フラグ未満。






15:忍び込むもの




 マキャとの付き合いは長い。かれこれ20年近くにはなる。初めて彼を見た時、僕は12歳くらいで、彼は2つか3つか、そのくらいだった。祖父だと言う老人に手を引かれて、彼はこの街にやってきた。それまで小さな子供と言えば、ここら辺の悪ガキ共や、自分の兄弟姉妹くらいしか知らなかった僕は、初めて見た彼に、とても驚いた。
 自力で歩ける年ではあるのに、言葉は殆ど片言で、凡そ感情というものがないのではないか、と思わせる抜け殻のような無表情をしていた。僕は、その時凄まじい選択間違いをした。つまり、彼は可哀想な子供だから、僕が助けて面倒を見てあげなければいけない。そう思ったのだ。
 だから僕は、再々彼と彼の祖父の元を訪れた。彼の祖父という人は、物静かで物知りで、頭の良い人だった。でも子供の育て方はからっきし駄目で(少なくとも、その頃の僕はそう思っていた)、お腹が空いたと弱々しく主張するマキャに、彼は酒の肴のような物ばかり与えていた。それ以上に、僕はまず、マキャのおむつを取り、パンツを履かせ、トイレで用を足すと言う所から、教えなければいけなかった。一体何度、彼のお漏らしの始末をしただろう。そんな時、彼の祖父は、否、クソジジイは何一つ手伝おうとしないのだ。興味深げに眺めてはいたが。
 それでも根気強く言葉を教え、生活という物を、子供なりにささやかながら教え、彼が他の子供達に混じり始めたのを見届けた。同じ頃、僕は職に就き、あまり彼と一緒に遊べなくなって、気がつけば。

 気がつけば、彼は、マキャは、鬱屈した幼少期が信じられないような、どこか頭の捻子の緩い若者に育っていた。一緒に遊びはしなかったが、疎遠にしていたわけではない。寧ろ僕の家に入り浸り状態だったのに。何が誰が彼にどう影響を与えたのか。例えば、2年前に彼の祖父が亡くなった後、彼は葬式の挨拶で、泣きながら、「爺さんが死んだから、今日から俺がはんざいおーを継ぎます。どうか宜しくお願いします」と括った。その後起こった騒動は、今はまだ思い出したくもない。ただ、糞まみれになった孫のおむつを、換えもしない祖父の正体については、納得した。
 彼は言わなくて良いことを言い、言わなければいけないことを黙秘する。そうしようと思って、やっているわけではない。考えていないだけなのだ。TPOとか、状況とか、場の空気とか、そんなものを。
 そう指摘すると、彼は、平然と「だって俺犯罪王だし」と言う。

 そして、その若き自称犯罪王を前に、僕は怒っている。マキャはマキャで、デカい図体を縮め、落ち着き無くきょろきょろと視線を彷徨わせ、後ろ手に組んだ手を神経質に組み直し、組み直しし、足をもじもじと動かしている。そのくせ、ふて腐れた顔をして、反省の色はない。
 僕と彼の間にあるのは、空っぽになった僕の秘蔵酒と、濡れてへにゃへにゃになり、薄い茶色に染まった、鉄道運行日誌の過去分が数冊。仕事で四六時中留守にする僕の家が、マキャやランパスや、街の若猫たちの溜まり場になっているのは、黙認していたことだ。だからこれも、ある意味で仕方のないことだ。若者は羽目を外す。僕だって経験してきたことだ。
 だから、僕が怒っているのは、そんなことではない。僕が怒ることをしたのだと、知っていて、決して謝らない彼の態度に、怒っていた。申し訳なさそうな顔をしていれば、黙っていても許して貰えると、そう考えている。
「…君は、いつもそうだけど」
わざと静かに、淡々と、僕は口火を切った。
「何か、言うことが、あるんじゃないのか」
コツン、とテーブルを指先で叩く。
「や、それはだから、俺じゃなくて、ランパスとマンゴが、酔って」
「でも、僕言ったよね?此処を使う時は、君に鍵を預けてるから、君が責任者だよって」
むぅ、と口先を尖らせて、マキャが上目遣いに僕を見る。
「それはだからこうしてちゃんと包み隠さず正直に」
「だから、そう言う時に、言うことがあるだろ」
 マキャは、嫌そうに眉を顰めた。その顔を見ながら、どうしてそんなに「ごめんなさい」とか「俺が悪かった」の一言を言うのが、嫌なのだろうと呆れてしまう。普段、軽く言う「ごめん」なら、幾らでも言えるのに、いざ自分の非を認めて、頭を下げなければいけない時になると、彼は黙りこくってしまう。どっかで教え間違えたかなあ、と記憶を遡るが、心当たりはない。20年近くも昔の話だから、忘れているだけかも知れない。仕方なく、僕は奥の手を出す。
「マキャ、鍵を出しなさい」
「…それは、嫌だ」
不満そうな顔が、一気に青ざめて強張る。いつもこうだ。
「俺が、悪かった。ごめん。だから」
「今回ばかりは、駄目。没収」
いつもこれで許してたから、駄目だったのかもしれない。僕は目を見開いたマキャの側に寄ると、いつも彼が鍵を入れているズボンのポケットから、素早く鍵束を取り出して離れた。束の中から、僕の家の合鍵を外して、残りを投げ渡す。鍵束は、ちゃりんと音を立てて、彼の足許に落ちた。
「もう帰って良いよ」
僕は念入りに玄関を指さした。マキャは、悄然と鍵を拾って、まるで機械みたいにぎこちなく歩いて、玄関へ向かっていった。最後にちらり、と振り向いたかと思うと、
「もう頼まれたって絶対来ないからな!後悔すんなよクソジジィ!」
と盛大に捨て台詞を残し、半泣き顔で乱暴にドアを叩き付けて出て行った。
 あと少し。あと少し僕とマキャの距離が近ければ、僕は奴を追い掛けて、思いっきり横面を殴りつけていたに違いない。代わりに僕は、彼のために作った合い鍵を、部屋の隅のゴミ箱に投げつけた。鍵は、ゴミ箱には入らずにどこかへ跳ね返っていった。
 ソファにどっかりと腰を下ろして、全く、と溜息を吐く。仕様のない奴だ。苛々と眼鏡のツルを指で押し上げる。後悔するなよ、だと?どっちがだ。クソジジィだと?うんこまみれでひぃひぃ泣いていたのは、どこのどいつだ。不毛な回想を繰り広げ、僕は溜息を吐いた。

 兎も角部屋を片付けなければいけない。空になった壜類はまとめて台所の裏口へ。運行日誌は、一旦乾かさねばならなかった。少し考えて、屋根裏の窓辺へ並べることにする。それにしても、一体何でこんなモノを持ち出したのだか、解らない。頁を広げたままの運行日誌を、僕は手に取り上げた。
 1935年12月10日。雪。その日の大まかな客数や、大小のトラブル、気付いたこと。どれも他愛ないことばかりが、僕らしい几帳面な字で綴られている。ここには一度も、マキャのことを書いた覚えはない。当然だ。これはマキャの育児日誌ではなく、鉄道の運行日誌なのだから。1935年12月11日。曇。12月12日。曇後小雨。
 あ、と僕は思わず声を出した。三日で一頁の、読んだところであまり詳細にその日を思い出すことの出来ない単調な日誌だが、この日だけは違う。マキャの祖父の命日だ。再度取り出して読んでみようという気を起こさせない、几帳面で小さな文字の綴りの中に、僕は自分でもすっかり忘れていた一文が忍び込んでいた。こんな日なのに側にいられない。
 翌日の葬儀には出たものの、当直だった僕は、あの日マキャの祖父が亡くなったことを知りながら、彼に会わずに仕事に行った。後から、あの日マキャが一人きりで夜を過ごしたことを聞いた。側にいようと皆が申し出るのを、悉く断ったのだと。あの時は、爺さんと最後の別れを惜しんだのだろうと、単純に思っていたのだが。
 僕が鉄道の乗務員になって、7年が経つ。乗務日誌もそれだけ溜まっている。その中から、殆ど字の読めない彼が、この頁を偶然開いたのだとは思えなかった。舌の上に渋いものを乗せているような、変な気持ちが広がる。迷った挙げ句、僕はその一冊以外のものをひとまず屋根裏へ避難させることにした。
 頁の間に、地下室から引っ張り出した藁を一本一本挟んで、窓際に置く。一年一冊程度で、それが3冊もあった。気の狂いそうな単純作業を、更に日誌から立ち上る香ばしいスコッチの匂いが邪魔をする。それでも何とか完遂出来たのは、頭の半分以上がマキャのことを考えていたからだ。
 いつも、地面から半分以上浮き足だったような、軽脳の癖に。そう思いながらも、さっきの書込をマキャに見られていたと言う事実は、僕の胸を重くした。居間に戻り、茶色く濡れたまま一冊残したその日誌を、僕はもう一度手に取った。部屋の隅に落ちた合い鍵が、嫌みったらしくきらりと室内灯を反射して、存在を主張する。
 どうしよう。どうしたものか。今現在、彼が、あっけらかんと羽のように軽い足許と、雨上がりの水溜まりのような浅い考えしか持っていないのは確かだが、だからといって彼の孤独感が取るに足らないモノだと断定するには、僕は余りにも彼を知りすぎていた。鍵を取り上げると脅される時、何故彼がいつも、あんなにも顔を青くするのか、漸く思い至る。そうして、僕が僕の家の鍵を取り上げた時、彼は僕が持っている彼の家の鍵を返せとは言わなかったことにも。
 遊び友達のランパスには、離れてはいるがロンドンに実家があり家族は皆息災にしている。マンゴにはランプがいる。僕もロンドンに両親と兄弟姉妹がいる。他の連中も、それぞれ血縁はなくとも帰る家がある。無い奴もいるが、恐らくマキャはそんなこと知る由もない。

 きらり、きらりと放たれる誘惑に負け、僕はとうとう部屋の隅に転がっていた鍵を拾い上げた。だがどうやって返してやろうか?こちらから返しに行けば、あの調子乗りが一層調子に乗るのが目に見えている。だが、当分自分から訪ねてくる可能性も低い――さて。
「あのう、お取り込み中で?」
 不意に掛かった声に、僕は思わず手にした鍵を取り落としかけた。玄関から居間に通じる扉に僅かな隙間が空き、そこからひょこひょこと顔が二つ、覗いていた。ランパスとマンゴだった。
「どこから入って?」
「玄関から。っていうか開いてたし」
「開いてたけど呼んだのに返事ねぇから」
扉の隙間から生えたままの生首が、口々に捲し立てる。解った解ったと制して、用件は何と聞くと、二人はずるずると大きなモノを引っ張ってきた。モノは、驚いたことに猿ぐつわを噛まされているマキャだった。二人でマキャの片手をそれぞれ引っ張っているのだ。うーうーと唸り、床に尻を付きながら足をばたつかせるマキャを、まるで音の出る荷物のように無視し、二人はぺこりと頭を下げた。
「えっとぉ、今回はすんませんした!だから此奴に鍵、返してやってくれよ」
「今回だけは、マキャじゃなくて暴れたの俺らだから。すまんかった」
 成る程、鴨葱というわけだが、残念なことに鍵を取り上げたのはその件ではないのだった。それにしても、なかなか良い友達である。僕はうーんと顎を掻きながら、マキャを見下ろした。マキャは後ろを向かされているので、その表情は見えない。
「何でここへ?」
「此奴がわあわあ泣いて煩ぇし」
正直に真相を話したランパスを、マンゴが慌てて殴り、言い重ねる。
「何てーか、見てらんないって感じで。この世の終わりみたく泣くから」
ふぅん、と僕は胡散臭そうな声を敢えてだし、マキャの前に回り込んだ。マキャは、涙と鼻水と涎を、迷子の子供のような顔の上で器用にミックスしていた。僕の姿を認めると、マキャは腫れぼったくなった目でジッと僕を見上げ、ばたつかせていた足をぴたりと止めた。
「鍵を取り上げられたの、そんなに悲しい?」
頷く代わりに、大粒の涙が下瞼に膨れあがった。見る見るうちにぽろりと転げ落ちて猿ぐつわに吸い込まれる。
「返して欲しい?」
こっくりと、今度は大きく頷いてみせる。涙はもう止め処ないようにぼろぼろと流れ落ち、鼻水がそれに追従した。その様子に思わず笑いを堪え、僕は最後の一押しを口にした。
「今度からは、ちゃんと一番にごめんなさいって言える?」
件の鍵を見せびらかしながら、首の後ろで結ばれた猿ぐつわの結び目を解いてやると、マキャは泣き声とも悲鳴とも付かない声で、言う、言いますごめんなさい!と叫んだ。よし、と僕が言うのと同時に、ランパスとマンゴがマキャの手を離した。その勢いで、わあああと泣きながら飛び付こうとしたマキャの顔を押し戻し、僕は手に鍵を握らせた。
「次はもう無いからね。あと罰としてうちの庭掃除してもらうからね」
 念には念を押し、ついでにちゃっかり罰なんかも増やしてしまう。コクコクと頷くマキャに、僕は漸く肩の荷を下ろして起ち上がった。
「君たちにはどうも。苦労かけるよ」
「まあ良かった良かったってコトで。なー」
腹を抱えて笑いながら、マンゴが、鍵を抱えて泣き噎ぶマキャの頭をポンポンと叩く。反対にランパスは、渋い顔をしながら無惨に涎と鼻水まみれになったハンカチを摘み上げた。どうやらそのハンカチは、ランパスのモノのようだった。




 赤く腫れ上がった瞼の下で、いつもの半分の大きさの目になったマキャが、まだスンスンと洟を啜っている。何度も手の甲で鼻を擦るので、鼻は鼻水でかぶれて真っ赤になっていた。それでもしっかと鍵を握って放そうとしないところが、何とも子供じみていて、哀れで、僕は込み上げる溜息を幾度か呑み込んだ。
 ランパスとマンゴが帰ってしまうと、家の中にはマキャの泣きじゃくりだけが大きく響いた。それを聞きながら眺めていると、流石にこのまま独りで家に帰すのは、可哀想な気がして、今夜は泊めてやることにしたのだが、よもや僕の寝台に潜り込んでくることは想定外だった。まるで本物の子供だ。泣き暴れすぎて火照った頬や息も、全身にひしとまとわりつく僕より大きな身体も熱く、僕は思わぬ寝苦しい夜を過ごすハメになり、またも溜息を吐こうとし、慌てて呑み込む。
 しょうがないなあと思いながらも、どこからか忍び込んでくる幸福感に困惑しながら、僕は眠りに就いた。


 そう言えばマキャがテーブルの上の運行日誌に全く反応を示さないこととか、そう言えばマキャは字が読めない筈だよねとか、そう言った諸々に冷静に思い至り、全てが僕の取り越し苦労でマキャがもしかして勝手に得しただけでは、と気付くのは、翌朝のことである。




鈍×鈍

20071002



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