさ、ウブでカタブツ堅物で奥手だけが取り柄みたいな童貞男に、あんな大胆な真似できるわけねぇよ。じゃなきゃ、同情か?駄々っ子で世話の焼ける弟が不憫で可哀想だから、ガキ扱うみてぇに口移しで薬飲ませてやって…出張サービスでダッコに子守歌か、よ……』

発熱が見せた幻想。
夢か現、はたまた幻か?
ホントは自分でも気づいてるんだろ?
全ては現実で、夢でも幻でもないって…。



「…なぁんか口移しってえっちだねぇ……今度試してみよっか?元汰?」
「ひとが真剣に話してるってのに…ッたく、緊張感の長続きしないヤツだな……」
「あれぇ?元汰の眼、兎みたいですねぇ?」
「なッ!す、少しは黙って聞いとけっての!」
「あんな大胆な真似ねぇ…ちょっと微妙な表現ですよねぇ?」
「お?綾兄冴えてんな!オレの着眼点もその辺り。多分自分でもあれが現実だって分かってるんだろ」

それを現実として受け止めるのは意外に容易い。
退屈で平穏な日常を抜け出す術は案外そこかしこに転がってるものだ。
足りないのは勇気。そして無謀さ。
ただ現実と認めさえすれば、確実に二人の関係は変わる。
そして、同時に多くを失う。
兄弟の絆。家族の絆。円満な家庭。
両親を裏切り、血縁を否定し、多くの犠牲と引き換えに得るものはあまりに少ない。
だから、立ち止まってしまう。
解放・安定への熱望は根強く心に絡まり続け、時に本心を曇らせるから。

「二人共立ち止まってしまった。立ち止まって振り返ったら、殊の外冷静になってしまった。だから気づいたんだ、気づかなくてもいいことに。無我夢中で走り抜けても構わなかったのに、熱を失った眼で見るそこはドロドロとして醜く、目を逸らしたくなった」
「厄介な代物ですねぇ、兄弟の絆というやつも。兄だ弟だ、って生まれながらに鎖で縛られてる。何度も何度も呼び繰り返えされれば、無意識の内に絆が芽生え、情すら湧いてしまう。…例えそこに血の繋がりがなくてもそうなんですから、本当の兄弟なら尚更でしょうね……」

不意に綾人の瞳が元汰を捕らえる。
その眼差しが思いの外優しくて、そしてどこか哀しげで、元汰は何故だかやるせない気持ちになる。
その本当の意味を知らなくても…。

「依頼を受けた以上、二人には前に進んで欲しいんだ。足踏みだけでも靴底は確実に減り続ける。それなら例え1センチでも1ミリでも前進してもらいたい。結果的にどっちに転んでも、今みたいに燻ってるよりはずっといい」

恋愛なんて決して綺麗事だけじゃない。
もっと醜くて、浅ましくて、貪欲になるしかない時もある。
それが紛れもなく現実で。
そんな現実ともちゃんと向き合って。
それからなんだ。悩んで焦って苦しむのもそれから。
目を瞑ったままで歩き続けられる道なんて、きっとないから。
目を閉じたままで見つめる恋なんて、きっと偽物だから。



「で。今回ホズシンに頼みたいのは匠の彼氏の役。少々手荒でも、派手に立ち回ってくれても、全然OKだからさ。多少揺さぶってやんないと、一生そのまんまな気がすんだ。あの兄弟は」
「あの兄弟って…会ったことあんの?」
「全然。兄貴の顔も知らない。でもオレの分析じゃ、かたやワガママで天の邪鬼、かたやお人好しで優柔不断だろ?天地がひっくり返えんない限り進展しないって」
「…結構ボロクソ言うね……」

神様に対してこの暴言…上総はふと綾人の言った言葉を思い出して騙された気分になる。
責める想いで綾人に視線を移すと、

「愛する紳耶にそんな危険なことさせられません。僕が代わりに」

もっともらしい台詞と表情で代役を買って出ている。

「却下。綾兄じゃ胡散臭すぎ」

大袈裟にガックリと肩を落としてみせる綾人の姿に、上総は吹き出した。

「で、オレとか上総じゃイマイチ説得力に欠けるし。ってことで、ホズシンに決定。降板もなし。…やってくれんだろ?」

壁際の紳耶が無言で頷き、それを見た綾人が大きな溜め息を吐く。

「大丈夫だって。ホズシン結構役者だし、万が一逆上されても多分反対に伸しちまうし。な?」

しかしそれも所詮その場凌ぎの慰めと綾人が再び特大の溜め息を吐き、元汰と紳耶は顔を見合わせて吹き出す。
それで上総の笑いも高笑いに変わり、その笑いの渦の中で唯一綾人だけが力なく項垂れていた。





「綾人、元汰君のこと好きだった?」

窪塚家への道すがら、紳耶からの突然の問いかけ。

「ええ。でも、元汰には内緒ですよ」
「あっさり認めるんだ?」
「別に隠すことじゃないでしょう?」
「でも、彼だけには知られたくない?」
「ええ。過去も現在も、もちろん未来でも伝えるつもりはないんです。元汰にはずっと今のままでいて欲しい。僕の変化がその妨げになるなら、やはり僕も変化するわけにはいかないんですよ。フェイクな兄弟…それが彼にとっても、僕にとっても最適なんですから……」

きっと自分にとっての周防の存在が綾人にとっての元汰の存在なのだろう、と紳耶は思いつく。
何物にも代え難い唯一無二の存在。
愛する人とはそもそもの次元が違うのだ。
比較も代用もできない。
その自分の中での真実が、ひとたび綾人の中の真実に掏り替わると、途端に許し難いものへと豹変する。
人間とは、そして何より自分は何て身勝手で無様で貪欲な生き物なのだろう、と紳耶は心中で自嘲する。
しかし…それでもこの人を、綾人を愛している……。
自分が穢れても手放すわけにはいかない。
こんな激しい熱情は初めてで、初めての経験ばかりで時々無性に不安になる。

「…何か妬ける……」
「え?…そんな必要ないですよ。今じゃもうすっかり肉親の境地なんです。ほら、良く言うでしょう?娘には、いつまでも純真無垢で穢れを知らない少女のままでいて欲しいって」
「でもやっぱり妬ける…だから見逃してよ?ふりでも演技でも、綾人以外の誰かの恋人になること」
「本当はずっと僕の傍に縛りつけておきたいんですけどねぇ…」

言葉と共に素早く紳耶を抱き浚って、その手の甲に唇を寄せる。
そうしてきつく吸い上げると、ちりっとした痛みを伴ってそこには鮮やかな痣が咲いた。
そのささやかな所有の印を綾人は満足げに眺めた後、数メートル先を歩く二人に気づかれぬようそっと唇同士を触れ合わせる。

「続きは後で、ね?楽しみに待ってますよ」

離れた唇を耳元に寄せて囁くと、紳耶はそれが昔からの決まり事のように優しく笑んでから軽く頷いた。





「へェ、ホズシンってあんな風に笑うんだな。アレも恋人の特権ってヤツ?」
「そうだね。昔から感情表現下手な方だったけど、今よりはずっとマシだったんだ。なのにおれも、多分兄貴もあんな笑顔は見たことないからね」
「しッかし何もこんな真っ昼間から、そっれも天下の往来で、しッかも大事な仕事の前に…堂々とイチャついてくれるよなァ……」

こっちが照れ臭くなるとばかりに元汰がユデダコになる。

「愛する二人にTPOは関係ないよ。…何ならオレ達もしよっか?」
「…お前は幼稚園から道徳を学び直せっての……」

綾人の配慮も虚しく、しっかりちゃっかり出歯亀られていた昼下がり。
その午後の一コマなのだった。





「初めまして。匠君とお付き合いさせて頂いてます、穂積紳耶と言います」

にっこり。
紳耶が極上の笑みを披露してみせる。
顔の作りが下手に整っているだけに、惜しみなく晒されたその優美な微笑は怖いまでの迫力を放っている。
鮮やかな先制攻撃だった。

「「え!?」」

ただし、それが練り込まれた策略だとしたらの話。
初耳の新も、そして何故か匠ですら予想外の事態に驚きを隠せない。
それもそのはず。当事者の匠にも今回の計画は知らされていないのだから。
どうやら今回の縁結びに関して、元汰はとことん悪役に徹するつもりらしい。
そして、その中でも紳耶に課せられた責任が一番重大だ。
好きに立ち回れ、と元汰は言った。
待っている、と綾人が言った。
どちらも心からの信頼の証だ。
だから、紳耶も自分自身の意思と判断で動ける。
どんなに無茶苦茶でも、どんなに無謀でも、きっと彼らは受け止めてくれるから。
今ここにいるのは一人でも、四人の戦友は常に共にある。
その想いが支えになり、麻薬になる。



紳耶は心中でにやりと上面の笑顔を歪める。
胸が高鳴り、好奇心と探究心、そして冒険心が燻り始める。
既にいつもの紳耶はいない。
ここにいるのは匠の恋人である穂積紳耶。

「んなの聞いてねぇ…っん!」

匠の場合、何より先に出るのは手でも足でもなく口だ。
この口を最も合理的かつ効果的に黙らせる方法は?
紳耶の頭脳がその答えを瞬時に弾き出した。
紳耶がその我が儘で傲慢な唇を自分の唇で塞ぐ。

[なっ!なっ!…むぐっ]
[……]

彼の懐に忍ばせた盗聴器と、庭先からの覗き見。
片隅から高みの見物を決め込んでいた残りの面々、その中でも元汰が誰より先に叫びを上げる。
流石は元汰と言うべきか、口の早さと悪さにかけて右に出る者はもう既にいない。
そう。匠を除いては。

場が一時騒然となる。
幸い、咄嗟に災いの元を覆い隠した上総の掌と、匠・新ご両人の思考回路停止状態のお陰で危機は免れたが…。
残りの一人が曲者だった。
元汰と上総は自分の全体重で以て綾人に伸しかかり、既に顔面蒼白の彼の口を片手ずつで塞ぎ上げる。
もごもごバタバタと数分間の格闘の後、漸く落ち着きを取り戻した頃にはすっかり二人の唇も離れ切っていた。

ちっと上総が軽く舌打ちをして、三人は再び高みの見物を決め込むのだった。





思いがけずに綺麗な顔が迫ってきて、匠は固まってしまう。
そうかと思えば突然唇を塞がれ、息が止まるほど強く押しつけられた。
何が起こったのかさえ分からなかった。
全ては一瞬の出来事。
しかし、唇越しに伝わる柔らかな弾力は確かに記憶に残るあの感触で、それでも明らかにあの感触とは違っていて…。
そう思ったら最後。
いつもは五月蝿すぎる唇も固く引き結ばれ、言葉より先に涙が頬を濡らした。

「驚かせてしまってすまないね。でも、ほんの少し、ほんの少しの間だけでいいんだ。このまま黙っててくれると助かる。涙なら俺の服に幾らでも吸い取らせてくれて構わないから」

紳耶はそんな匠の顔を肩口に押しつけ、離れた唇を耳元に寄せて囁く。
殊の外優しい声だった。
さっき無理矢理唇を奪った人と同一人物にはとても思えない。
きっと何か考えがあってのことだろう、と匠とて頭では理解している。
縁結び本舗の評判だって知らないわけではない。
しかし、想いの通わない唇の感触はぞっとするほど冷たくて…。
涙が止め処なく流れた。
その涙も邪魔な感情も全てから、そして誰より新に隠したくて匠は紳耶の肩に自ら顔を押しつけた。

「すみません、お兄さん。俺タクミ…あっ、いえ匠君の傍だといつもこうなってしまって。好きすぎて抑えが効かなくて困ってるんです」
「年上の、しかも赤の他人からお兄さん呼ばわりされる筋合いはないよ」

それが故意の挑発とも知らず、新は剥き出しの敵意と不愉快さをぶつけてくる。
突然の恋人宣言。
突然のくちづけに、突然の抱擁。
目の前に酷な現実を叩きつけられて。
信じていた相手に裏切られて。
それはさぞかし屈辱的な気分に違いない。

(目の前の現実と心の中の真実。どちらを選ぶか?これが俺なりの試練。乗り越えるも諦めるも貴方達次第だ)

紳耶はこれ見よがしに匠の腰を引き寄せてその髪に鼻先を埋めた後、凛とした眼差しで新を見据えた。



「匠。本当か?」
「……」

布越しにしては随分熱い息が、紳耶の肩口にかかる。

「嘘だろ?嘘だって言ってくれるよな?」
「……」



『オレ、新のコト、それ以外に呼べねぇ…呼びたくねぇから……』



「お前言ったよな?兄ちゃんなんて呼びたくねぇって。新以外に呼べねぇ、呼びたくねぇって。…俺あの台詞、お前からの告白だと思ったんだ……」
「……」
「それも空回りか?俺一人の勘違いだったのか?なぁ匠?」
「……」



「……」
「……」



沈黙は往々にして肯定の意味に取られる。

「分かった。分かったから。…考えてみれば、お前も、何より俺が一言も言ってなかったんだ…好きとか付き合おうとか……」
「……」
「それで分かり合ってたつもりなんて、俺も大概馬鹿だな。お前は俺の二の舞するんじゃないぞ。幸せになって、俺のこと見返してくれないと。な?」

新は匠に歩み寄ると、自分から逃げるように背中を向けたままの匠の頭をポンポンと叩く。
これが最後かも知れない、と匠の直感が語りかける。
こんな風に子供扱いされるのも。
立派な大人面して説教されるのも。
今日が最後かも知れない。
今手放してしまったら、この先もう二度と手に入らないと…。
そう思ったら無意識に声が出て。
声に出して言ったら、途端に頭の中の煙が晴れた気がした。

「…ヤダ」
「え?」
「ヤダ。絶対ヤダ」

簡単なことだったのだ。
何も悩む必要はない。悩むのはもっとずっと先のことでいい。
自分は子供だ。
天の邪鬼でワガママなガキだ。
無茶も無謀も、今夢中になれるなら、いつか笑って話せる日がきっとくる。
だから。こんな風におっかなびっくり生きるのはもっとずっと先のことでいい。



「オレやっぱ諦めねぇよ。折角新の気持ち、こっち向かせられたってのに、ここで手放しちまうのは勿体ねぇからな」
「は?」
「悪りぃ、新。オレやっぱガキだ。だからワガママも言うし、バカもやる。今が楽しけりゃ後先だって、本当はどうでもいいんだ。だって楽しくなくちゃ人生じゃねぇモンな。だから認めてやるよ。新が俺のこと好きなのも、オレが新のこと好きなのもな」
「はぁ?」
「だから、兄弟以上の関係になってやるっつーの!」

その告白らしからぬ愛の告白と一緒に、匠は背伸びして新にキスをする。

「……あぁ、もう!何なんだよ、お前はっ!」

フラれた直後に告白されて、告白された直後にキスされて。
憑き物が落ちたようにスッキリ爽やかな匠の横で、新は訳も分からずそう叫び、頭を抱える。
今回一番の功労者は、実は新かも知れない…。





「それで、この…縁結び本舗?の皆さんに依頼したってわけか。たくみぃ…お前、私情に他人様を巻き込むなよ……」
「ごちゃごちゃうっせぇの、新は。これはビジネスだぜ、ビジネス」
「ビジネスなら、誰にでも迷惑かけ放題ってわけじゃないだろ?」
「んなの最初から計算の内だっつーの。成功報酬だって、多分消費税込みで迷惑料込みじゃねぇの?」
「成功報酬?…それ、誰が払うんだ……?」
「んなの新に決まってんだろ?男が割り勘だの何だのセコイことぬかすんじゃねぇーぞ。まっ、今日から思う存分ヤラシイことできんだから安いモンだろ?」
「お前なぁ……」

痴話喧嘩よりもまだ兄弟喧嘩に近い二人の会話を並んで聞きながら、誰もが思い浮かべたのは上には上があるという諺。
元汰以上の口の悪さと上総以上の毒舌。
ちょっぴり可哀想かも、と元汰の同情の視線が。
うちの恋人にもあれくらいの大胆さがあれば、と上総の羨望の視線が。
ひとの恋人の唇を無断拝借しといて、と綾人の嫉妬の視線が。
……、と紳耶の?な視線が。
各々の思惑を孕みながら、縁結び本舗の面々は新の行く末を案じずにはいられなかった。



「情けねぇぞ、新。男なら決めるところはビシっと決めろ」
「…お前も男なら男にタカるなよ……」
「細かいことぐちぐちねちねちと…これだから新はいつまで経っても童貞なの。まっ、しょうがねぇから交渉くらいはしてやるけど」

突然飛んできた火の粉に、元汰はギクリとする。
交渉内容は大方予想がつく。
多分例の…。

「オレの唇代さっぴいてくんねぇ?たかがキスでもキスはキス。何だかんだ言って、オレ結構ショックだったんだぜ」
「その件なら……」
「……………その件ならご心配なく。俺してないから」

元汰の語尾を盗んで弁明を始めたのは紳耶。

何言ってんだ?ホズシン!
オレはこの眼で確かに見た。
しかも。しかと見たんだって。
アレは唇と唇が重なってて…確かに…キスだった……。

「これ」

しかし、取りいだ出しましたるは、とばかりに紳耶が披露してみせたのは一枚のセロハンの切れ端。
それは弁明でも責任逃れでもなく確固たる真実で、その咄嗟の機転に誰もが感心させられることになる。

「今日の午前中に実験で偶然使ったセロハン。これを唇と唇の間に素早く挟んで…こう……」

紳耶は綾人と向かい合い、百聞は一見に如かずと実践してみせる。
突然目の前でキスシーンを見せられて一同面食らいはしたが、それは思いがけない効果をも生み出し、絶大なる威力を発揮した。

「なるほど。これは外すのも至難の技ですね。…おまけにちょっと息苦しいし、何より唇の感触が楽しめませんしね……邪魔」
「ん…んふっ……」

綾人は邪魔者のセロハンを舌で器用に紳耶の頬までずらすと、漸くヴェールを脱いだ唇に舌先を伸ばしその感触を楽しみ始める。
公衆の面前だと言うのに徐々に深く大胆になっていくくちづけ。
これは匠の思惑も、新の疑心も、綾人の嫉妬も、同時に取り除く最高の論より証拠だった。
それを当の紳耶は知ってか知らずか。
侮り難し…元汰は複雑な面持ちでその抱擁から目を逸らしたのだった。



毒舌VS知略。
軍配は紳耶に上がったようだった。





◇其之五 やっぱり相変わらずなふたり◆


「これにて一件落着ってことで、今度はおれの欲求不満解消してくれない?」
「な、何だよ?欲求不満って!…肉体を酷使する行為は却下だからな……」
「平気平気。酷使するのは口だから」
「口……まさかッ!」

口移しと言いかけて、元汰はそれを飲み込む。

「今えっちなこと考えたでしょ?」
「なッ!」
「図星?ふぅ…口で奉仕ってのも捨て難いんだけどね、おれそんなのじゃ全然足りないの」

口で奉仕?
元汰の幼稚な想像力が限界を越え、危険信号を発する。

「そ、そんなのって…んじゃ一体何なんだよ?」
「……」

沈黙がより一層不安を煽る。

「…頼むから、勿体つけないでとっとと言ってくれ……」

これ以上の生殺しは耐えられない、と先に音を上げたのは元汰だった。
が、懇願の視線の先にいたのが真顔の上総だったから、元汰まで釣られて神妙な面持ちになってしまう。




「…あの日以来、おれ元汰からもらってない……」
「報酬ならちゃんと1割ずつ……」
「………………………………違うって」
「じゃ、何を?」
「好きって言葉。たった一度っきりだよ?それも多分なんて曖昧なのだけ。そんなんじゃ、おれ全然足りないよ。ねぇ元汰、おれの欲求不満も解消してくれるよね?嘘でも構わないから言ってくれるよね?」



「…言えない……」



「なんで…?」
「嘘なんかで言えるワケないだろ?…オレ…オレは…その…ちゃんと、好き、なんだから…お前のコト……」

蚊の鳴くような声だった。
注意していなければ聞き取れないような小さな囁き。
それでも、それは確かに上総の待ち望んだ告白だった。
夢でも幻聴でもない。
俯いたまま動かない照れ臭げに染まる真っ赤な耳が一番の証拠。
その姿が何よりも愛おしく思えて。
上総は元汰を力一杯抱き締めた。

「く、苦しぃって」
「…ねぇ?」
「何だよ?」
「しよ?」
「お、お前…自分の言葉にもっと責任持てよ……」
「おれ、しないなんて一言も言ってないよ。今度はちゃんとベッドの中で聴かせてくれるよね?」




そんなこんなで、今日もまたラヴホテル行き決定。
昨日の分まで付き合わされること必至。
元汰は無事ベッドの中で愛を囁くことができたのか?
それは神のみぞ知る…。




HAPPY END
2001/4/10 fin.

戻ル?

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