22題を書いているつもりではみ出して戻って来られなくなり、
どのお題にも当てはまらなくなってしまった番外編。
軌道修正した元のお題の方はまたいずれの日にか。



ご注意。一部にグロ表現有り。





000:空腹の街


 次の列車が来るまで、一時間程仮眠するつもりだった。次の列車を無事見送れば、あとは朝までぐっすり眠れる筈だった。

 「事故だ!」

 顔を顰めながら駆け込んできた同僚に、スキンブルは寝入りばなの心地好い微睡みを破られた。黙っていれば春の陽溜まりと評される柔和な顔を幾らか不機嫌に歪ませ、机の上の眼鏡を手に取りながら現場へと急行する。午後九時半。夏の長い日が沈んだばかりの事故現場は、既に夕闇から夜闇へと変わりつつあった。ロンドンから町へ帰ってくる、最終から一つ手前の列車に、誰かが飛び込んだようだと聞いて、余計に気分が悪くなる。ヨリにもよって自殺如きに鉄道を巻き添えにするとは、スキンブルにとっては言語道断なのだが、怒る間もなくやることは山積みだ。警察や病院、他の駅や走行中の他の列車への連絡、飛び込み者の身元確認などを行い、数人乗っていた客には平身低頭頭を下げ、代走車両でめいめいの最寄り駅まで送っていく。それらを数人の駅員で分担し、行うのだが、最も若いスキンブルが任されるのは、中でも凄惨な現場の片付けや清掃だった。

 辺りは灯が少なく、以前から夜間の事故や自殺の多い辺りだ。いい加減照明の一つも付ければ良いのにと呟きながら、カンテラを下げ、デッキブラシとバケツに消毒液、火挟み等を持って、辺りを歩き回る。勿論、辺りに飛び散った何やかやの遺留品や、某かの破片、などを回収するのだ。途中、先刻駆け込んできた同僚が、終列車が運休になったと報せてくれた。
 大方の片付けを終えて、最後の確認にカンテラで照らされた、ごく狭い範囲を何度も見返していると、暗闇の中に一層濃く凝った影を見つけた。まさかまだ他に、怪我人でも居たのかと訝しみながら近付くと、影は、カンテラの射程に入った途端、ギョッとしたように振り返った。
「誰?怪我してるの?」
声を掛けると、慌てて逃げようとする。殆ど無意識に、スキンブルは待て、と声を掛けながら手に持っていたデッキブラシを槍のように投げつけた。
 ごん、と鈍い音を立てて、先端の硬い部分が影の後部に吸い込まれ、そのまま地面に倒れ込む。近寄ると、それはスキンブルと同じような年格好の、若い男のようだった。念のために関節を押さえながら顔を照らす。顔がべっとりと血で濡れている割に、怪我の跡などはない。灯りを身体の方へ当てると、左手に何か、を掴んでいた。
「うわ」
「あ…ぁ」
男の掌を捩って、スキンブルは思わず眉を顰めた。同時に、男も気付いて声を漏らした。手に握られていたのは、明らかに今さっきの鉄道事故で飛び散ったと思しき、生々しい肉片だった。しかも、歯形のようなものまで付いている。スキンブルは暫し呆然とそれを凝視した。
「…一寸、駅舎まで来て貰おうかな」
ぎりりと腕をねじり上げ、スキンブルは言った。掴んだ腕が、何やら異様に細い。
「ごッごめんなさッ…み、見逃して下さ…」
男は、血塗れの素足の指を縮こめて酷く怯えながら、汚れた顔をスキンブルに向けた。が、はいそうですかと逃がすわけにも行かない。幸い、残りの始末は朝一番、日の出を待つことになっている。同僚達ももう帰った頃だろう。相変わらず腕を捻り挙げたまま、スキンブルは男を宿直室へと連れて入った。

 「兎に角、座って」
男は諦めたのか、逃げ出す気配はない。ストールに腰掛けさせ、電灯の下でまじまじと見下ろす。ぼろぼろの衣服の上からでも、骨格そのままが浮いて見えるような、ガリガリにやせ細った男は、未だに「食べかけ」の肉片を手に掴んでいた。
「見ない顔だけど、どこから来たの?名前は?念のために聞くけど、食べてたの、それ」
「その、…あの」
「そんなに腹が減ってるなら、他の食い物をあげるから、それから手を離しなさい」
素手で触るのには抵抗があったが、いつまでも目の前で生の人肉を掴まれているのも落ち着かない。スキンブルは眉を顰めて、手を差しだした。しかし、男は予想外にも、恐る恐るといった様子でふるりと首を振った。
「あ…あの、これ、俺、これ…」
「何?何だって?」
 いい加減眠気から来る不快さで、苛々と語気を荒げたスキンブルに懼れを為したのか、男は一瞬絶句すると、意を決したようにくるりと身体を傾け、肉片にかぶりついた。止める間もない。忙しげに咀嚼する口元を呆然と眺める間に、片手に余る程度の大きさの肉は、忽ち喉の奥へと消え去った。
 「…本当に食べた…」
思わず呟くと、男は悲鳴を上げて頭を抱え、ストールから滑り落ち、床に蹲ってごめんなさいごめんなさいと唱えだした。悲鳴を上げたいのは、どちらかと言えばスキンブルの方なのだが、近寄ってみれば男は本当に涙を流して震えている。
「解った、解ったから。怒らないよ。殴ったりもしないから、答えて。名前は?」
涙と鼻水と、そして血と泥で汚れた顔がゆっくりと上がり、そうして男は、今度は悲しそうに首を振った。
「自分の名前が言えないの?あんな姿見せておいて、今更どんな名前でも驚かないよ。まさかマキャヴィティ、だなんて言う気?」
男はスキンブルがマキャヴィティの名を口にした途端、またも頭を押さえて蹲った。
「まさかホントに?マキャヴィティねえ…君が…。そうは見えないけど」
「でも、ま、前の町とか、前の前の町とかその前の町とかでも、た、食べてるとこ見られたら、そう呼ばれて、物凄く殴られた」
「言われた?自分から名乗った訳じゃないんだね?」
 ふうん、と腕を組んで黙り込んだスキンブルを、男が不安げに見上げている。また酷い目に遭わされはしないかと懼れているようだった。
「…で、本当の名前は?」
「……プラトー」
「ややこしいから当分はそっち使って。もう少し話を聞くから、ああでもその前に一寸こっちへ」


 何が何だか良く解っていない男――プラトーの腕を掴み、スキンブルは宿直室の奥の方へ向かった。プラトーは物珍しげに奥の浴室を見回している。床は石造り、壁に据え付けられた固定式のシャワーと、蓋のない便器が一つきりの狭い浴室だ。前室で手早くプラトーの着衣を引っ剥がし、浴室へ蹴り出す。プラトーの着ていた服は、これ以上ない程汚れが酷かったので、下着も上着もまとめて屑入れへ放り込んだ。そうして床に落ちた泥を掃除しようとして、浴室から一向に水音がしないことに気付く。どうしたんだと浴室を覗くと、プラトーはシャワーも出さずにぽかんと突っ立っていた。
「使い方、知らない?」
「知ってるけど…」
 嫌そうにプラトーが肩を竦め、風呂は嫌いだ、と呟いた。まじまじと見下ろすと、全身骨と皮ばかりの、表面がなにやらボロボロして見えるのは、どうやら肌荒れだのではなく、垢なのだ。スキンブルは忽ち眉間に縦皺を刻み、眼鏡の弦を押し上げた。
「好きとか嫌いじゃない。君にはこれが必要なんだ。…殴るよ」
そうして逃げようとするプラトーの腕を掴んで引き寄せ、シャワーのハンドルを回すと、プラトーはわあっと叫んで飛び退った。
「ああ、ごめんごめん。最初は水が出るんだった」
 短い尻尾を膨らませ、肩を竦めて目を丸くしているプラトーににやりと笑い、落ちてくる水が湯になったのを見計らいながら、スキンブルは悠々と自分も着ていた制服を脱ぎ、眼鏡を洗面台に置くと、シャワーの下に身を置いた。簡単に汗と手足の泥を落とし、プラトーに場所を譲る。嫌そうな顔で、ぐずぐずと渋るのに無理矢理湯を浴びせかけると、積年らしい垢の臭いがもわりと立ち上った。
「くっさ!」
思わず叫ぶ。鉄道事故の度に嗅ぐ、内臓の生臭さとはまた違った強烈な臭いに眩暈を覚える。またも逃げだそうとしたプラトーを掴まえると、スキンブルは小物棚で黴が生えかけていた海綿を手に取った。
「ったくもう!世話ばっかりかかる奴だな!」
石鹸は随分前に切らしたままなので、腕力だけが頼りだ。暴れようとするのを壁に押し付け、スキンブルは思い切り力を込めて、まずは背骨がぼこぼこと浮いた背中に海綿を擦り付けた。ぼろ、ぼろと黒い垢が剥がれ落ちる。最初の内は何とかして逃れようと藻掻いていたプラトーだったが、殆ど鬼気迫るスキンブルの前に、いつの間にか悄然と大人しくなった。名残惜しそうに塊で剥がれ落ちる垢を見送っている。
 脂でこってりした髪や途中で引きちぎられたような短い尻尾や足指の爪の間も、顔さえも容赦なく擦り立てる。細身の身体は貧相を通り越して、今にも餓死しそうな薄さで、関節が異様に大きく見えた。所々ギザギザと抉れたような疵痕がある。その疵痕がどういう意味を持つものか――考えたくもなかった。
「汚いなあ、もう…」
海綿にこびり付く垢の塊を指で払い除けながら、スキンブルはふと、逡巡した。擦り立てられて全身を擦り剥いたように赤くし――、一部本当に擦り剥けていたが――、無防備に立つプラトーの、股間にぶら下がるそれも洗ってやるべきか、否か。アングロサクソン種の標準的な形態、つまりは軽く皮を被ったうぶな色味の、その皮を捲るか、どうか。
 「――ねえ、ここ、自分で洗ったことある?」
自分のものを軽く持ち上げながら、スキンブルは訊ねた。案の定、プラトーはきょとんとした顔で首を横に振る。口中に溜まる唾液をごくりと飲み下し、そろりとプラトーに手を伸ばす。向かい合っていたのを、プラトーの手を取って壁を向かせ、後ろから性器を掴んだ。両手で支えるようにしながら、意を決して先端の皮膚を反転させる。思った通り、灰色の垢が噎せたような悪臭と共にみっちりと顕わになった。わぁ、と小さくプラトーが声をあげて、嫌そうに顔を顰めた。
「自業自得って言うんだよ、そう言うの」
流石にごしごしとは洗えないので、シャワーの湯を当てながら指先でこってりした垢を拭っていく。
「あ、…あ」
あまりの悪臭に、自分で自分の鼻を摘んでいたプラトーのくぐもった声と共に、性器がびくんと震えて、ゆっくりと頭を擡げてきた。硬くなった胴や、きゅっと吊った陰嚢にも、柔らかく指先を当てていく。汚れを洗い流すスキンブルの手が、愛撫のそれに変わっても、プラトーは逃げ出さなかった。寧ろ、背後のスキンブルに背中を預けるようにして、小さく喘ぎ続け、抵抗もなくあっさりと達する。
 他愛なく膝を着いたプラトーを、スキンブルは自分の掌越しに見下ろした。しかし掌には、当然吐き出されているべき白い粘液が見当たらない。シャワーの湯で流れるには早過ぎるし、吐き出された感触もない。この痛々しい身体では、無理もないのかもしれなかった。
 困惑した表情で振り返ったプラトーを振り切るように、スキンブルは笑顔を向けた。
「さ、綺麗になったことだし、事情聴取と行きますか」


 予備の制服のシャツに手を通したプラトーが、立て続けにクシャミをした。どろりと透明な鼻水が、肉の薄い鼻と掌を繋ぐ。それをあろう事か玩具にしようとしたので、スキンブルは慌てて自分のハンカチを犠牲にしなければいけなかった。夜とはいえ湯上がりであるのに、肌寒そうに身を屈めるプラトーに、スキンブルは嘆息した。
「…まさか、垢を落としたせいで寒いとか言わないよね?」
返事の代わりは、小さな二度のクシャミだった。
 温かい茶を淹れてやりながら、スキンブルは改めてプラトーを見遣った。酷い汚れの下から出てきた顔は、痩せすぎて骨格がそのまま浮き出ているようなのを除けば、案外まともに見える。幾ら飢えていたとは言え、とても人の屍肉に好んで喰らいつく様な面相には見えない。
「何であんなものを食べるの?」
情け無さそうに眉尻を下げ、プラトーはそのぅ、と口籠もった。サイズの大きな、借り物の靴がぱたりと音を立てて床を蹴る。
「腹が減って……」
「だからって普通は――あんなもの食べないよ」
 呆れを滲ませたスキンブルの前に、プラトーは俯いた。
「あれしか食えない」
「…………あれって、つまり」
「…道で死んでるのとか…。あの、でも内臓とか血は駄目で…あの、」
 予想はしていたが、絶句する。眉間に、今度は横皺を寄せて黙り込んだスキンブルを、怒ったと思ったのか、プラトーは頭を抱えて的外れな言い訳を始めた。
「でもまだ生きてる人を食べたことはないから、だから」
「殴ったりしないったら。逆に言えば君は、死体しか食べないんだな」
え、と今度はプラトーが黙り込み、目を丸くした。怪訝そうに顎を引き、肩を竦める。
「どうせ行くアテも予定も無いんだろ。良ければ暫くうちへおいでよ。毎日は無理だけど、君のご飯も、食べさせてあげる」
 口角を吊り上げ、目を細める。スキンブルはとっておきの笑みを浮かべた。その顔が、相手に大層良い印象を与えるのを、スキンブルは能く知っている。そして、まず驚愕し、次いでみるみる頬を紅潮させ目に涙さえ浮かべて、何と礼を言ったらいいのか解らないと、どもりながら何度も何度も繰り返すプラトーの肩を抱いてから、そっと片頬を歪めた。



 目が醒めたのは、午後遅くだった。三連続の夜勤の後の、束の間の休日はいつもこうして消えていく。しかし今日は、久しぶりの私的な外出をするつもりだった。昨夜拾った奇妙な人食主義者の枕元に書き置きを残し、簡単に身だしなみを整えると、スキンブルは足取り軽く通りに出た。
 午後六時を過ぎても、辺りはまだ昼同様である。気温はだいぶ肌寒くなっているが、無意識に手に取っていたサマーカーディガンが中々役に立っている。午後のお茶には遅すぎ、夕飯には少し早いせいか、通りはまだゆっくりと人が流れている。その中を流れにあわせて歩きながら、スキンブルはひょいひょいと路地裏の奥へ入っていった。未舗装の通りでは、砂埃に塗れた子供達が駆けずり回っており、それらを上手に除けて、スキンブルは粗末なフラットへ身体を滑り込ませる。
 昼間でも薄暗い階段を3階分登るともう最上階で、その最も奥にある部屋が目的地だった。
「お久しぶり」
「珍しいね。こんな時間に」
机に向かっていたミストフェリーズが、真っ黒い前髪を掻きあげながら振り返った。スキンブルより十は年下の筈だが、博学さと常に懶げな白皙が彼を年嵩に見せていた。実際、ミストは他の年上の連中に対しても、対等の口を利く。それを咎め立てする者もまた居ない。
 ぐるりと見回すと他はまだ来ていないのか、ミスト一人である。好都合だった。
「あのさ、一寸、面白いかもしれない拾いモノをしてさ」
「ふうん?また?」
「人食いらしいんだ、そいつ」
「へえ?」
 大して興味の無さそうなミストを余所に、スキンブルは簡単に昨夜のことを話して聞かせた。途中、ミストが反応したのはやはり「マキャヴィティ」と最初に彼が名乗ったことで、しかし聞き終わるとまた詰まらなそうに「有り得ないね」と断じた。
「やっぱり違う?」
「もし本物なら、町に入ってきた時点で僕か長老がまず察知してる。断じて違うね」
「そうか。それは残念…だけど、まあそれは置いといて。近々タンブルかランパスに予定はある?」
「有るけど。何?そいつの食糧調達?」
 迷惑そうにミストが額に横皺を張り付かせた。いつものことなので、悪びれず頷く。
「うん。ウチに引っ張り込んじゃったからさ」
「…面倒ごとは起こさないでね。出来たら、現場では鉢合わせしないように」
 仕方のない奴だと言わんばかりに溜息を吐き、ミストは手に持っていたペンを神経質に指で弄ぶ。苦い顔はしても、ミストは基本的にスキンブルのお遊びにブレーキは掛けないのだ。
「勿論。事が終わってから行くから。特にランパスなんかに見つかったら、折角僕の楽しみなのに、横取りされちゃうでしょ」
「どうでも良いよ、その辺のことは。身内であんまり揉めないように。…まだ当分こっちの仕事はしないつもり?」
「今は二人もいるんだから、僕が前に出なくても良いでしょう。タガーだって遊んでるし」
「解ったよ。で、どの位要る?」
 がさがさと机の上の書類を掻き回すミストの背を何とも無しに見遣りながら、スキンブルはつと考え込んだ。多めに聞いておくにこしたことはないだろう。水色のベストの上に揺れる黒髪の長い束には、お揃いのように水色のリボンを結んでいる。今日のはサテンのようだ。そんな観察をしながら、スキンブルは口を開いた。
「…取り敢えず、一月分くらい」
「オッケ。暗記して。すぐ」
ピッと便箋大の用紙が飛んできた。カレンダー状にマス目を切った紙中には、とりどりの記号が散らばっている。その中から必要な記号の日付と場所にざっと目を走せた。
「ん。ありがと」
そう言うと、手品のようにスキンブルの手にあった紙片は、何かに引っ張られるようにミストの方へと飛んで返った。もう振り向きもせず、片手だけを挙げて挨拶に代えたミストに、それじゃあと声を掛けて、スキンブルは部屋を出た。


 急いで家に帰ると、目を醒ましたプラトーがベッドの上にちょんと膝を抱えて座り込んでいた。書き置きは読まなかったのか。否、読めなかったのだろう。さり気なく紙片を手の中に丸めて、スキンブルはプラトーの顔を覗き込んだ。
「ただいま。突然だけど君さ、何日くらい食べずに我慢できる?」
「昨日の晩に食べる前は、まともに食べたのは三週間位前」
「その間は?まさか飲まず食わずじゃないでしょ」
隣に腰掛けながら訊ねる。プラトーは躊躇う様に目を伏せた。しかし今更隠しても仕方がないことなのだ。黙って答えを待つと、ぽつりぽつりと答え始めた。
「全然、味は不味いし、吐いたりお腹壊したりするんだけど、動物のとか。あと、自分の身体をこうして」
と言いながら、プラトーは自分の腕にかぶりついて見せた。
「ちょっと、おい!」
 思わず風呂に入れた時に見た身体の傷を思い出し、食い千切る気かと驚いて手を出すと、プラトーは口を離してにこりと笑う。
「本当に食べるのは、どうしても耐えられない時。普通は、噛んだりしゃぶったりして、味だけ」
だから風呂は嫌いなんだ、薄味になるから、とプラトーは無邪気に笑った。しかしそれでも、身体に付いていた傷の数を思えば、実際に身食いした経験は一度や二度ではないのだろう。
「次ぎに、ご飯を食べさせてあげられるのは、五日ほど先なんだけど。…耐えられそう?」
恐る恐る訊くと、プラトーは勿論と叫んで、嬉しそうに足をばたつかせた。
「大丈夫!五日なんて、短いくらい――…お前って、変だけど、すっごく良い奴だな」
「そう?別に親切心だけじゃなくて、ちゃんと下心もあるから、あまり期待しないで」
「俺に出来ることなら何でもやるよ。俺、こんなに親切にされたの、初めてだから。どうしよう。嬉しくて、死にそうだ」
言いながら、プラトーは寝台に横倒しになると、枕を抱えてのたうった。


 ――五日後。体力の消耗を押さえるため、砂糖水を飲んで眠り続けていたプラトーを、スキンブルは町外れの辻へと誘った。多少ふらついてはいるが、プラトーは存外しっかりした足取りで付いてくる。身体が、恒常的な飢餓状態に慣れてしまっているようだった。
 夜深く、漸く日も落ちて人気のなくなった通りを、カンテラを片手にひたひたと歩く。やがて家並みが途絶え、道の左右にまっ暗い奥行きが広がるようになると、プラトーが小さな声をあげた。
「どうしたの?」
「匂いが…」
言い挿して、プラトーが駆け出し、暗い道の先に消えた。やれやれと肩を竦めながら、尚も歩き続けると、道の先に薄らと、プラトーが蹲っている。
「…これ、」
「そ。お待たせ。君のご飯だよ。好きなだけ食べて良い」
カンテラの光に照らし出された足許には、スキンブルの言葉が終わらない内に、道の真ん中に倒れ込んでいる男の死体に取り付いたプラトーの背中が浮かび上がっていた。今にもぽきりと折れそうな骨張った細い指を震わせながら、男のベルトを外し、苦心してズボンを脱がしてしまう。
 喉笛を一撃で引き裂かれて絶命した男は、驚愕と恐怖を顔に貼り付けたまま仰向き、濁した目で夜空を見上げていたが、プラトーがそちらへ気を向けることはなかった。毛むくじゃらの腿を重たげに持ち上げ、いきなりかぶりついている。濃い血臭がつんと鼻についた。
「良かったら、使う?」
プラトーにナイフを渡してやると、嬉しそうに馴れた手付きで関節の大きな血管を切り裂いていく。だくだくと流れる血が、土に黒く染みこんだ。やがて流れるだけの血を流しきってしまうと、プラトーはナイフで適当な大きさに肉を切り出し、がつがつと食べ始めた。
 「あんまりがっつくと、喉に詰めるよ」
「ん、…うん」
殆ど恍惚とした表情で、スキンブルの忠告も聞いているのだかいないのだか、解らない。右脚の脹ら脛までをすっかり食べてしまうと、漸く満足したのか、プラトーは小さなげっぷを零した。手の甲で口を拭いながら起ち上がり、照れたようにスキンブルを見上げる。
「満足した?」
「うん。腹一杯」
足許に残る綺麗な左脚を名残惜しそうに眺めながら、頷く。
「残り、持って帰ろうか」
そう言うと、プラトーは驚いたように、首を傾げた。
「どうやって?」
「新聞紙持ってきたから、包んで持って帰れば良いんじゃない?長くは保たないだろうけど」
「そうか!凄いな、頭良いなあ」
手を叩いて喜びながら、プラトーが早速左脚の腿の肉を切り出した。一塊ずつ新聞紙に包み、計六包みが出来上がる。更に、肩口の肉や腕の肉も薄く抉り、包む。プラトーはこの上なく幸せそうな顔付きで、何度も何度もスキンブルに礼を言った。
 結局半分は食べる前に腐らせてしまい、始末に困ったのだったが。



 一ト月経たない内に、街は奇妙に手脚の肉を剥がれた屍体の噂で持ちきりになった。そして目の前には腕組みをしたランパスとタンブルが立っている。我関せずと机に向かっているミストの助けは得られそうになく、スキンブルは参ったなと投げ遣りに頭を掻いた。予想はしていたとは言え、やはり弁明するのは面倒臭い。しかしランパスだけなら兎も角、日頃大人しいタンブルにまで詰め寄られては、説明しないわけにもいかない。
 手短に話し終わると、ランパスは「また黙って勝手なことしやがって」と吐き捨てた。タンブルは難しい顔をしているが、常にこの顔だから何を考えているかは良く解らない。ジッと見上げると、困ったように顔を伏せ、嘆息しながら言う。
「足さえ着かなければ、俺は構わんが」
「その保証はねぇだろが!余計なことをすりゃその分リスクは増すんだぞ。このアホが勝手に一人で捕まる分にはどうだって良いがなぁ、俺達にまで累が及ばないとは限らんだろ」
 今にも殴りかかりそうなランパスの剣幕に、不意にミストがくるりと振り返った。
「その心配はないよ。何のために僕が居ると?今の発言は、僕と長老に対する侮辱になるぞ」
穏やかながら威圧感を利かせて、ミストが微笑む。舌打ちしてそっぽを向くランパスと、ミストの顔を見比べながら、スキンブルは他人事のように肩を竦めた。それは、いざとなったらスキンブルは切り捨てると言う宣言に他ならない。庇ってくれとは思わないが、面と向かって言われるのも嬉しいものではない。
 「そう言うことだから。この話はこれでお終い。各自自分の仕事のことだけを考えて」
ぴしゃりと言い切ると、ミストはまた一同に背を向けた。なら精々勝手に死ね、と捨て台詞を残して、ランパスも跫音荒く踵を返し、その後ろ姿が雑踏に消えていくのを窓から確認して、タンブルも帰っていった。
「じゃあ、僕も帰ろうかな」
様子を伺うように独り語ち、スキンブルは徐に起ち上がった。返事はない。ただ玄関の戸口をくぐると同時に、3階にいる筈のミストの声が、暫く自重しろ、と耳元で囁いた。



 そのまま憂さ晴らしのように泊まり込みの仕事を終え、三日ぶりに帰宅すると、プラトーは居間の安楽椅子でぐったりと眠っていた。数日一人で放っておいても平気で過ごせるようにはなった。が、この町へ来た頃よりも、食糧事情はよくなっている筈なのに、身体は逆に憔悴していっている。食べればその日はそれなりに回復するが、丸二日も食べずにいると起き上がることも億劫になる。
 考えてみれば、当然のことでもある。普通は、皆、毎日三食食べるのが正常な状態だ。三日おきに一食、それも凡そ栄養があるとは思えないヒトの肉を食べるのみのプラトーが、これまで普通に動けたこと自体がおかしいのだ。そして以前に比べれば頻繁に「食事」を摂れるようになって、身体が贅沢に慣れてきているのだろう。
 足許に座ると、ぼんやりとプラトーが瞼を開いた。その瞼に掛かる細い髪を掻き上げると、脂っ気の抜けた膚と髪の、かさかさした感触が掌を擽る。相変わらず荒れた唇の、ささくれた皮を爪で千切り取ると、じわりと薄赤い血が滲んだ。
 「痛いよ」
甘えるように言いながら、プラトーは当たり前のようにスキンブルの指を舐め始めた。そろりそろりと歯を当てる。初めはいつ食い千切られるかと不安を感じたこともあったが、生きているものはヒト以外でも食べないと本人が言い張る通り、僅かの痛みも感じたことは無い。愛撫の甘噛みにも満たないが、手首に柔くかぶりつき、音を立てて吸い上げられると、じわじわと背中に痺れが広がった。指も一本一本丁寧に含まれる。
 「暫くご飯に連れて行けなくなっちゃったよ」
「おしゃぶり」に熱中しているプラトーの唾液まみれの顔を覗き込むと、プラトーはスキンブルの指を咥えたまま首を傾げた。
「食べ残しが町で大騒ぎになってるから、少しの間大人しくしてろって」
漸く口から指を放し、プラトーは残念そうに頷いた。
「そっか。そうだよなあ」
指先に溜まった自分の涎を名残惜しそうに舌で掬い取りながら、更に溜息を吐く。
「一ト月の間に3人だもんな…」
 スキンブルの脇や、背中に頭を突っ込み、くんくんと鼻を鳴らしながら、プラトーはうっとりとした表情を見せた。
「シゴトの後のスキンブルってさあ、凄く美味しそうなニオイがする」
「そう?それって汗臭いんだと思うよ。……浴室、行こうか」
「――うん」
浴室、の一言にさっと顔を赤らめ、目を伏せながら頷いたプラトーを、スキンブルは軽々と担ぎ上げた。

 空の浴槽の中で、スキンブルの膝に向かい合わせに座り込んだプラトーは、早速目の前の首筋に取り付き始める。自分の身体を舐めるよりも、他人の身体の方が広い範囲を味わえるからと喜ぶプラトーに、後ろめたさを感じないと言えば嘘になるが、要はそれでお互い満足なのだから考え込む必要はない。安いプラスチックの浴槽の縁を枕に、スキンブルは突き上げるような憐愍と欲情を感じた。
 プラトーがかりそめの食欲を満たすべく、スキンブルのほぼ全身を巡礼して回っている間に、スキンブルも自分の欲望を満たす準備に掛かる。それらしい膨らみのまるで無い、尖った尻のあわいから、簡単に姿を現す淡褐色の窄みに、たっぷりとワセリンを塗りつけ、そのまま体内への侵入を果たした。スキンブルの足許で、足指の股を口にしていたプラトーが細く呻く。毛並みの整わない細い尻尾が、ぱたぱたとスキンブルの手の甲を叩いた。尾の先端は辛うじて周囲の毛で隠れてはいるが、その中は無毛で、不揃いな肉の盛り上がりから、相当昔に引きちぎられたか、押し潰されたかしたことが判る。自分で食べてしまったのかもしれなかった。目の前を右に左にひらめく短い尾を掴むと、スキンブルはその先端の薄い肉部に食らいついた。痛いと叫ぶ声に媚はない。その声に煽られて、とうとうグチャリと豆粒のように盛り上がった肉を噛み潰し、骨にまで行き当たって漸く顎の力を抜いた。
 口の中に血の味が滲む。生臭い気がするのは、食糧のせいか、気のせいか。痛い、と涙さえ浮かべながら、プラトーが身体を捩る。するりと逃げていった尻尾が、あっと言う間に股間に隠れた。
「ごめんね、つい」
詫びがてら、尻の奥の快楽に直結する辺りを指で探ると、プラトーは拗ねたように鼻を鳴らし、スキンブルの首筋から、背中の上の辺りにやたらに歯を立てる。尻尾の代わりに硬く勃起した陰茎を握ってやると、やっと機嫌を直していつも通りの作業に戻っていった。

 狭いバスタブの中で何度も身体の向きを変え、一箇所の巡り残しも出さないとばかりに没頭するプラトーを、スキンブルは無表情に見下ろした。そこだけ異様に大きく見える膝や肘の関節と、骨そのもののような脚や腕が、まるで蔓のように自分の身体にまとわり付いているのが酷く不快に感じられる。体内を探っていた指を抜くと、まだ舐め足りない顔を向けたプラトーを引き剥がし、浴槽の縁に押し付けた。不快さをぶつけるように後ろから捻じ込む。甲高い悲鳴を上げながらも懸命に息を吐こうとする姿に、僅かに溜飲が下がった。
 薄い粘膜が忽ちの内に傷付き、血が、内股を伝うより先に浴槽の底にぱたぱたと滴り落ちる。数個の赤い水玉は直ぐに一つの大きな水玉になった。この行為が自身には苦痛しかもたらさないと解っていても、プラトーは絶対に嫌がらない。出来ることなら何でもする、と言った初日の自分の言葉を忠実に実践している。
 しかしスキンブルにとっては、行為自体は目的ではない。抱いて気持ちの良い身体でもないし、ただのオマケ的なものだ。苦痛を堪えるばかりのプラトーが、何故か回数を経るごとにスキンブルへの傾倒を深めていくので、この手段を執っているだけだった。
 普通に匿うのはそろそろ限界と言っても良い。これまで町から町へと放浪してきたからこそ、大した騒ぎにならなかったが、この食嗜好は本来一所に留まるのに向いていない。食い荒らされた屍体が恒常的に見つかるようになれば、何れは共に不本意な結末を迎えざるを得なくなる。そこまで同道するつもりはない。
 ただ――ではさよならと放流してしまう気にもなれなかった。ミストは彼は仲間ではないと言ったが、スキンブル自身の道具の一つとして、協力させることはできる。そうすればミストも、プラトーをスキンブルのモノと見なして、後始末をつけてくれる、筈だ。
 もうすぐ、僕達の「仲間」にしてあげるからね。痛みを堪えてぽろぽろ涙を流すプラトーの横顔に、スキンブルはそっと囁きかけた。

 ヒュー、ヒューと喉を鳴らして荒い息を吐き、半ば気を失いかけて足許に倒れ伏すプラトーの上で、スキンブルはシャワーの栓を捻った。ボイラーが低い唸りを上げて動き始める。最初に水道管の中に溜まっていた水が降りかかるのはここも同じで、無防備な背中一杯にいきなり冷水を浴びたプラトーが、びくりと身体を痙攣させた。だが顔を上げる気配はない。血と精液のこびり付いた浴槽の床が、水で流されて元の色味を取り戻した頃に、漸くプラトーは自力で起き上がってきた。
 湯になったシャワーの真下を譲りながら、スキンブルはプラトーの身体を抱きかかえて立たせ、身体の汚れをこすり取ってやった。子供のように洟を垂らしながらすすり泣くので、それも丁寧に指で洗い流してやる。
「ごめんね。今日は、一寸暴力的だった」
 言いながら、裂傷を負った尻にも手を伸ばす。よくよく慣らしても毎回出血を見るそこは、今日は特に酷く、未だ内股から血の筋が消えようとしない。試しに指を一本入れると、内からどろりとした血と粘液の塊が排出され、掌全体が真っ赤に染まる。スキンブルはぽりぽりと頭を掻いた。
「これは酷い」
 自分で言ってみる。そんなに、と首を傾げるプラトーを有無を言わせず押さえ付け、取り敢えず出て来るだけの血を掻き出し、洗い流した。
 湯から上がると、先にバスタブから追い出したプラトーが、オリーブ油の大瓶を持って待っていた。皮膚が余りにぼろぼろに荒れているので、湯を使った後は保湿油代わりに塗らせているのだが、手の届かない背中の真ん中だけはスキンブルが塗ってやっている。瓶をスキンブルに渡すと、プラトーがくるりと背中を向けた。プラトーの背は、肋骨も背骨も、全ての凹凸がくっきりと皮膚に浮き出ていて、まるで奇怪なオブジェのように見える。掌全体を使って、塗り残しの無いよう広げてやるのだが、毎度塗っている内に、料理の下拵えをしている気分がしている。



 食料庫に保存していたストックは直ぐに無くなった。そもそも日持ちのする物でもない。初めのうちは、食べなくても我慢できると強がっていたプラトーだったが、流石に五日も経つとぐったりして、ものを言う元気も無くなる。辛うじて砂糖水の類は飲んでいるが、寝台の上から殆ど降りず、それでも決して腹が減ったとは口にしないのが痛々しい。空腹で眠ることさえ出来ないのか、瞼は腫れ、目の下は黒ずんで、顔色は蒼白から土気色に変わっている。
 そろそろ決断しなければいけない。寝返りを打たせてやりながら、背中に床擦れの兆しを見つけて、スキンブルは嘆息した。自重しろとミストが言った日から、まだ一週間も経っていない。かと言ってそうそうそこら辺に屍肉が落ちていることも、都合良く事故が起こることもない。他の動物の肉は、束の間腹を膨らますことは出来た。そのまま保ってくれるかと期待したが、その後腹を下してしまったので、余計に体力を削る結果にしかならなかった。
 仕事もあるから、スキンブルも一日中付き添ってはいられない。食糧が完全に絶たれて一週間目の朝、スキンブルが仕事から帰ると、小便臭い寝台の中で、プラトーは身動ぎの叶わぬ程衰弱しきっていた。



 外出着を身に着ける。家を出る。外は、まだ正午にもなっておらず、珍しく抜けるような青空が広がっている。その青々しさを憎たらしく視界に入れながら、午前中にミストフェリーズが居そうな場所を脳内でピックアップした。いつもの場所、自宅、タガーの所、教会。
「教会だ」
 根拠はなかった。ままよ、と歩き出す。スキンブルの家から教会までは、比較的遠い。小さな町とはいえ、端から中心までそれなりに距離がある。プラトーの為に食糧を得たいと言えば、十中十、断り続けていた「仕事」の分担を求められるだろう。自分がそこまでの負担を負っても、プラトーを助ける価値はあるだろうか。そう思うと、ふとした拍子にスキンブルの足は止まりそうになる。このまま放っておけば、今日明日には息を止めるだろう。そうすればまた何もない、平穏な毎日を送ることが出来る。好きなだけ好きな鉄道仕事にかまけて、面倒な「仕事」はミスト達が解決してくれるだろう。ミスト達の仕事の一員に、好んでなったわけではないのだ。
 だが、一体、彼を助けんとスキンブルを突き動かす、この得体の知れない情動は何なのだろうと思うと、未だ見ぬ自分自身の深淵を覗く気がして、どうしても足を止めることが出来なかった。その為なら、面倒な「仕事」の負担さえも辞さぬ気がどこかしらから湧いてくる。自分自身に眠っていたこの未知の領域の正体を、見極めたいのだ。今はそれで充分だと、スキンブルは逡巡を振り切った。
 果たして、教会の庭にミストフェリーズを見つけた。秋に入っても紅葉しない常緑樹の合間から、朗らかに健康的な笑い声が漏れ聞こえる。気付いていない訳でも無かろうに、ミストフェリーズはシラバブやジェミマとの追いかけっこから離れる様子を見せない。意を決して近付いていくと、やっとミストフェリーズが立ち留まった。少女ふたりに待つように指示し、木陰へと誘われる。少女達は、常ならぬスキンブルの様相に「大人の事情」を悟ったものか、いつものように親しげに近付いてくる様子は見せなかった。
「どうしたの?何かあった?」
無邪気そうに首を傾げるミストに、スキンブルも負けじと良心的な顔を作る。
「うん――あった」
「何が?」
「こないだ話してた例の奴が、今死にかけ……」
言いかけて、止めた。ミストフェリーズは、ごく浅い笑みを湛えている。
 知っているのだ。知っていたのだ。
「知ってて、そうなの?」
「自重しろって言わなかったっけ。僕がいつでも君の味方だなんて、言ってないよ」
「そういうこと」
「そういうこと」
ニュアンスを変えて、ミストがスキンブルの言葉を重ねた。満面の笑みだ。それは拒絶の証だ。それを解っていても尚、スキンブルは言い募った。
「でも、お願い。今回だけ、助けて欲しい」
「どうして?スキンブルらしくないよ」
「どうしてって」
 言葉に詰まる。考えずに飛び出てきたので、いつものような浮ついた屁理屈が思い浮かばなかった。しかしミストは、まあ良いや、と呟いた。そして何処から出したものか、紙切れを一枚、スキンブルに握らせる。開くと、そこには住所と名前が記されていて、スキンブルが目にした途端文字は忽ち滲みだし、あっと言う間に白紙に戻っていった。その紙を取り上げながら、ミストが口を開いた。
「そいつ。スキンブルの仕事にあげるよ。その場所に今、独りでいるから」
「あ――…ありが、とう」
言い終わる前に再び駆け出していた。場所はここから近い。走り出すとすぐに息が切れ、胸が痛んだ。が、脚は止まらなかった。





 その中年男は最近町に流れてきた男だった。スキンブルも駅で見掛けたことがある。ただそれだけだった。どんな性格で、何の仕事をしているのか、家族はいるのか、何も知らない。男はミストフェリーズが示した通りの場所を歩いていた。どこへ向かっているのかは解らないが、急ぎでは無さそうなゆったりした足取りだ。男に話し掛ける前に一旦物陰で足を止め、凍り付いたようになっていた顔を掌で擦って、スキンブルはいつもの笑顔を浮かべた。一歩、二歩、男に近付く。あのう、と話し掛けた。男は、少し驚いたようだった。





 寝室の扉を開ける手が、少し震えていた。寝台には、相変わらず薄べったい塊が伸びていて、微かに上下しているのが認められる。その様子にスキンブルは安堵した。
「プラトー!生きてる?ごはん!ごはんだよ!」
「ご、はん」
「そう!」
 骨と皮の身体を毛布で包んで抱き上げる。足で扉を蹴り開け、寝室を出たスキンブルに、プラトーが不安げな表情を見せた。
「どこに、行くんだ?」
「地下室」
「地下室?」
 キッチンの食料庫には、床下収納の為の、地下室への入り口が設えてある。仕舞う物もないので、長らく使っていなかったのだが、まさかこんな風に役に立つなんて、とスキンブルは忍び笑った。コツコツと石の階段を下りていくと、黴臭いような地下独特の空気が、ひんやりと肺を冷やす。パチリと壁のスイッチを押し下げると、低めの天井から吊り下がった橙色の裸電球がぼんやりと二つ、灯った。足許に一度プラトーを置き、地下室への入り口を閉じる。階段の上までは光が届かないので、用心しながら足を運ぶ。
 「お待たせ――ほら」
 床に寝かせたプラトーの背を支え、毛布の上に座らせると、スキンブルは部屋の奥を指差した。奥には、先程ミストから譲られた男を、椅子に縛り付けて置いてある。暫く目を凝らしていたプラトーが、ひっと息を呑んだ。
「ス、スキンブル!あれ、あいつ、まだ生きて…!」
「そうだよ。殺してから連れてくると、時間が掛かるだろ。君が心配でさ」
「なっ、そんな、無理だ!食えないよ!」
ガクガクと震えだしたプラトーの肩を優しく叩いて宥めながら、スキンブルは落ち着いて、と囁いた。
「今から僕が、始末してくるから、君はここで待っていてくれれば」
「そんな!俺が食うために殺すなんて駄目だッ!そ、それも、スキンブルが…なんでこんなッ」
 予想外に取り乱すプラトーに、スキンブルは眉根を寄せた。
「そんなこと言うけどさ、今まで僕が食べさせてあげてたのだって、直前までは」
「――え」
「生きてたんだよ。殺すのは僕の役じゃなかったけど……もしかして、単に屍体があるところに連れて行ってただけだと思ってた?そんな上手いこと屍体が落ちてるわけ、無いでしょ」
「だって、そんな――なんで」
壊れたように涙を流し、冷たい手でスキンブルの手を硬く握り締めるプラトーが声を詰まらせた。何でと言われても、と嘆息する。
「食べなきゃ君が死ぬんだから」
一本一本指を引き剥がし、スキンブルは起ち上がった。
「やぁ…やだ、やめてくれ……ッ」
 這いずり寄るプラトーよりも早く、スキンブルは椅子に縛り付けた男の元へ近付いた。男は、いつの間にか意識を取り戻して、猿轡の下で何かを呻いている。見開いた目は恐怖に充血し、つるつるした曲面を空気中に晒していた。スキンブルがポケットナイフを取り出すと、男は急に暴れ出し、椅子をガタガタと揺すった。後ろからは相変わらずプラトーの叫び声が煩い。
 ポケットナイフは、静かに男の喉笛に滑り込んだ。ヒュッと男が息を詰める。薙ぎ払わずに、突き立てたナイフをそのまま捻ると、噴水のように血を吹き出す。それを脇へ退いてやり過ごした。男は暫くの間、断末魔の藻掻きを見せていたが、やがて静かに絶命した。
「あ――あぁああああッ」
絶命を確認すると、スキンブルは男の服を切り裂き、太腿の肉を一切れ切り取った。
「プラトー、ほら、ごはん」
先刻の男の生き写しのような表情のプラトーの前に、スキンブルは肉塊を投げ渡す。肉は、べちゃりと音を立ててプラトーの前の石床に墜落した。毛布に身体を包んで座り込んでいたプラトーは、しかし肉に手を伸ばさない。
 プラトーの傍らに戻って、今投げたばかりの肉塊を掴むと、スキンブルはその肉塊をプラトーの口元へ運んだ。
「ほら、食べないの?お腹空いてるんでしょう」
「食べ――……ない。そん、なの、食べられない、」
泣きじゃくりながら、プラトーが首を振った。
「何言ってるんだ。食べるんだよ」
無理矢理顎を掴んで開けさせると、プラトーの口に肉塊を押し入れる。必死に押し戻そうとする手は弱々しく、スキンブルを制するには遠く及ばない。だが、肉塊が大きすぎたせいか、口の中に半分程を詰め込んでも、咀嚼は愚か噛み切ることさえ出来ないようで、口一杯に頬張ったまま、プラトーは今にも息を止めそうだった。
 これは無理かと一旦肉を口から引っ張り出すと、プラトーは激しく咳き込んで嘔吐した。薄い胃液が床に少量吐き出されただけだったが、弱り切ったプラトーには嘔吐すること自体がダメージになる。その間に肉塊を一口大の細切れにし、プラトーの口の中に放り込むタイミングを待った。
 胃液に唾液、洟水までもをだらだらと垂らしながら咳き込むプラトーの背を、ゆっくりさすってやる。落ち着くのを待って、小さな肉片を口の中に詰め込み、吐き出さないよう口を押さえた。初めは泣きながら首を振っていたプラトーも、やがて諦めたように咀嚼し始めた。くちゃくちゃと生肉を噛みしめる音を小さく響かせ、こくりと筋張った喉を上下させる。一口食べてしまった後は、他愛もなくスキンブルの運ぶがままに、淡々と食べ続けた。時折床の砂埃を噛むのか、じゃりりと硬そうな音もする。それでも無心に食べ続ける。一塊を食べきってしまうと、プラトーはぐったりと目を瞑った。
 「お腹はふくれた?」
そう訊ねると、プラトーはまだ涙の膜の厚い目を開いて、スキンブルをじっと見上げる。泣いて火照ったプラトーの頬が、ぼんやりと腕に温かかった。
「どうせ僕か、でなきゃ他の誰かのやることだったんだから、君は気にしなくて良いんだ」
「お前、一体、何者なんだ…」
「――僕は、君を、僕達の仲間に入れたいと思ってる」
 僕の道具として、とは言わなかった。なかま、とプラトーが呟く。スキンブルにはそれがまるで、絶望の言葉を口にするかのような、そんな口調に聞こえた。



 折角懐いていたプラトーは、あの日を境にめっきり鬱ぎ込んでしまったが、スキンブルが与える食べ物を拒もうとはしなくなった。大人しく食餌を摂り、仕事に行ったスキンブルの帰りを待つ。スキンブルはスキンブルで、ミストからの仕事も積極的に請け負うことにした。元々四人で分担するべき事を、タンブルとランパスの二人に押し付けていたので、身内から異論の在ろう筈もなかった。

 「プラトー、一寸」
居間でぼんやりと鉛色の窓外を眺めていたプラトーを手招きすると、何かと問うように微かに首を傾げ、フラフラと雲を踏むような足取りで部屋の入り口までやって来た。
「どうした?」
「一寸、こっちへ」
スキンブルの様子に不安を覚えたのか、躊躇いがちに歩を進めるプラトーの腕を取り、スキンブルはキッチンへと誘う。無言のまま食料庫の前へ立つと、その向こうに何が待っているのかを理解したらしく、プラトーはさっと顔を蒼褪めさせた。
「まさか…」
「そろそろ、お腹空いてるでしょ。前のが無くなってから、もう四日目だもの」
足を竦ませるプラトーを引っ張って、スキンブルは食料庫へ入った。床板を上げ、狭い階段を数段下りる。今度は、先に床板を閉じた。
 暫くの間、真っ暗闇の中で、プラトーの喘ぐような息遣いと、細い手首のぬくみだけがスキンブルの感覚を支配していたが、慎重に階段を下りた先で灯りのスイッチに触れると、途端に地下室の細部が目に飛び込んできた。橙色の裸電球が、天井からぶら下がっている。埃と黴の臭い。部屋の奥には二週間前の焼き直しのように、椅子に縛り付けられた男のいる光景がある。
 とん、と背中に重みを感じた。プラトーが背中に縋り付いている。手首を取られた手とは反対の腕が恐る恐る伸ばされ、スキンブルの胴を抱いた。
「無駄なことだよ」
宥めるように手の甲をぽんぽんと二三度軽く叩き、自分の手を覆い被せると、スキンブルはそのまま背中のプラトーを引き摺りながら前進する。
「待っ…!」
慌てたようにスキンブルの手を払い除けて、プラトーの腕が羽交い締めに転じたが、体格も体力も、スキンブルに及ぶものではない。寧ろ自分の身体からプラトーが離れないよう、しっかりとその腕を掴んで、スキンブルは縛り上げた男の前へ出た。
 「ほら、ちゃんと見てご覧。此奴が今日の君のごはん」
「嫌だ!」
背中で、プラトーが激しく首を横に振る。
「嫌だ、お前がそんなことするなら、俺は今すぐにこの町を出るッ」
「君がここを出て行こうと、これからここで僕がやることに代わりはないんだから。食べなきゃ損だよ。彼の死も無駄になる」
「でもッ…!」
「君は、僕の為になら何でもやるって言ったよね」
 いつの間に目を醒ましたのか、男はスキンブル達の会話に目を白黒させ、何とか緊縛から逃れようと身体を捩り始めた。そんな程度で解けるようには縛っていないが、話の横でギイギイ椅子を鳴らしたり、猿轡の下で呻かれたりされるのが酷く鬱陶しい。物解りの悪いプラトーにも些かうんざりしていたスキンブルは、徐にいつものポケットナイフを取り出すと、ひとまず男の喉笛に突き立てた。男の猿轡が逆流した血液で赤く染まる。背後でプラトーが細い悲鳴を上げた。
 ゆっくりナイフを捻り、喉から抜き出す。喉はごぼごぼと音を立てて血を吹き上げたが、男は直ぐには死なず、ギリギリと目を見開いて、身体を激しく痙攣させた。プラトーの手がずるずるとスキンブルの身体を滑り降り、ついには膝を着いて、項垂れた頭らしい硬い感触が、スキンブルの膝裏に当たった。
「少しずつ慣れていくよ。――自分でやってごらん。まだこの男の息のあるうちに」
半身を引いてしゃがみ、座り込んだプラトーの手にナイフを握らせる。痙攣して不規則に中空を蹴る男の脚先が、床の血溜まりを掠って、床に縫い付けられたように動かないプラトーの白い手の甲に、赤い点を弾き飛ばした。
 言葉はない。スキンブルはプラトーを抱え上げるようにして立たせ、ナイフを放そうと震える手に手を添えて、最期の苦しみの真っ最中にいる男の腿へ突き立てさせた。そのままぐっと手前に引くと、布地と共に肉まで裂けた腿の断面から、やはり鮮やかな血がみるみる吹き出る。それなりに鍛えた脚だったのか、男の脚は、熟れた果実が独りでに裂けるように、内側から肉が盛り上がり、その勢いで殆ど苦もなく縦裂きにすることが出来た。
 一旦ナイフを引き抜き、数インチ横にもう一度突き立てる。縦に引く。二本の傷を結ぶように横にも引く。横向きは少し固い。細長い箱形に切り取られた腿肉は、最後に骨から刮げ落とすと、音を立てて床の血溜まりに落ちた。男はいつの間にか血泡を吹いて事切れていた。
「拾って」
 プラトーの手からナイフを取り上げると、スキンブルは敢えて威圧的に命令を下した。
「拾って、プラトー」
骨と見紛う手指が、震えながら伸ばされる。プラトーはまるで熱い物を無理矢理掴んだように、肉を手にした瞬間歯を食いしばって顔を背けた。その背中を抱き締め、冷え切った頬に頬を寄せながら、スキンブルも言い募る。
「食べるんだ」
首を振ろうとするのを押し留める代わりに、手は掴まない。自分の意思で肉を口にさせたかった。
 数分が数十分にも思える沈黙の後、プラトーはとうとうゆっくりと肉を掴んだ手を持ち上げ、その塊に口を付けた。くちゅりと頬越しに生肉を噛み締める感触が伝わる。ぐちゅ、ぐちゅと咀嚼する度に伝わる感触に、スキンブルは自分が一緒に肉を食っているような錯覚を覚えた。
 びっしりと強い毛の生えた皮膚表面を残してプラトーが食べ終わったのを見届けると、漸く肩の力が抜けた。自分で思っていた以上に、スキンブルも緊張していた。血と脂で汚れたプラトーの口元を拭って、頭を撫でてやる。
「良い子だね。よく頑張ったね」
 強張っていたプラトーの身体も、スキンブルの言葉に解き放たれたように脱力した。今にも頽れそうな身体を支え、すすり泣く背中を撫で下ろしながら、スキンブルは言葉を探した。
「何にも考えなくて良いんだよ。全部僕の為にしてくれたことなんだから。――悪いのは全部僕だから」
言ってから、自分で驚いて口を噤んだ。悪いのは全部自分、などと言う言葉は、終ぞ考えもしなかった言葉だった。思いもしないその言葉が、無意識の本心から出たものか、上っ面の慰めか、容易に判断を下し兼ねて、スキンブルはきつく口を引き結んだ。



 自分だけで、月に二度巡ってくるその機会に、よくもまあそんなに毎月標的を見つけてくるものだと、今白紙になったばかりのメモを手の中で握り潰し、スキンブルは嘆息した。而して自分たちの仕事のお陰で、この町は大きなトラブルに見舞われずに済んでいるのも事実だ。いとも純真なマンカストラップなどは、こうした裏側に考えも及ぶまい。意地悪く言えば、投げ与えられた平和な箱庭の中で正義ごっこをしているに過ぎないマンカストラップ達に、憐れみを覚えもする。彼らが「平和を乱すもの」として追い掛けている存在こそが、実はこの町の平穏を保っているとは、何とも皮肉なことだ。
 そして平和を与えるだけでなく、町に仮の「悪」をも与えて、常に新鮮な平和への渇望を起こさせる仕組みを作った長老の老獪さに、ただただ舌を巻く。必要悪、と涼しい顔をするミストフェリーズと、その背後で人の良い穏やかな笑顔を浮かべる長老を前にする度、泥の底から砂利を掻き出すような、ざらりとした苛立ちを覚える。欺瞞や偽善に対する苛立ちと言うよりは、自分が良いように使われていることへの苛立ちに近い。
 そもそも――何故、自分が「マキャヴィティ」の一人だとミストフェリーズから言われたことを、疑念もなく受け容れてしまったのか、それがスキンブルには解らなかった。解らなかったが、違和感はなかったように思う。その時のことを思い出すと、まるで見知らぬ他人を眺めるような気持ちになる。
 酷く憂鬱な気分で、スキンブルは、目の前を通り過ぎた男を呼び止めた。



 眉間に皺を寄せたままのスキンブルの姿に、寝台の上のプラトーが今にも泣きそうな顔で後退さった。午後三時の部屋の中は薄暗く、窓の外は鈍色の雲と鬱蒼とした木々が暗澹と広がっていて、癇に障る冷たく乾いた晩秋の風が、両手で窓枠を持って揺さぶるように、がたぴし鳴らしている。
「こっちにおいで」
 部屋の入り口を塞ぐように立ち、手を伸ばす。下唇を噛み締め、よろよろと覚束無い足取りのプラトーが自力で側まで来るのを、じっと待った。食生活が安定してきた成果か、家の中くらいは再び自力で移動出来るようになっている。
 冷たくか細い指が、スキンブルの手指の先に触れる。それが掌にまで届く間も待たず、スキンブルはプラトーを強引に引き寄せた。倒れ込んだプラトーを肩の上に抱え上げて、いつもの地下室へと歩く。自力での移動が出来るとは言え、一人で歩かせると時間が掛かる上、地下室への階段で転倒する恐れもあった。既に些細な皮膚の破れや床擦れが慢性化し始めている。骨折でもされれば、完治は愚か、折れた骨の接合も難しいだろう。食餌は比較的頻繁に与えているのに、駅で見つけた時から約三月と少し、確実にプラトーは弱りつつある。死は見えない懼れではなく、見える懼れと化していた。
 暗い階段を下りるにつれ、濃い屍臭が鼻を突く。まだほんの数人のことだというのに、既に臭いが染みつき始めていた。階下でプラトーを下ろそうとすると、プラトーはスキンブルの首にしがみついて、離れようとしない。落ち着けと背中を軽く叩いてやったが、首筋に額を当てたまま力なく首を振る。仕方なく腕を放すと、力のないプラトーは直ぐにずるずるとスキンブルから床の上へと滑り落ちた。
「いつもやっている通りに。良いね。僕は君が必要だし、君も僕が必要だ。そうだろ」
 床の上に座り込んだプラトーの背中を抱き、手にナイフを握らせる。視線を上げると、そこにはいつものように素性も知らない男を椅子に縛り付けてある。違うのは、猿轡を噛んだ男が諦めたような表情で、固く目を瞑っている点だった。
 ずり落ちてもいない眼鏡を指で押し上げ、スキンブルは腕を組んだ。今日こそ一人でやり遂げて貰う。自分は手を出さないという意思表示のつもりである。のろのろと匍うように、プラトーが掻い巻きの裾を引きずりながら、床の上を移動し始めた。時間を掛けて男の足許に辿り着くと、へたり込んだまま男を見上げる。橙色の裸電球の光の中で、プラトーの後ろ姿はそのまま溶け出してしまいそうに薄く、小さい。思わず組んでいた腕を解いて駆け寄りそうになるのを、スキンブルは意識して堪えなければならなかった。
 床に手を突き、慎重に起ち上がる。一歩、更に前へ出る。これまで通りナイフの刃を喉笛に当てて、プラトーは動きを止めた。ナイフを掴んでいる手が小刻みに震えている。刃の当てられた太い首は、ぐっと後ろに反らされ、筋や血管の脈打つのがはっきりと確認できた。唾を飲んだのか、ごくりと音がして、大きな喉仏が上下する。
 ぴんと張った皮膚から一度ナイフが離れ、振り上げられる。シュッと空を切る音と共に、ナイフの切っ先が喉笛を目掛けて降下した。組んでいた腕にきつく指を食い込ませ、スキンブルは身を乗り出した。少し力が足りない。咄嗟にそう感じた通り、プラトーが振り下ろしたナイフは、皮膚の弾力に弾かれて、喉笛の上を滑り、首の皮膚数ミリを傷付けるだけの結果に終わった。
 それでも傷口からはぷつぷつと血の珠が膨らんでくる。パニックを起こしたプラトーが、悲鳴を上げてナイフを取り落とし、頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
 男が、瞑っていた眼を開いて、プラトーを見下ろした。何が起こったのかを把握したのか、憐れむような眼差しで、床に伏してしゃくり上げるプラトーを眺めている。どうしようもなかった。
 腕を解いてナイフを拾い上げると、テーブルの上へグラスを置くように造作なく、スキンブルは男の喉笛へナイフを潜らせた。噴水のように吹き上げる血飛沫を、避けきれず背中一杯に浴びたプラトーが、漸く泣き顔を上げる。その顔を幾らかの失望を持って眺めながら、
「後は、ちゃんと自分でやりなよ」
血脂で汚れたナイフを、もう一度プラトーに握らせた。断末魔の痙攣を終わらせた男は、半開きの虚ろな眼差しをプラトーへ向け続けている。まるで自分たちのことを揶揄されているようで、不愉快だった。手を伸ばして、乱暴に男の瞼を閉じさせる。
 しゃくり上げ、しきりに謝罪の言葉を呟きながら、それでも男の腿にナイフを入れるプラトーにも、気持ちが尖った。誰のためにこんな汚れ仕事を――。
「そんなに嫌なら、どうして死なないの」
びくりと震えて、プラトーが手を止めた。土気色の頬を引き攣らせて、スキンブルを見上げる。
「君なら簡単に死ねるだろ。食べなければ、すぐだ」
「……死ぬのは怖い。自分で死ぬのも、殺されるのも」
「……卑怯者」
「初めは、初めは死んでしまおうと俺だって!こんな……ッ」
 息を切らしながらプラトーが叫ぶ。ほんの数言の絶叫にさえ、耐えられないように直ぐ様声が掠れ、喉が干涸らびたような咳き込みを始めたが、構わず畳み掛ける。
「だったらその時に死ねば良かったんだ。何故死ななかった?浅ましく生き延びたその理由は?」
「だって、痛いし、苦しいだろ!怖い、怖いんだ――死ぬのは、怖い」
 突然叫んだせいか、空気を呑み込みすぎたのか、喉をヒクヒクと鳴らして、プラトーが訴えた。
「その代わりもう殴られることも、ひもじい思いをすることもないよ。こんな辛い目に合うことも」
「でも――死ぬのはもっと怖い」
「君は、死にたいのに怖くて死ねないの?」
「――……」
「死にたいのに、怖くて死ねないのなら、僕が、痛くも苦しくもなく、楽に殺してあげるよ」
「違う――違う。そうじゃない。生きたい。生き延びたい。出来るだけ、長く」
やけにきっぱりとプラトーが呟いた。
「生きてさえいれば、もしかしたら、また、普通に生きられる日が来るかもしれない。諦めたくない。――死ぬ前に、もう一回だけで良い、普通の飯、食いたい」
 弱々しいすすり泣きが地下室を満たす。苛立ちと憐れみとが綯い交ぜになる。スキンブルは男の腿に突き立ったままのナイフを乱暴に抜き取ると、それでもプラトーの前にそれを差し出した。
「生きたいなら、尚更、これは君が生き延びるために自分でやるべきだ。そうじゃないか?」
血の気のない脣を震わせて、首を振るプラトーの手に、改めてナイフをねじ込む。
「泣き言も繰り言も、言ってる場合じゃないだろ。さあ」
 プラトーの頭を掴んで、男の腿に近付ける。生命活動を終えた身体からは、静かに血が流れ続けているが、それももう細くなりつつある。生臭い匂いが鼻孔の粘膜にまとわり付く。プラトーには食欲をそそるたまらない匂いの筈だ。カチカチと歯を打ち付ける音に混じって、ごくりと、唾液を飲む音が聞こえる。喘ぐように荒く不規則な呼吸から、プラトーの、早鐘を打つようであろう心臓の音まで聞こえるような気がする。顔と腿が接触するぎりぎりまで押し付けると、バランスを崩したプラトーが蹌踉けて男の膝に手を付いた。それが、プラトーの心の最後の堰を破った瞬間になった。


 音もなくナイフが躍り上がり肉に突き刺さる。まるでその肉こそがナイフの正しい鞘であるかのように、深々と突き立っている。プラトーの、筋ばかり浮いた、細い喉元に。


 背中から倒れ込んできた身体を抱き止め、ゆっくりと見下ろした先では、口からこぽこぽと血を吹くプラトーが、困ったような、ほっとしたような笑みを浮かべている。自分が急にうすのろになったような錯覚を覚える。何が起こっているのか理解できないのではない。理解した上で、身体が思うように動かない。じわじわとプラトーの寝間着から、スキンブルの服の袖に血染みが移る。
「何でッ!今ッ、今生きたいって言ってたばかりだろ!……馬鹿がッ!」
 骨ばかりの身体を抱き締めると、プラトーの手が、スキンブルの手にそっと触れる。
「僕か?僕のせいなのか?そんなに自分でやるのが嫌だったのか?」
触れた手をきつく握り締めながら、叫ぶ。しかしもう、プラトーの、吐き戻した血の下で小さく震える脣からは、呻き声も出ない。口の端に溜まった血泡ばかりがぷくぷくと増え、その内ぷちんと弾けた。きつく握られた手を微かに握り返して、首を横に振り、一度、甘えるようにスキンブルの脇腹に頬を擦り付けたかと思うと、プラトーはそのまま静かに動かなくなった。
 焦点を失った瞳の表面には、こぼれ落ちる寸前の涙の膜が、下瞼の縁に薄い盛り上がりを見せている。その中に映り込んだ自分の、何とも言えない歪んだ表情を目の当たりにして、スキンブルは堪らずプラトーの瞼を撫で下ろした。上瞼に押し出された涙がほろほろとこめかみを滑って、脂気無く乾いた髪の中に紛れていく。全て瞬く間の出来事だった。
「馬鹿……ッばかやろッ……!」
上下しなくなった薄い胸の上に額を乗せて、スキンブルは呻いた。



 どの位、そうしていただろうか。やがてスキンブルは静かに顔を上げて、プラトーの喉笛からナイフを引き抜いた。血塗れになった口元を丁寧に舐めて綺麗にしてやる。上脣を啄み、下脣の柔らかく淡い膨らみに歯を立て、口腔を舐め回す。口の中が錆味で一杯になったが、プラトーの顔がいつも通りの白さを取り戻すまで、舐め続けた。
 顔を綺麗にすると、今度は床にプラトーを寝かせて、着ていた物を全て取り去る。痩せ衰えた身体は、どこもかしこも骨に直接皮が張っているかのようだったが、肉が一切無い、と言うわけではない。中でもまだマシに見える腿の付け根を薄くナイフで削ぐ。今日、何度も血脂に塗れたナイフは、なかなか思うように動かなかった。何とか、肉の一片を切り出すと、スキンブルは迷わずそれを口に入れ、咀嚼した。くちゃくちゃと噛み締めてみる。血の味以外に大した味はない。苦もなく呑み込むことが出来た。簡単なことだった。
 「でも、美味しくないね」
 ぽつりと呟く。呟いた途端、抑えようのない嗚咽が込み上げてきて、スキンブルは痩せた身体の前に座り込むと、意地も何もなく、ただただ泣き崩れた。











 「何だよ、アイツ、もうあの変なのを飼うのに飽きたのか?」
「まあ、そういうこと」
柄じゃないから汚れ仕事からはやっぱり手を引く、とスキンブルが言ってきたという報告を受けて、ランパスが眉間にくっきりと皺を寄せる。それを乱闘になる前にまあまあといなして、ミストフェリーズは肩を竦めた。ミストフェリーズの言葉のニュアンスに気付いて、訝しげな顔をしたタンブルは、しかしいつも通り目を伏せて何も聞こうとはしない。
 会話が聞こえていないわけでもあるまいに、スキンブルは部屋の隅のソファに腰掛け、肘を預けてそっぽを向いたまま、タヌキ寝入りを決め込んでいる。その様子を睨み付けて、ランパスが跫音高く去っていく。タンブルも、流石に居残る気分ではなかったのか、続けて部屋を後にしていった。
 「執務」に戻ったミストフェリーズに、スキンブルから声が掛かったのは、それから一時間もしてからのことだった。
「勝手ばかりして、迷惑掛けたとは思ってるよ」
「そ」
 敢えて振り向かない。ペンも止めずに背中で声を聞く。が、振り向かずともその表情は想像が付く。「もう、こんなことはないと思うから」そういえばそろそろ長老に来年度の予定を「そう願いたいね」聞かなければ「――でも、君は、こうなることを知ってたんだろ」いけない。今年は少しやりすぎた面もあるが、その分不審者や無頼者達の流入は減ってきている。ただし「さてね」近隣の町村からは幾らか訝しまれているから「いや――まあ、いいや。暫く、ここには顔出さない」マンカストラップ辺りが不審を抱かぬよう、注意が必要だ。一度数値の見直しを「どうぞ。どうせ、顔出したってやることもないでしょ」本格的に行う時期に来ているのだろう。それから来年こそはあの怠け者を何とかして「冷たいな」働かせないと、示しが付かない。長老からも折を見て「いつも通りだよ」口を添えて貰わねば――。
「そうだね」
 スキンブルが独りで納得したように、頷いた。部屋の中を横切って、出て行く気配に、漸くミストフェリーズは振り向いた。戸口で立ち止まったスキンブルの方が、今度は背中を向けたまま、口を開く。足許で床板がキュッと鳴った。
「そろそろ仕事に行く時間だ」
「いってらっしゃい」
「君は――全部、知っていたんだ」

 とんとんとん、と軽快に階段を下りていく音が響く。人気が無くなり、静まり返った部屋の中で、ミストフェリーズは根を詰めて痛むこめかみを指で押し揉んだ。
「そうだよ」
低く、独りごちる。知らぬわけがない。それが仕事でありそれが役目である。スキンブル達と同じだ。害になるのものを排除する。簡単なことだ。書き上がった書類を机に軽く打ち付けてまとめながら、ミストフェリーズは深い嘆息を一つ、ゆっくりと、物言わぬ机に向かって吐き落とした。







20080612
偽マキャが実は本物でした、と言うオチ。


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