Pururu...Pururu...
電話は『死』という言葉を彷彿させる。
電話のベルは、俺にとって『死』を告げる旋律だった。
そう、あの瞬間まではーーー。
Pururu...Pururu...
伊吹の身体がびくんと跳ね上がる。
死を告げるベルの音を聴いたのも、こんな風に蒸し暑い夜だった。
「ったく、情けないよなぁ…」
愚痴のつもりで吐いた言葉が、余計に記憶の引き出しを揺さぶった。
身体に纏わりつく湿気も熱気も、耳障りな雨音も、全てがあの出来事を鮮明に蘇らせる。
6月。
普段なら不快極まりない蒸し暑さも、雨の音も匂いも、その日の伊吹にとっては心地良い要素でしかなかった。
理由は明白。
それは今日の彼にとって、それらが自由の象徴だったからだ。
『伊吹。父さんと母さん、来週から3泊4日の旅行に行くけど、独りで大丈夫?』
過保護な両親の突然の子離れ宣言に、伊吹は我が耳を疑った。
空耳に違いない、と彼の全神経が主張する。
『父さんと母さん、来週から3泊4日の旅行に行くけど、独りで大丈夫?』
『えっ?えぇっっ!!』
しかし、ご丁寧に繰り返された母親の台詞でそれが紛れもなく現実なのだと悟った瞬間、伊吹は恥も外聞もなく素っ頓狂な叫びを上げてしまう。
在原伊吹(ありはらいぶき)。
十六夜(いざよい)学園中等部二年。当時14歳の彼は、人並みに反抗期の最中だった。
両親と伊吹の三人家族である伊吹家において、一人息子の彼は必然的に愛息と化していて、その両親の溺愛ぶりは反抗期真っ直中の愛息にとって梅雨と同様、憂鬱を生み出す厄介な代物でしかなかった。
一人息子への両親の猫可愛がりぶりは異常で、こんな放任的な台詞を吐かれたのは14年間の人生の中で初めてだったのだから、伊吹のこの反応は至極当然の結果だったりする。
『伊吹が反対するなら止めるから、正直に言って?』
愛息の動揺を寂しいの意に解釈した母親が、慈愛に満ちた瞳で伊吹を優しく見つめる。
『っ!…一人でも全然平気だから、夫婦水入らずで楽しんできてよ?』
こんな絶好の機会をむざむざ見逃す訳にはいかない、と伊吹は慌てて返答する。
登校する際も、100m先のコンビニに出向く際も、それこそ入浴時や睡眠時ですら、やれ『大丈夫?』だのやれ『気をつけてね?』だの、常に干渉され続けてきたのだ。まるで年がら年中監視されているみたいで、息が詰まることこの上ない。
そんな鬱憤も限界ギリギリの今日、やたら執着心の強い両親からの最初で最後かも知れない提案を、幾ら親不孝者と罵られようとも簡単に放棄する伊吹ではなかった。
『たまには息抜きも必要でしょ?』
両親に自由を渡す代わりに自分も自由を手に入れるのだから、まさにギブ・アンド・テイクではないか、などと自己中心的な解釈をして、表向きは親孝行息子を演じてみせる。
『そう?じゃ、お言葉に甘えて、新婚気分を満喫してこようかしら』
そう言って可憐な少女の瞳で無邪気に笑った母親の姿が、今でも伊吹の奥深く刻み込まれている。
最初で最後の提案ーーーそれは違った意味で現実となった。
6月16日、二人は旅立っていった。
そして、それきり戻ってこなかった…死を告げる電話のベル、そして抜け殻以外は。
「…ケータイ、鳴ってる」
他人様のベッドに我が物顔で寝そべっている命の恩人へ向けて、伊吹は不愉快極まりないといった無愛想な呟きを放つ。
彼がいなければ、今の自分は存在しない。
伊吹は彼に拾われた捨て猫、いや、それ以下に過ぎなかった。
しかし、それが余計に自分を苛立たせているのも確かだった。
「恋人同士の甘い一時を邪魔するなんて、無粋極まりない奴だなぁ」
「…つまらない冗談言ってないで、さっさと出ろっ!」
首筋に絡みついてきた華奢な腕を邪険に振り払う。
「まだ忘れられないのか…イヴ?」
ピッ、という電子音を伴って死を告げる悪魔の旋律が途切れる。
年不相応に大人びた目の前の少年は、それでもあどけなさの残る瞳で伊吹の瞳を覗き込む。
何処か冷酷で、何処か温情な眼差しーーーあの日と同じ。
『僕、“これ”欲しい。持って帰りたい』
漆黒の行列の中、年不相応に大人びた少年が立ち止まる。少年の指先の向こうにある存在は、物でも動物でもない、紛れもなく伊吹だった。
八雲亜摘(やくもあつむ)。
雅学園小等部五年。当時12歳の彼は、伊吹の父親が勤めていた会社の社長令息だった。
『亜摘、口を慎みなさい』
社長の前に少年の父親である亜門は、息子の前に一人の人間である亜摘を窘める。どうやら“これ”発言に対してらしい、ということを伊吹はあの日以来ずっと鳴り続けている耳鳴りの中で微かに聞いた。
元来その手の冗談を笑って聞き流せるような良識的で寛大な心を持ち合わせている伊吹ではないが、両親の突然の死で受けた精神的ダメージの所為で上手く対処できる状態ではなかったのだ。
自分が、自分さえ、彼等を引き止めていれば…。
考え出すと切りがなかった。
それなら、自分も両親と同じ抜け殻になろうーーー。
失意も絶望も孤独さえも宿さないその瞳は、少年の言葉通り生の存在ではなかった。外面上幾ら取り繕っても、内面は空虚、何もないのだ、と少年は見透かしていたのかも知れない。
『父様、これ、家に持って帰ってもいい?』
父親の躾など何処吹く風、撤回の意志などないまま、少年は説得を続けている。
『すまないね、伊吹君。我が息子ながら、呆れてものも言えないよ。亜摘はこの通り、一度言い出したらてこ梃子でも動かない子でね、君さえ良かったらーーー』
やれやれと肩を竦めて先に折れたのは亜門の方だった。
音を上げた彼は矛先を伊吹に変え、徐に謝罪と勧誘を始める。家に来ないかと、一緒に暮らさないかと。
冠婚葬祭に縁遠く、右も左も分からずに悲しみに暮れるしかなかった伊吹を支えてくれたのは亜門だった。社葬という形で全てを取り仕切ってくれたのも彼、八雲亜門(やくもあもん)だったのだ。
『…はい。お世話になります』
彼には恩があったし、非力な子供に与えられた処世術は有力な大人にしがみつくことだけだ。
そう、自分は非力な子供だったのだ。それにさえも気づかない、非力で無知な子供ーーー。
「また、群青色。イヴ、辛そう…」
亜摘の小さな掌が、伊吹の頬を優しく包み込む。梅雨の季節など全く以て鬱陶しいはずの人肌が何故か心地良かった。
昨年も今年も、この季節は決まって伊吹に憂鬱と両親の面影を運んでくる。電話のベルと同様に梅雨は引き金となり、伊吹の心に暗い影を落とすのだ。
「え!?」
徹底して平静を装っている伊吹の心裏を読む当時の自分と同年齢の少年を、自分よりも遙かに自分の本心に敏感な少年を、彼は不思議そうに見遣った。
両親の死から三カ月、悲しみも風化し始め、居候の生活にも慣れ始めた頃、亜摘にとっての伊吹の存在は“物”から“人”に昇格した。
伊吹と呼ばれる度、電話のベルが鳴る度、蘇る両親の面影が伊吹に重く暗く伸しかかっている事実真っ先に気づいたのも亜摘だった。
何かを話した訳ではない。何も話していないのに、伊吹から電話は遠避けられ、亜摘は彼を『イヴ』と呼び始めた。
自分より一回りも二回りも小さなこの少年が兼ね備えている観察眼と洞察力は敬服に値した。だが、それは伊吹にとって救いであると同時に、罰でもあったかも知れない。非力で無知な子供だった自分を忘れるな、と戒める為の警告。
「…悪かった。この蒸し暑さで気が立ってたんだ。完全な八つ当たり」
しかし、素直に認める気にも、自分の本心を全て打ち明ける気にもなれず、伊吹は曖昧に取り繕うしかない。
「ふぅん、まっ、いいけど」
台詞とは裏腹の全部お見通しといった面持ちで亜摘は伊吹を一瞥した後、そそくさと彼の自室を後にした。
あれから二年の月日を経ようとしていた。伊吹は16歳、亜摘は14歳になっていた。
「嫌いなんだ、ケータイ。基本的に俺、電話無精だから」
今時携帯電話も持っていないと友人に罵られながら、伊吹は愛想笑いと最もらしい言い訳を披露してみせる。
「でもさ、不便だろ?」
「俺的には全然平気。もし不便を感じるとしたら、俺よりも周りでしょ?」
他人事だというのに躍起になって責め咎める友人に半ばウンザリしながら、それでも表向きは愛想良く保つ。
少々お節介が過ぎる友人だが、中等部からそのまま高等部に進学した伊吹にとっては貴重な数年来の友人だ。今更無下に扱う気も、冷たくあしらう気もない。
変わってしまったのは自分なのだから。抜け殻になって帰宅した両親の姿をこの瞳に捕らえた瞬間、自分も抜け殻同然になろうと決めたのだ。
「イヴ、こんな所で暇潰してる場合じゃないだろ?明日の準備、忘れたのか?」
鬱に陥りかけた伊吹を、聞き慣れた声が間一髪で引き戻す。
「…亜摘?」
ジャンクフードには最も不釣り合いの高雅さを纏った少年がそこにはいた。
「イヴのご友人ですか?いつもイヴがお世話になっています。お楽しみの所申し訳ないのですが、明日彼の両親の三周忌法要があり、その準備も控えていますので、先に失礼させて頂きます。ご機嫌よう」
営業スマイルも真っ青の極上スマイルと社交辞令をひとしき一頻り披露して、反論の余地も余裕も与えずに伊吹の手首を掴み連れ出す。上手く事態を飲み込めない友人は、ただ呆然と二人の背中を見送るしかなかった。
「…嘘吐きは泥棒の始まり」
小さな身体に秘められた意外な力強さに引き摺られながら、伊吹が亜摘の背中に向かって悪態をつ吐く。
「せめて、嘘も方便くらいで勘弁してよ?確かに法要って言っても極近しい人達だけの集まりだし、準備なんて親父が全部仕切ってるから必要ないけど、辛そうなイヴのこと、あのまま放っておけなかったんだ」
負けじと亜摘も反論する。
不貞腐れ気味に口を尖らせるその様子が何だか妙に微笑ましくて、伊吹はくすりと笑んだ。ここの所ずっと滅入っていた気分が少しだけ浮上する。
「でも、ありがと。正直助かった」
伊吹の聞き慣れない感謝の意と見慣れない微笑みに照れたのか、亜摘は口を尖らせたまま頬を染めてそっぽ外方を向いた。
その年相応の反応が伊吹の荒んだ心をまた少しだけ癒したが、それでもやはりそう簡単に憂鬱が消える訳でもなかった。
6月15日。明日は両親の命日だった。
「本当、伊吹が可哀想…」
「あんな小さな子供を残して逝っちまうなんてな…」
大規模でも小規模でも本質的には何も変わらない。自分に向けられるのは、同情の言葉、そして視線。
それは苦痛でしかない。鈍痛を伴う苦痛ーーー。
いつかはこの痛みから解放されるのだろうか?
いや、抜け殻に感情など必要ない…。
「悲しい時は泣けばいい。自分の中に溜め込もうとしないで、全部吐き出しちゃえばいいんだ」
部屋で膝を抱えて蹲っていた伊吹の背後から誰かが呟く。それが誰であるかなど考えるまでもない。
「泣いちゃえば?」
伊吹のベッドを陣取り占領していた亜摘が、か細い腕を彼の首筋に絡めてくる。
「泣く?誰が??」
普段は極端に人肌を嫌う伊吹だが、何故だか今日はその温もりを邪険に振り払うことがためら躊躇われた。虚ろな瞳で暗闇の一点を凝視したまま、抑揚なく問う。
「イヴ、二年前から一度も泣いてないだろ?本当は泣きたいクセに、いつも我慢して、虚勢張って、無理ばっかしてる」
「我慢してる?無理してる?俺が??」
闇を見つめる瞳が自嘲気味に歪む。
「いつもそういう目してる。雨の日とか、電話が鳴った時とか、名前呼ばれた時とか、特にそう。今にも泣き出しそうな色してる。深い深い群青色…ほらね」
言いながら伊吹の前に回り込み、その瞳を覗き込む。闇と同化する漆黒の瞳を見つめながら、それでも亜摘はそれを群青色だと言う。
亜摘の瞳に映る自分の瞳を確かめてみても、それはやはり漆黒だった。心の闇に同化する漆黒の瞳。そこには何の感情も存在しない。あるのはただ闇だけ。
「俺は抜け殻なんだ。抜け殻に感情なんて必要ない。だから、泣くなんてあり得ない」
伊吹は自分自身に言い聞かせる。
「嘘だよ。イヴはちゃんと生きてる。感情もある。なのに、押し殺してるんだ。二年前からそう、イヴは抜け殻なんかじゃなく、自分の殻に閉じ籠もってるだけだ。それって、自分からも周りからも逃げてるだけだろ?それでいいの?」
「逃げてる?」
「そう、逃げてる。親の死とも、自分とも、他人とも、正面から向き合おうとしてない」
伊吹の肩に乗せた亜摘の掌が次第に熱を帯びてくる。
「でも、父さんと母さんが死んだのは俺の所為だ。俺が二人を殺したんだ。俺がっ…!」
その熱に触発されたのか、伊吹の口から聞き慣れない弱音が零れ落ちる。
「イヴが後悔してるのは、もっと違うことだろ?」
亜摘の瞳が全部お見通しだと暗に語っていた。
「…素直になれなかった。最後の最後まで、優しくできなかった。本当は笑って見送りたかったのに、笑っていってらっしゃいって言いたかったのに、笑っておかえりって、っ…!」
伊吹の漆黒の瞳が群青色に歪み、頬を涙が伝う。
「ちゃんと伝えなきゃいけなかったんだ、父さんのことも、母さんのことも、二人共好きだって。いつもありがとうって。狡いよ、二人共先にいなくなるなんて…もう俺、言えないじゃないか…何も伝えられないじゃないかぁ。…伝える人がいなきゃ、感情なんて持っててもしょうがないんだ……」
二年分の弱音も愚痴も後悔も一気に洗い流す如く、伊吹の涙は止まる処を知らなかった。
それでも、その雫を亜摘が唇で吸い取ると、枯れ果てても止まらぬ勢いだった伊吹の涙がピタリと止まる。
「本当だったんだな、キスで涙が止まるって。幾ら何でもヤバイからな、その泣き方は。脱水症状起こすって。それに、今の発言に僕は異議ありだ」
亜摘は拉げた笑顔で笑み、不規則な呼吸を繰り返す伊吹に何かを放り投げ、
「絶対出ろよ、絶対だからなっ」
そう釘を刺すだけ刺すと、部屋から飛び出していく。
今一つ腑に落ちないまま、伊吹は受け取った携帯電話をきょとんとした瞳で見つめていた。
Pururu...Pururu...
伊吹の身体がびくんと跳ね上がる。
いつの間にか堅く握り締めていた携帯電話のディスプレイが暗闇に浮かび上がっている。
『絶対出ろよ、絶対だからなっ』
記憶に浅い亜摘の台詞が蘇り、伊吹はじっとりと汗ばんだ掌の中でそれを確認する。
八雲亜摘ーーー画面表示は亜摘の名前だった。
ピッ、という電子音を伴って死を告げる悪魔の旋律が途切れる。
「…はい」
伊吹は恐る恐るそれを耳に押し当てる。
[[イヴ?僕だよ、亜摘]]
「…うん」
微妙にトーンの異なる声に、しかし馴染んだ声に、伊吹の緊張は少しだけ解れ、安堵する。
[[先ずは第一関門突破だな、おめでとう。これから僕の言うことを聞いて?イヴはさっき伝える人がいなきゃ感情なんて持っててもしょうがないって言ったけど、それ、僕じゃ代わりになんない?…好きなんだ、イヴのこと。初めて見た時からずっと。僕にはイヴが必要なんだ。いつもイヴの笑ってる顔が見たい。笑っていってらっしゃいって、笑っておかえりって言って欲しい。…僕じゃ役不足かも知れないけど、いつもイヴの傍にいるのは僕でありたいから……]]
突然の告白だった。それは予想外の告白で、亜摘の抱く感情が肉親への愛情とは違う愛情だと悟って、伊吹の心に不安が芽生えたのも確かだった。
しかし、それ以上に自分を必要としてくれる誰かがいるという歓喜が彼を包み込んでいた。
一度は止まったはずの涙が、再び伊吹の頬を濡らした。
「泣き虫イヴ!ちょっと目を離した隙にまた泣いてる」
明らかに電話越し以外の声が、伊吹の震える背中に投げかけられる。
「…ぷっ」
反射的に振り向いた涙でグシャグシャの顔を捕らえて、亜摘は堪え切れず吹き出した。しかし、直ぐに真顔に戻って、その小さな身体の精一杯で伊吹を包み込む。
いつもは自分より一回りも二回りも小さな身体が、この瞬間は非道く大きく広く、そして頼もしく思えた。
「イヴの返事は?」
亜摘の穢れない大きな瞳が、伊吹の潤んだ瞳を捕らえる。
それでも、一向に泣きやまない2歳年上の頼りない少年が途端に愛おしくなって、亜摘は冗談混じり呟く。
「本当にだらしないなぁ、イヴは。どうしても泣き止まないなら、僕が止めてあげようか?」
そうして小狡げな笑みを浮かべて伊吹の警戒を促すが、純朴なお子様と化した伊吹はただただ兎の瞳で見つめ返すしかできない。
「イヴの涙を止めるのは、僕の役目みたいだな」
その台詞を言い終えると同時に、亜摘はその小さな唇で伊吹の嗚咽ごと吸い取った。
最初は重ねるだけのキスだった。
弾力に抗って押しつけられた唇は、直に亜摘の体温を伝えてくる。
どれだけの時間をそのまま費やしたのだろう。ひんやりとした亜摘の唇は伊吹の火照った唇から温もりを奪い、いつしか二人の唇の温度は同じになった。
それは二人で感情を分け合っている感覚だった。喜怒哀楽、全ての感情を二人で共有している感覚。
「…んふ、っんん」
途端に、熱と蜜とを纏った小さな舌が伊吹の歯列を割って滑り込んでくる。その息苦しさと未知の感触とに、伊吹の喉が切なげに鳴った。
「…んっ!」
上顎の窪みを舌先で掠め舐られると、伊吹の喉は一層切なげに震えた。
背中を悪寒にも似た肌寒さが駆け上がる。その未知の感覚が不安を誘って、伊吹は亜摘の胸に縋りついた。
それを知ってか知らずか、亜摘の右の人差し指が伊吹の左の顎先から耳元のラインを掠め撫で、彼の頭ごと抱え込む。細く繊細な髪にその小さな指を差し入れ、一層強く引き寄せる。
「くっ、んん…っん!」
深く交じり合った唇の狭間で、熱と蜜、それを纏った亜摘の舌が伊吹のそれに絡みつき、舐り合わされる。息苦しさと認め難い快感から逃れようとする唇を強く吸い寄せ、貪欲に口腔を貪られる。
そうして、一頻り伊吹の唇を堪能した後、名残の糸を残して亜摘の唇は離れていった。
「OK、任務完了!」
飲み切れず零れ落ちた蜜と、熱に浮かされ蕩ける瞳を満足げに眺めながら、亜摘はもう一度触れるだけのキスを落とした。
「実はさ、俺、あの時結構ショックだった。って言うか、結構ムカついてたんだ。亜摘の“これ”発言。あれって、捨て猫・捨て犬以下ってことでしょ?ゴミ集積所の粗大ゴミって感じ?」
伊吹が不貞腐れ気味に愚痴を零す。
「あぁ、あれ。あれは単なる悪戯、イヴの気を引く為の。ほら、よくあるだろ?好きな子は苛めたくなるっていう心理。あの時は、まだまだガキだったからね、僕も」
皮肉のつもりで放った愚痴をさらりとかわ躱し、到底14歳の少年とは思い難い台詞を飄々と吐いてみせる。
先程のキスにしてもそうだったが、目の前の少年の早熟さと厄介さに伊吹は早くも自分の選択を後悔したくなった。
「…ところで、このケータイもらっていいの?」
気を取り直して、伊吹は早速持ち前の要領の良さを発揮する。
そこはそう、トラウマを克服した今となっては、所詮今時の高校生。今や現代版三種の神器の一つである携帯電話に心惹かれるのは、至極当然の結果である。
「あげるよ、それはイヴの為に買ったものだしな。僕とお揃いの。でも、それは僕専用、他のメモリ入れるのも、イヴのナンバー教えるのも駄目だよ?」
「えぇっっ!!」
伊吹の抗議の声も虚しく、その携帯電話は本人の希望通りに亜摘専用の電話となる。
意外な独占欲の強さと貞操の危うさとに伊吹は頭を抱えたくなったが、それもまた一興。
それが自分で選んだ道ならとことん進むしかないでしょ、と呑気に、しかし前向きに見慣れた天井を仰ぐ伊吹の姿はいつになく晴れ晴れとしていた。
Pururu...Pururu...
今日もまたベルが鳴る。
それは自分と愛しい人とを繋ぐ、一本の絆ーーー。
HAPPY END
2001/1/29 fin.
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