馬の耳に念仏…。
猫に小判……。
掃き溜めに鶴………。
そして…ゴミ箱にティッシュ…………。
「ゴミ箱にティッシュってなんか…エロい、よ、な……」
俺はとある部屋のゴミ箱に向かって、まるで『王様の耳はロバの耳』の如く呟いた。
ーーーそれが昨日のこと。
そして、今朝ーーー。
「……」
双眼に映るおどろおどろしいばかりの朝食。
「本日のメニューはスクランブルエッグ・秋鮭のムニエル・バタートーストにカフェオレですよ?」
柔らかな陽射しとすずめのコーラス。
小気味よく響くリズミカルな包丁の音。
寝惚けた鼻を心地よく擽る朝食の匂い。
ちょっとだけ外国かぶれの、でも典型的な日本の朝の風景…と言いたいところだが……。
黄と白のまだらも美しいぐちゃぐちゃのスクランブルエッグ…。
新鮮さを水分と一緒に蒸発させたボソボソのムニエル……。
炭の塊と化したこげこげのトースト………。
ブラックホール渦巻くドロドロのカフェオレ…………。
…一体全体どうやったらこんな不味そうなもの作れるんだろうか……??
俺は指折り数える目の前の人物を見つめながら、爽やかな朝には似合わない重苦しい溜め息を吐く。
これもある意味…ひとつの料理の才能というヤツかも知れない……。
「さあ、どおぞ召し上がれ」
そんな俺のウンザリ顔をよそに、大きく広げられた両腕と極上の微笑みが朝食に花を添える。
「ちなみに…泰斗サン……味見はしたんですか?」
「泰斗サンだなんて他人行儀な…。『おとうさん・』そう呼んでくれて構わないんだよ?和思(かずし)クン?」
「泰。斗。サ。ン。味見は?」
「……」
「……」
一瞬の間。
「ほおんと、和思クンって照れ屋さんなんだから」
「……」
それならば、とあくまで質疑に答えようとしない彼に、俺は『味見は?』と口には出さずに追い打ちをかけた。
いわゆる無言の威圧ーーー彼はどうもこれに弱いらしい。
「…してません……」
案の定ヘビに睨まれたカエルのようにすっかり無駄な抵抗心を削がれた彼はしぶしぶと答え、そしてしょぼんと肩を落として俯いた。
彼ーーー天馬泰斗(てんまたいと)。
こう見えても、俺達はれっきとした親子だったりする。
彼は俺の父親で、俺は彼の息子。
そう、戸籍上は。
しかし実際問題、6歳しか年の違わない男を『お義父さん』と呼んで慕えるほど、俺はまだ大人じゃないらしい。
母親が長期出張と称して外国に旅立ってから早半年、俺は彼と二人きりの生活にまだ慣れていない。
それもそのはず。
子供を女手ひとつで養うために必死で働く母親。
愛情に飢えながらも自立するしか術のない子供。
典型的な母子家庭に育った俺は、ずっとこうしてひとりぼっちで生きてきたんだから。
もちろん彼の一生懸命さは認めている。
いつまで経ってもよそよそしい義理の息子をどうにかして手懐けようと画策・奮闘している苦労も認める。
認めるが、昨日の一件以来寝不足の、今日の俺はどうしてもいつもより寛容にはなれない。
大人は寛容だ。
誰がそんなこと決めたんだろう?
もしそれが真実なら、俺はまだまだ尻の青いガキんちょかも知れない。
なぜならーーー。
やっぱりこのお綺麗な男でも独り寂しく…秋の夜長を…そ、の…自分で慰めたりするんだろうか……??
俺は昨夜からそんなことばかり考えている。
そりゃ…それが男の性だし…生理現象だし…するよりしない方が不自然かも知れないが……。
でも!この男に限っては、むしろ後者の方が自然に思えるんだからしょうがない!!
「だから。何も無理して作ってくれなくても、自分で何とかするって言ってるでしょう?」
「……ごめんなさい。でも、私にできることと言ったら…これくらいしか思い浮かばなくて……」
俯き、影を落とす長い睫毛にドキリとする。
この憂いを含んだ表情ーーーとても29歳で、三十路間近の既婚男性には見えない。
下手したら外国人とも女性とも見まごうような顔つき。
この顔が月明かりの下、快感に切なげに歪んだりするんだろうか?
それはきっと特別な女性(ひと)にだけ許された特権で……?……………っ!?
自分の想像に自分ではっとする。
俺は一体…朝っぱらから何を考えてるんだ……!?
こうして俺は、清々しい朝には不釣り合いの邪な妄想を振り切るべく、目の前のおどろおどろしい朝食を一気に頬張ったのだった。
***
「…ん……っんん!」
俺はベッドに寝転がったまま、濡れた自分の左手を翳してみる。
カーテンから射し込むささやかな月の光がその飛沫をキラキラと照らし出し、それは俺の罪をも浮き彫りにしてるようだ。
天井目掛けて吐いたはずの熱い弾んだ息も、脱力しきった身体にぴったりと張りついて、それは俺の罪を咎めているようにさえ思える。
「俺って最低…自分の親父…オカズにしちまうなんて……」
俺はむくっと身体を起こし、ベッドサイドにあったティッシュで素早く汚れた掌を拭った。
なんか…ティッシュを取り出す音にさえ、いちいち罪悪感を感じる……。
しかし!今はこのモヤモヤを消し去る方が先決だ!!
すんでのところで止められたものの重要書類をシュレッダーに掛けようとするは、内線電話の上司相手に『お世話様です』なんて挨拶するは、今日は散々だったのだ。
これ以上、公私混同で仕事に支障を来したくはない。
「なぁいす、コントロール」
そんな自分が情けないやら恥ずかしいやらの俺は、罪悪感も一緒くたに丸めて、ティッシュをゴミ箱に放り投げる。
緩やかに弧を描いてゴミ箱に吸い込まれるまでの軌跡を目で辿りながら、俺は着衣の乱れを整えて立ち上がった。
「…喉、乾いた……」
幸か不幸か、この自慰行為のお陰で昨夜から燻っていた熱も治まったし、こういう時はさっさと不貞寝するに限る!
俺は冷蔵庫に常備してあるビールを寝酒代わりにと想いを馳せ、舌なめずりする。
寝酒を煽って、ひんやりとした布団にくるまって、ひとりぼっちが寂しかったあの頃のように羊でも数えながら寝るとしよう。
10年以上もそうやって生きてきたのに…今はそれが少しだけ胸をざわつかせる……。
『和思。この男性(ひと)が和思の新しいお父さんよ』
そう言って、いきなり見知らぬ人がお義父さんになった瞬間から何かが変わってしまったのだろうか?
「ん……」
不意に物悲しさを感じ、俺はそれを拭い去るように階段への一歩を踏み出す。
その時だったーーー。
ーーーか細い声。
まるでネコの鳴き声のような、啜り泣きのような、それでいて妙に色香の漂う甘美な響き。
俺はその誘惑に夢遊病者のように導かれ、とある部屋のドアに辿り着く。
それは昨日なんとはなしに覗いて、そのゴミ箱にさっきの自分と同じように丸めたティッシュを発見してしまったーーーその部屋。
泰斗サンの部屋。
今、その部屋から紛れもなく快感に彩られた嬌声が漏れている。
「ん…んっ……あ、」
下半身にずしんとくる甘い響き。
何を想い、どんな仕草で、彼はこんな風に毎夜自分を慰めているのだろう?
事実に遭遇した瞬間、俺から罪悪感は消え、代わりに湧いたのは子供のような探究心と好奇心。
いつの間にか伸ばされた左手は自分の股間に、右手は覗いてはいけないはずの禁断のドアに触れていた。
「んん…んぁ…ぁっ……う、ん」
天高くそそり立つ雄の象徴。
射し込む月光でその先端はぬらぬらと光り、白く細長い指先は幾重にも蠢き、貪欲に絡みついては、淫猥な水音を奏でている。
それは神聖な儀式にも、反面悪魔に魂を売るような禍々しい儀式にも見える。
だから、俺は目が離せない。
こういうのを虜になる、というのだろうか?
俺はふとそんな言葉を思い浮かべた。
目も耳も、あらゆる感覚と全神経がそこに集中する。
男の、しかも戸籍上は父親である男のマスターベーション生本番を見て、自分も欲情してるなんで可笑しい。
いや、それ以前にゴミ箱でティッシュを認めたくらいで下手な妄想をすること自体可笑しい。
でも…それでも……この手を止めることはできない。
同じタイミングで上下する自分の手を止められないまま、俺の目はベッドの上で揺れる半裸に益々釘付けになる。
あの切なげに歪み、仰け反った虚ろな瞳は、遠く外国の地にいる最愛の人を見つめているのだろうか?
そう考えると、胸の中に小さな小さなわだかまりができる。
「は、ん……んっ…んん…うっ、ん」
その小さな小さな隙間を埋めるように、俺は目の前の行為に更に没頭していった。
限界が近い…彼も…俺も……。
急速に追い立てていく彼の手の動きに合わせて、俺もスパートをかけた。
「う…っ」
ーーー泰斗サン。
心の中で呼び掛ける。
もう少し…あともう少しで…一緒に、達け……る。
その刹那だったーーー。
「ん!ぁっ…か、ずし…く……んあ!!」
……。
か、ずし…く……?
……………和思クン??
「~~~っ!!」
彼が達く瞬間に叫んだのは…なぜか…俺の名前で……。
その意外な言葉に俺は焦り、おののき、そして……………萎えた。
「おはようございます。今日のメニューはーーー」
いつものように夜が明ける。
ぐちゃぐちゃドロドロの朝食に、爽やかな笑顔が花を添える。
しかし、俺は今朝も寛容にはなれないだろう。
だって、今日の俺はまた寝不足だ。
Happy End
2001/10/24 fin.
戻ル?
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