えがおのあくにん×ヨワヨワ若造
01:日陰の湿った土
仕事のない日はこれに限るよね、といつもの携帯用のスキットル――ではなく、コニャックのミニボトルをちびちびと舐めながら、スキンブルがアテのない散歩に繰り出して既に2時間程になる。
一等車用のそのミニボトルは、瓶に疵があるとか何とかでお払い箱になったものを、ちゃっかりお持ち帰りしたのだ。その数、2ダース。くっくっく、と偶に思い出し笑いが止まらなくなるのも、決して酔いのせいではない。単にビンボーのせいである。その程度で酔う程弱くはないものね、と呟いてはいるが、家を出る前に既にスキットルに入れるためのウィスキーを空にしてきているのだ、と言うことを思い出せなくなっている辺り、十分な酔っぱらいである。コニャックを持ち歩いている理由はそこにあるのだが、その件に関しては、スキンブルの頭からは綺麗に消去されているようだった。
からりと晴れた薄青い空は、数日前まで続いた長雨の名残を欠片も残しては居ない。6月は、暑くも寒くもなく、雨も少なく、生け垣に緑と花の溢れる最高の季節だよね、と一人語ち、余所様の庭先の花の匂いを、胸一杯に吸い込む。郊外へ出るに連れて、民家は疎らになり、その代わりに野の草花が隙間を埋めるように繁茂し、区画を自然と整理するように木々が枝を伸ばしている。
たったそれだけのことで、世界中から祝福されているようだ、と思う。僕ァ幸せだなァ、と口にして、くるり、と爪先でターンをかけた先に、良く知るニオイを嗅ぎ当てた。おや、と首を傾げ、ついでに小瓶を傾ける。土と緑の匂いに混じった、知り合いの匂い――と血の臭い。さく、さくと草を踏みしだいて、スキンブルは一直線にそのニオイの発生地へと歩いた。
「あ、やっぱり」
それは繁った木の枝が張り合って、数日前の雨の湿りが未だ失せない土の上に、ぐったりと横たわっていた。土は、雨と血をたっぷりと吸って、赤黒く変色しぬかるんでいる。そしてその土の上に、金色の毛並みをした、手負いの若猫が転がっていた。血はもう止まっていたが、腹部を荒々しく剔られている。
「またやったの?相変わらずだねえ」
手負いの雄は、青ざめた瞼を閉ざしたまま、返事もしない。世界中から祝福されている気分のスキンブルとは対照的に、世界中から見放されているとしか考えようのない表情をした、その若猫に、
「返事くらいしなよ。起きてるんだろ、ヘボ犯罪王」
言いながら、革靴の先端を思い切り腹部の剔れへと蹴り込んだ。
「……!」
漸く声にならない声をあげて、ヘボ犯罪王、と呼ばれた若猫が、スキンブルを睨み上げた。どく、と止まっていた血が噴き出し、スキンブルの革靴の先端を赤く濡らす。
「あ、ゴッメーン。痛かった?でも平気だよねマキャなら。何てったって犯罪王だもんね。ヘボだけど」
「…っるさい。ヘボ、ヘボって、連呼、するな」
「ヘボでなかったら、何でこんな所でくたばってるの」
スキンブルに向かって擡げられてた頭を、ごりごりと地面に押し付けて踏みしめる。血と泥で汚れた金髪が、益々泥まみれになった。
「ッるさい…。放っ、とけ。…、馴れ馴れしく、呼ぶな」
じゃりじゃりと泥を食みながら、必死に抵抗する様が滑稽で、つい調子に乗りかけたスキンブルの足首を、若猫はがっしと掴んだ。
「判った判ったから、『マキャヴィティ』、手を離して。服が汚れる」
泥だらけ血塗れの手でズボンの裾を汚されては敵わない。代わりにこれあげる、としゃがみ込んで、コニャックの小瓶を無理矢理口の端に突っ込んだ。噎せるかと思いきや、瓶の口から滴る琥珀色の液体を、貪るように口に含もうとする。元々残り少なかった小瓶は、直ぐに空になった。
よく見れば、スキンブルの足を掴んだのと反対の腕は、いびつに歪んで、折れていることが判る。腹の他にも、あちこち殴打された痕や、引き裂かれた傷口が覗いていた。
「派手にやられたね。いい加減、諦めたら?君向いてないよ」
「そんなこと、…!」
お前に言われたくない、と言おうとしたのか、自分が一番判っている、とでも言いたかったのか。酷く悔しそうに、マキャヴィティは顔を歪めた。若しくは単に痛みの波が来たのかも知れなかった。失血のせいか益々白い顔に、仄かに赤みが差す。どくり、と腹が血を吐いた。
「大丈夫、だよね」
一瞬きつく眉根を寄せた後、問題ない、とマキャヴィティが小さく呟く。
「何時からそうしてるの?」
「…知らん。夜は、越えてない、筈だ」
言いながら、マキャヴィティはごろりと体勢を変え、仰向きになった。無事な方の手で腹は押さえていたが、それでも脈動と共にこぷ、こぷとどす黒い血が吹き出し、合間にぬるぬるとした質感の、内腑が見え隠れする。はぁあ、と細く息を吐く様子は、死体になる寸前にも見える。が。
「もう一本飲む?」
「お前から、何か、恵んで貰うなんて、真っ平だ」
そんな減らず口が叩けるのなら、大丈夫なのだろう。額に張り付いた髪を掻き上げてやる。額にも大きな引っ掻き傷が残っていた。ぴたぴた、と指で頬を叩きながら、言う。木漏れ日の破片が白い頬に斑を作る。
「顔しか取り柄無いのに、傷なんかつけちゃって」
「どうせ、直ぐに、消える」
「そ」
言うか言わぬかのうちに、ごぷ、と腹が吐いていた血が、止まった。
「血も直ぐに止まるんだね。この傷も消えてしまうんだ?もしかして手足が千切れても、やっぱりくっついたり生え替わったり、するの?」
「莫迦な…冗談を、」
幾らか呆れた顔で、マキャヴィティはスキンブルへと視線を向け、絶句した。勿論、スキンブルは冗談や洒落で訊ねた訳ではないのだ。薄く笑んで、頬に触れていた指を、脣の上へ動かす。
「お前、お、ま、まさか」
「試してみる価値はあると、思わない?こういうのを生殺与奪の権を握ってる状態って言うのかな。どうする、ヘボ犯罪王」
微笑んだまま黙り込んだスキンブルに、マキャヴィティは面白い程周章狼狽し、息を荒げた。こんな程度の分際で犯罪王を名乗るなんて、それ自体が犯罪だよねえ、と胸の内で嘆息し、嘘だよ、と呟きながらマキャヴィティの額に軽くデコぴんをくれてやる。
「そんなこと、僕にできる筈無いでしょう」
今のところは、だけど。
「…な、ぁ…」
最早罵倒の声すら出ないようだった。
「そんな可愛らしいんじゃ、いつまで経ってもヘボだよ、ヘボ」
足が痺れて来たので、立ち上がりながらジャケットの内ポケットに入れていた最後のミニボトルの蓋を開ける。ふわりと甘い、コニャックの匂いが立ち上り、一瞬生臭い血の臭いに取って代わる。つと仰ぎ見ると、雲が出てきたのか、木漏れ日は薄らぎ、輪郭を曖昧にして影と混じり合いそうになっていた。先刻より僅かに温度を下げた風がそよいで、草叢を唸らせる。
「一雨、来るのかなあ。どう思う?」
「知るか。とっとと、帰れ、糞野郎。死んでしまえ」
漸く息を整えたらしいが、懲りずに早速反抗的な態度を取るのは、出血多量でアタマに血が足りないせいか。
「否、違うな」
此奴のアタマ自体が、元々足りないのだ。スキンブルは、憐れみと慈しみを込めた眼差しで、優しくマキャヴィティを見下ろし、同時に足も踏み下ろした。
「ガッ…はッ…」
今度は腹の傷の真上ではなく、折れた腕の上を選んだ。踵の下から、折れた骨の破片が更に砕ける感触が伝わってくる。硝子の破片か粒の大きな砂利を踏んだ時のような、そんな感触だ。
「学習って言葉、知ってる?」
「し、らん!」
「そう言うところだけ強情だね、君も」
そう言う強情さは、けれども嫌いじゃない。
「ま、精々頑張りなよ、偉大なヘボ犯罪王。雨が降ると嫌だから、帰るね」
帰り掛けの駄賃に皮肉を一つ落とし、踏みつけた腕を軽く蹴り飛ばして、スキンブルは踵を返した。
「あ、降ってきたか」
マキャヴィティと別れて一時間程歩いた所で、とうとうぽつりと雨粒が石畳に痕を付け出した。自宅まではまだ悠に一時間はかかる。一滴の雨粒は、あっと言う間に痕を重ねて広がっていく。ゆうらりと生温かく埃っぽい匂いが立ち上り、この一時間程鼻孔の奥で滞留していた、血と入り交じって濡れた土の、湿った匂いと、噎せ返るようなコニャックの甘い芳香は、あっと言う間に書き換えられていった。
仕方ない、と苦笑い、スキンブルは走るでなく止まるでなく、悠然と歩き続け、一時間後、無事に、世界に祝福された散歩を終えたのだった。
終
20050928
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