散髪日和
あれから二度目の春を迎えて、夏になろうという今日この頃、非番を良いことに昼間っから涼しい一階の居間の窓際で、酒瓶抱えてごろごろしていた僕に、彼は突然鋏を差し出した。
「何?僕達の赤い糸は切れないと思うよ?」
「そりゃあそうだろう。そもそも結ばれてないから切りようがない」
「…言うようになったじゃないか」
少しむくれてみせると、彼はフン、と鼻で笑った。最近少し生意気だ。
「明るいウチからアル中の冗談に付き合ってられない。暇そうだから、頼みが有るんだ」
「頼み?珍しいな。去勢するの?」
「阿呆か。暑くて鬱陶しいから、襟足の髪を切ろうと思っただけだ。お前が嫌ならランパスに頼みに行くから」
最近、生意気なだけじゃなく、妙な知恵まで付け始めたので、それ以上逆らわないことにした。はいはいと酒瓶に別れを告げて、鋏とこんにちわを交わす。
「どうせなら、天気も良いし庭に出ようよ。椅子、持ってきて」
「…良いだろう」
彼は神妙に頷いて、台所から椅子を一脚と手鏡を持って、庭へと出ていった。僕も後を追う。
嘗て僕の家の庭は、春に芽吹いた雑草が夏前には、悪魔的な勢いと高さで以て占拠していたものだが、今は彼が手入れを怠らないため、綺麗に地面から十五センチの丈を保っている。そんな中の日溜まりに彼は椅子を置いて、コレで良いかという風に顎を上げた。
蜂蜜色の髪の毛がふわふわと柔らかそうに風に揺れていて、切ってしまうのが少しだけ勿体ないような気もした。が、ここへ来てから一度も髪を切っていなかった彼の髪は、僕らの種族には珍しく伸びるのが早いようで、肩口を越えて一寸したロングヘアになっている。確かに暑そうだった。
「上の服、脱いじゃってよ。どうせ髪の毛まみれになるんだから」
「変な目的はないだろうな」
「無いってば。信用無いなぁ」
「実績がモノを言うんだ。実績が」
言いながらも彼は割合素直に上衣を脱いで、開いていた居間の窓に引っ掛けた。相変わらず良い体格をしている。図体ばっかりこんなに育って、と天国のパパはさぞ嘆いていることだろう。
「さ。お客様、こちらへどうぞ」
彼を椅子に座らせて、僕は背後へ回った。手に髪を取って、少し指で梳く。柔らかい、細い髪だ。首の付け根から髪を持ち上げると、成る程首筋にはうっすらと汗を掻いて、髪が幾らか張り付いていた。
「どのくらい切るの?」
「ばっさり」
「了解」
しゃくん。鋏を入れる。櫛など使わない。目分量で適当に髪を取り、襟足に沿って切り落とす。しゃくん、しゃくん、と音を立てて、鋏が滑る。彼は手鏡越しに、僕の手付きを胡散くさげに見ている。
「横は?」
「横は良い。後ろをもう少し短く」
「まだ切るの?いっそ刈り上げる?」
首筋に落ちた髪の束を払いながら、すこうしだけ指に項を辿らせる。汗ばんだ感触の皮膚の下に、太い血管が脈打っている。
「刈り上げは却下だ。耳は切るなよ。あと変なとこさわんな」
「解ってるって。髪の毛払ってるだけでしょ。最近少し、自意識過剰だと思うよ?そんなんじゃ、まともな社会生活が送れないよ」
「…せめてその手を退けてから言ったら、どうなんだ。最近厚顔無恥に拍車が掛かってるんじゃないか。勤めをクビにならないのが前から不思議だ」
「僕みたいなまじめな働き者は、そうそう居ないからね」
減らず口を叩き合いながら、僕は縦に鋏を入れて、上の方も 切り落としていく。丁度小さい女の子のおかっぱのような髪型だ。
「前髪は?」
「少し、頼む。少しだぞ」
「解ってるって」
前に回ると、上目遣いに彼が僕を睨んでいた。口を少し尖らせ気味にする仕草が、年に不相応で笑いが込み上げる。前髪を少し指で摘んで、少量ずつ鋏を通していく。
彼は薄目で、時折短い髪片が当たるのか目を瞑りながら、鏡をじっと凝視し、僕が鋏を下げると同時に、頷いた。
「満足して頂けましたでしょうか、お客様」
「…良い」
鋏をスラックスのポケットに突っ込んで、肩だの頸だの背中だの、に張り付いた髪を払ってやる。彼も顔や胸や、スラックスの上に散らばった髪を立ち上がって払い、ついでに俯いてかしがしと頭を掻き回した。はらはらと髪が零れ落ちる。
「躯が髪の毛だらけで気持ち悪い」
この陽気の中、彼の汗ばんだ背中や頸には払っても落ちない髪が張り付いて、見ているこっちが痒くなりそうだ。かく言う僕の手も、汗ばんでいるのでしっかり髪まみれだ。ちくちくする。柔らかいと言えども芯は強い。
「少し、待ってて」
僕は庭の隅へと駆けた。ホースを取り出し、蛇口を捻る。勢い良く水が噴き出したのを、僕は彼へと向けた。
「!何しやが…冷たいだろう!」
「あはは。でも気持ち良いでしょ。これで洗い流しちゃいなよ」
「ズボンが濡れるッ!うわっ」
逃げる彼を追い掛けて、頭に命中させた。すっかりびしょ濡れだ。
「あっははははは!」
頭から背中から、水を浴びて、彼は諦めたのか逃げる足を止めて、今度は猛然と僕の方へ向かってきた。
「うわ、やば?」
慌てて方向転換を謀ったけれど、長いホースを掴まれて、あっさりホースは敵の手に落ちてしまった。来る、と思って咄嗟に顔を背けたが、水流は来なかった。あれと目を上げると、彼は澄ました顔で、自分自身の頭から水を被っていた。何だ、と丸めていた背を伸ばした瞬間、僕は顔面に凄まじい水圧を受けた。
「ぶはッ」
「ハッハッハッハ!バーカ」
びしょびしょの彼が、可笑しそうに笑って、ホースの水を操っている。僕はその水流をまともに浴びてしまい、苦笑いする。
「どうだ」
「冷たいよ。それに痛かったじゃないか。酷いな。この顔だって大事な商売道具なのに」
「大丈夫だろ。どうせ鉄面皮だ」
彼は僕に逆襲できたのが、酷く嬉しいらしかった。いつになく楽しそうに笑っている。最近、彼は良く笑う。頭から滴る水を拭いながら、僕も俄然やる気を出した。さっき彼がしたのと同じように、彼に突進し、ホースを奪おうとしたが、敵もさることながら、奪い合いになった。至近距離で互いに水を被りながら、ついに僕が勝利を収めようとした瞬間。
「何してんのよ」
「え?」
声のする方を僕らは同時に振り向いた。そして同時にホースの先が声の方を向き――庭先に来ていたボンバルリーナにソレが直撃した。びしゃああっと派手な音を立てて、彼女に命中する。
「やば」
「不味い」
彼と僕は仲良く同時にホースから手を離し、振り返ることなく駆けだした。そして垣根を飛び越え、空き地を突っ切ろうとする所で、僕らは揃ってボンバルリーナの投げた投げ輪に足を掬われ、捕まった。
ずざぁ!と裸の上半身から、彼が地面にダイブする。僕は辛うじて踏みとどまり、後ろを恐る恐る振り向いた。一体、どこから、投げ輪など持ち出したのか、いつも持っているのか、など聞くこともできない。そこに居たのは妖艶な微笑みを浮かべた水の滴る絶世の美女だった、ということだけが、僕らの持ち得た最後の感想だった。
「もう、二度とお前に散髪は頼まないからな」
大層派手に擦り剥いた胸と腕の手当の最中、彼はぼそりと呟いた。そんな決心、するだけ無駄だよ、とは言わなかった。けれど、来年か再来年、また彼の髪を切ってやろうと僕は内心でほくそ笑んだ。
終
20030902
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