一体いつからだろう?
オレの気持ちはいつから変化したんだろう?
姿を見るのも。
声を聞くのも。
最初は忌まわしく思える嫌悪の対象でしかなかったのに。
クラスメイトの思惑に填って。
半ば強引にパートナー組まされて。
いつの間にか一緒にいるのが自然になって。
今じゃ世間一般で言うところの恋人同士ってヤツだ。
オレの気持ちはどこで好きに変わったんだろう?
好きと嫌いの境界線はどこにあったんだろう?
(…オレが神那を嫌いになったそもそものキッカケって何だっけ?)
神楽は自分の横で安らかな寝息を立てている恋人の顔をそっと覗き込む。
眼鏡越しではない彼の寝顔は意外にあどけない。
それはきっと自分しか知らない素の神那なわけで。
神楽は暫しの間、至上の幸福と優越感に浸る。
「…ぅん。…?……おはよう」
強烈な視線が覚醒を引き起こしたのか、神那の夢と現を彷徨う瞳が神楽を捕らえる。
そしてそのまま習慣染みた仕草で、ベッドの中から手探りの眼鏡探しをする。
銀縁チタンフレームの眼鏡は読みかけの本の上。
そこが定位置だ。
それを身につけると、神那はすぐさま普段の、いつもの神那に豹変してしまう。
そのことをここ数日の同居生活(居候生活とも言う…)で学んだ神楽は素早くその眼鏡を奪い取った。
もっと自分だけの恋人でいて欲しいから。
もっと彼だけの恋人でいたいから。
裸眼の神那VS野生動物並みの神楽。起床後1分弱の神那VS起床後10分強の神楽。
それは猿でも分かる勝敗の結果で、もちろん軍配は神楽の方に上がった。
そこで、ふとした遊び心が芽生える。
半分以上好奇心で先取した眼鏡を身につけると、途端に視界がぐにゃりと歪んだ。
「んげェ、何これ?目回りそ……」
「当たり前だ。両目2・0の人間が身につけたらどうなるかなんて猿でも分かる。ほら、早く返せ」
「……ヤダ」
そう拗ねた口調で告げると、神那の裸眼でも認識可能な距離に自分を位置づける。
どうやら意思表示のつもりらしいことは、徐々にはっきりくっきりしてくる表情を見れば一目瞭然だった。
一旦ヘソを曲げたら丸一日は機嫌を直さない頑固者だ、と神那は知っている。
だから、こうして結局自分から折れることになるのだ。
つくづく自分は神楽に甘い、と神那は思う。
「朝一番に神楽の顔を見ないと落ち着かないんだ。だから、な?」
左手をゆっくりと差し出す。
「…眼鏡ナシでも見えるでしょ?この位置なら……」
その左手を邪険に振り払う。
「これだけじゃ物足りないな。もっと、じっくり見たい」
左手を神楽の頬に寄せる。
「…じゃ、もっとくっつけば?そうすれ、ば…ん……ぅん」
その左手の上に自分の右手を重ねる。
そのまま珍しく早起きの眠り姫に、王子は遅ればせながら目覚めのキスを落とした。
最近、神那は機嫌が悪い。
機嫌が悪いって言うよりか、情緒不安定って言葉の方が合ってるかも知れない。
冷静沈着が売りのクセに、怒ってみたり、笑ってみたり。
些細なコトでニコニコしたり。
かと思えば、些細なコトでイライラしたり。
『最近の会長、何か会長らしくないよなぁ?』
そんなの言われなくても分かってる。
原因だって気づいてる。
そんなのオレだろ?全部オレの所為だろ?
分かってるって!分かってるけど…。
…まだ自信がないんだ……神那の全てを受け入れる自信が。
オレにとってのちっちゃいが、時に神那にとってのでっかいに変わる。
神那の中でオレの占める割合が大きくなる度に。
大きくなる毎に。
神那が神那でなくなる気がして。
怖い。怖いんだ…。
全てを受け入れて尚、オレの好きな神那は存在するんだろうか?
そもそも好きと嫌いの境界線はどこにあったんだろう?
だから。
だから、オレは前に進めない。
このままじゃ、本当の神那が消えてしまうと分かっているから。
「ね、オレっていつから神那のコト好きになったんだっけ?オレ達昔は犬猿の仲だったでしょ?でもさ、思い出せないんだ、神那のコト何であんなに嫌いだったのか」
…いつからこんなに好きになったのか?
好きと嫌いの境界線を見出せない。
何処から後ろが嫌いで、何処から先が好きだったのか?
でないと、一番始めに好きになった神那が、本当の神那の姿が思い出せない。
しかし、これは見当違いの質問。
神楽本人さえ分からない心境の変化を、他人の神那が答えられるはずはない。
ましてや、相手は突拍子と脈絡のなさにかけては天下一品の男。
無理矢理組まされた課題の終了と共に逃げていかなかったところを見ると、その時点で何らかの心境の変化があったとまでは想像できるが…。
結局は想像の域でしかない。
そんなの反対にこっちが聞きたいくらいだ…と、神那は思う。
「神楽のことは分からないけど…俺は最初嫌いだったな、お前のこと」
「え!?」
薄々感じてはいたが、面と向かって言われたことがなかった事実だけに内心の動揺とショックは隠せない。
「俺が望んでも得られないものを持っているお前が、望めば容易く手に入れられるお前が、俺は嫌いだった」
一瞬嫌いという響きにびくりとして、それでもだったという響きにほっとする。
「ま、今にして思えば情けない嫉妬話だな。…でも、それでも心底羨ましかったんだ、神楽のこと」
神那の瞳があの頃を追い求めて、切なげに、そして少しだけ慈しむように彷徨った。
嫉妬…?
……そうだ、オレも嫉妬してた。
オレも神那に嫉妬してたんだ。
あの頃のオレはコンプレックスの塊だった。
地位も名誉も権力も、全てを味方につけた神那のコト、オレは羨ましかった。
オレは妬ましかったんだ。
オレにあるのは偽りだけだったから…。
決して自分の力で手に入れたものではなかったから…。
そして、同時にあの人の姿を重ねた。
「俺に欠けている部分を持ってるお前が気になって仕方なかった。本当はあの頃から好きだったのかもな。ただそんな自分を認めるのが悔しくて。だから嫌いだなんて自分に言い訳して。神楽のことずっと見てる口実にしていたのかも知れないな」
嫌いが好きの口実…?
……確かにオレも神那のコト、気になって仕方なかった。
だからいつも目で追って、いつも探してた。
そして、気がついた。
神那が孤独だってコトに。
だからオレ、近づきたいと思った。
オレが傍にいてやりたいと思った。
それから、またあの人の姿を重ねた。
あれが好きと嫌いの境界線?
なら、オレの好きになった神那は…。
「オレ達、磁石みたいだな?自分と正反対のものに惹かれて、寄り添って…いつの間にか、お互いの極まで狂わせちゃうのかなァ……」
「何だよ、それ?」
そう返して神那は笑ったけど、オレには笑えなかった。
だって、神那の極がオレの極に狂わされてるのが分かるから…。
これ以上一緒にいたら、きっと本当の神那が壊れてしまうから…。
神那は神那でいて欲しくて。
ずっと神那であって欲しくて。
だから、オレは神那から離れる決意をした。
「お願いします。神楽さんに会わせて下さい」
「駄目だ。一体何度言ったら分かるんだ。神楽は君に会いたくないと言っておる」
「それなら、話だけで…」
「………………………帰ってくれ。神楽にとって今は重要な時期だ。余計なことに心を惑わせている時間はないのだよ」
『オレ達、磁石みたいだな?自分と正反対のものに惹かれて、寄り添って…いつの間にか、お互いの極まで狂わせちゃうのかなァ……』
翌日、神楽は神那の前から姿を消した。
その言葉だけを置き去りにして…。
神那は動揺していた。
突拍子のない行動や脈絡のない台詞には大分免疫ができたつもりだったが、今回ばかりは波乱含みの様相を帯びていた。
あの日もいつも通りの神楽だった。
いや、いつも通りの神楽に見えていただけかも知れない。
あの時は笑って遣り過ごせた台詞が今は耳にこびりついていて、非道く神那を不安にさせていた。
だから、神那はすぐさま神楽の自宅へと走った。
あの日以来学園にも姿を見せない神楽に逢う為にはこうするより他なかった。
取り次いでさえもらえない電話など、何の価値もないガラクタ同然だ。
『オレ、自宅に帰ります。ホントお世話になりました』
翌日、神楽は神那の前から姿を隠した。
こう笑顔で神那の母親にだけ告げて…。
神那は思案していた。
あの台詞は神楽の残した唯一の手がかり。
神楽は二人のことを磁石に例えた。
自分と神那は正反対の人間だと。
正反対の極だと。
磁石は引き合い、くっついて、何れ極を狂わせてしまうと。
二人一緒にいることが互いを狂わせてしまう、とそれは暗に語っていた。
神楽の心の叫びにも似た台詞が今も耳にこびりついていて、非道く神那を混乱させていた。
神那は諦め切れなかった。
このまま二度と、自分の耳も瞳も腕も、神楽を捕らえられない気がして…。
だから、幾度断られても、幾度退けられても、神那は諦めなかった。
その内雇いのメイドでは対処し切れなくなり、現れたのが秋葉神明(あきばじんめい)だった。
秋葉神明、つまり神楽の祖父。
華道神鳴流の家元。
神楽が嫌悪感を抱く唯一の肉親。
そして、今回の家出の原因。
そんな人の待つ家に、逃げるように飛び出してきた家に、神楽が自分の意志で帰るとは到底思えなかった。
「神楽のこと、無理矢理連れ戻したんですか?」
「…失敬な。神楽は自分の意志で戻ってきたのだ。自分の意志で後継者になる道を選んだのだよ」
「…後継者……?」
「そうだ。これから神楽は忙しくなる。神鳴流の後継者として学ばねばならないことは山程あるからな。学校の方もそれ相応の所へ転校させるつもりだ」
「…神楽が、転校……?」
「分かったら、大人しく帰ることだな。君は神楽に相応しくない」
『キミハフサワシクナイ』
その言葉がまるで呪文のように。
それはまるで耳鳴りのように神那の耳に木霊する。
運命…定め……そんな諦めに似た感情が突如彼の頭を過ぎった。
「やめろ!もうっ…やめてよ!!」
が、その時。神那と神明、二人の間に入った亀裂の中に聞き慣れた罵声が飛び込んでくる。
振り向いた視線の先には、泣き腫らした瞳を更に潤ませた神楽の顔。
「もう好い加減にして…神那がオレに相応しくないんじゃない。オレが神那に相応しくないんだ……」
嗚咽を噛み締めながら、それでも何とか神楽は言葉を紡いでいく。
「それに…オレは神鳴流の後継者になる気なんてない。オレはっ…神鳴流にだって…お祖父様にだって、相応しくない。オレが相応しいものなんて、この世にはない、から……」
バシッッッッィ!!
肌を刺すほどの悲愴感を放って地べたにへたり込んだ神楽を抱き留めようと急いだ神那の腕より早く、神明の平手が彼の頬を打った。
「な!何するんですか、貴方はっ!!」
しかし、今にでも掴みかからんとする神那の腕を制したのは、他の誰でもなく神楽だった。
「…神楽……」
「いいんだ、オレは大丈夫だから。それより…お祖父様がこんな風に叱ってくれたのって初めてだよね?」
そして、そのまま神明に向き直る。
「…お前があまり馬鹿なことを言うからだ。そんな愚か者の未熟者に家元の座を譲るほど私は惚けても老いてもいない。さっさと、どこへでも行って、人生勉強の一つでもしてくるんだな。この頃のお前は滅法湿っぽくて敵わん」
我が孫と視線を合わせようともせず、神明は淡々と言ってのける。
しかし、その口調にもその横顔にも生まれて初めて優しさを覚えるのは気の所為だろうか、と神楽は長年のわだかまりが消えていくのを感じていた。
「ありがとう。お祖父様……」
こんな風に心から感謝の意を伝えることさえ、疾うの昔に諦めてしまっていた。
(歩み寄るコトを忘れていたのは、オレも同じだったんだな……)
「それと…お前の価値などこの私が一番良く知っている。あまり自分を卑下するな」
「……はい!!」
一方通行だと思っていた道は本当は狭いだけで、譲り合い妥協し合うことで充分二台が通れる道だったのだ、と今更ながらに気づく。
いつの間にか沈みかけた太陽が、三日ぶりの再会を果たした二人を柔らかく照らしていた。
人生に遅すぎるなんてないよな?
だって、明日も明後日も、そして明々後日も同じように朝は来るんだから。
「オレが神那を嫌いになったワケ思い出したよ。やっぱり嫉妬、それとお祖父様と神那がシンクロしたから。かな?」
「俺とあの頑固ジジイが、か?」
感情のままに反論してみせてから、神那ははっとする。
相手はただの頑固ジジイではない。
神楽の肉親の頑固ジジイなのだ。
あくまで頑固ジジイは頑固ジジイだが、肉親の悪口を肉親の前でするべきではない。
それは明らかに暴言だった。
そうして慌てて取り繕うとする神那の前で、神楽はくすりと小さく笑む。
「似てたよ。前はスゴク似てた。だから嫌いだった。…でも、それはやっぱり神那の言った通り好きの口実で、オレも始めから好きだったんだと思う、神那のコト」
オレ達ずっと両想いだったんだな、と笑う神楽の微笑はいつにも増して優しく、そして切ない。
「だから。最初に好きになった神那のコト消したくなかったから……」
本当の自分を見失って欲しくなかった。
だから神那から離れたのだ、と神楽は瞳を潤ませる。
泣いて、泣いて、一頻り泣いて。
もう涙は枯れ果てたハズなのに、神那の傍にいるだけで無性に泣きたくなる。
枯れ果てた涙の奥から、再び温かいものが込み上げてくる。
「人間なんて多かれ少なかれ変わっていく生き物だろ?いや、本当は変わっていかなきゃならないのかも知れない。どっちにしても、それが好きな人の為なら、好きな人の為に変わりたいと思うなら、俺は幸せだと思う」
「でも、オレにはできないから…。オレはずっとオレのままなのに…神那は、神那だけが変わっていくんだ」
「俺は今の神楽で構わない。今の、今のままの神楽がいい」
「それじゃ、不公平だろ?」
「でも、俺の為にそうやって一生懸命悩んでくれる。笑って、泣いて、怒って、一生懸命伝えてくれる」
「…それでも、ダメだよ。全然足りない……」
「それなら最後にとっておきだ。俺は昔の自分より今の自分の方が断然気に入ってる。今の自分より明日の自分を好きになれる自信もある。神楽のお陰で変われたんだ。神楽の為に変わりたいんだ。それじゃ駄目か?納得できないか?」
あまりの嬉しさにまた涙が込み上げてきて、神楽はただただ頷きを繰り返した。
何度も何度も頷いた。
「おいおい…今日は泣いてばかりだな」
そう返して神那は笑ったけど、やっぱりオレには笑えなかった。
人間本当に嬉しいと泣けるものらしい、少なくともオレはそのタイプの人間らしかった。
神那には神那の進むべき道が、オレにはオレの進むべき道がある。
願わくば、その道が隣り合わせで、並んで歩く傍らで時々手を繋げたら、と思う。
それだけで、オレはまた前を向いて歩いていけるから。
「これ、バレンタインデーのお返し」
神楽は左掌を差し出す。
「俺、何もあげてないだろ?」
「もらったよ。好きって気持ち、幸せな時間、いっぱいもらった。愛しい想いも、切ない想いも、いっぱい教えてもらった。だから、これお返し」
ぎゅっと握り締めていた掌をゆっくりと神那の前で広げる。
しかし、開いた掌には何もなく。
その開いた両手のまま、神楽は神那を抱き締めた。
「これ、もらって。オレの気持ち、オレの精一杯…オレのコト……もらって?」
「…いいのか?」
「うん。オレも神那と、その、…っ、んん」
神楽の返事を待たずに神那はくちづけた。
二人の身体はゆっくりと、闇とシーツの波の中に溶けていった。
「あっ、そうそう。そういえば、お祖父様から手紙預かってたんだ」
「手紙?」
「そ。神那宛の手紙」
神楽は泣き腫らした赤い瞳でシーツにくるまる。
そのまま兎のような仕草でベッドから跳ね落ちると、手荷物をゴソゴソと探り、一枚の封筒を取り出した。
その封筒には達筆で『伊集院神那殿』と記されてある。
何やら一抹の不安を感じつつも、神那は封を切ってその流麗な筆文字と文面を目で追い始めた。
『拝啓 伊集院神那殿
先程の非礼の数々、誠に申し訳無い。
その上、不肖の孫の面倒まで押しつけてしまい、重ね重ねお詫び申し上げる。
が、しかし。それも自業自得。
私に曾孫の顔を拝ませられぬ罰と肝に銘じて、心身共に鍛錬するが宜しかろう。
敬具 秋葉神明
追伸・何事も予防が大切じゃよ。』
「なっ!あんの…狸ジジイっ!!」
神那にしては珍しく顔を紅潮させて、勢い余って握り締めた拳をふるふると震わせている。
その耳に神明の高笑いが幻聴にしては生々しい質感を以て襲ってくる。
「ねぇ、何て書いてあったの?」
横から覗き込もうとする神楽を、神那は慌てて制した。
「大したことじゃない。ただ…神楽を、自分の孫をよろしく、とそれだけだ」
嘘は吐いていないと心に言い聞かせながら、それでも何かを誤魔化そうとするかように重ねてきた唇を、神楽は黙って受け止めた。
似た者夫婦とは良く言うが神楽と神明はそれ以上に瓜二つだ、と神那は少々げんなりした。
でも、そこはそう。
食わず嫌いのまま終わらせる気は毛頭ない。
嫌いは好きの裏返し。
そこが二人の出発点だったのだから…。
閉じた瞼の裏に互いの顔が、この世で最も愛しい人の顔が、鮮明に蘇っていた。
HAPPY END
2001/3/9 fin.
戻ル?
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