晩春の子供 (1)


 デュトロノミー様の教会の地下には、古い書庫がある。
あたしは、本なんかちっとも読みやしないんだけど、彼はいつも、埃を被った黴臭い頁を、一枚一枚、丁寧に捲っている。もう外で追い駆けっこを楽しむ歳じゃないということには、あたしも賛成だ。でも、だからと言って、こんな陰気くさい所に閉じ籠もらなくても良いと、あたしはほんの少し、拗ねている。

 あたしは美人だ。まだ、13歳だけれども、大人達はそう言って目を細める。幼馴染みの男の子達も、時々、あたしを眩しそうに見ていることを知っている。あたしは、他の女の子達よりも、すこうしだけ成長が早い。胸も結構あるし、そろそろウェストだって括れが出てきた。顔だって大人びてる、とよく言われる。莫迦な大人は、とても解り易い視線をあたしに浴びせかける。その中には、実のの父さえも居る。莫迦な男。莫迦な大人。苛々する。
 まるで、あたしの腹や胸の膨らみの中に、沸騰寸前の鍋が入っている。あたしは彼のように本を読まないから、それを巧く言い表す言葉を知らない。彼は言葉をあまり沢山は知らないあたしを、まるで莫迦みたいに扱う。あたしは、確かに莫迦だ。莫迦だから、いつかは腹や胸の鍋の熱湯を、噴き零れさせて、あたし自身をめちゃくちゃにしてしまうだろう。だから鍋が噴く前に、あたしはそれが一体あたしの何なのかを知らなければならない。そんな確信を、あたしは持っている。けれどもそれがいつのことなのか、それについては全く判らない。
 その沸騰寸前の鍋の、蒸気は、あたしの心と躯を、夜の世界へと飛び込ませた。最初は幼馴染みのマンゴジェリーに誘われた。でも二度目からは、あたし独りの意志だ。けばけばしいネオンサインの直ぐ隣を、暗い暗い闇が満たしている。姦しくけたたましい喧噪と騒擾も、身を浸せば静寂に変わる。その中で、あたしは、一層大人達の視線を惹き付ける。欲情、嫉妬、支配欲、憎悪、憧憬。莫迦な大人達。莫迦なあたし。あたしは、毎日、視線を浴びて、有頂天になりながら、理由の解らない吐き気を堪えている。



 「まだ、こんな所に居たの?」
あたしは出来るだけ大袈裟に、呆れた声をあげた。大分前に、深夜二時の鐘を聞いたというのに。
「居て悪いか。お前こそ、その格好でこんな時間まで、どこをほっつき歩いてるんだ」
 彼はもう後は寝るだけ、と言う格好で、大きな机に肘をついて、古い活字を追っていた。対するあたしは、彼の言う通り、派手なお化粧と娼婦のような格好で、盛場を彷徨いて来た後だった。
「見もしないで、何で解んの?」
「…匂いで解る。香水、つけてるだろ。つけすぎだ。クサいから側に寄るなよ」
彼は顔も上げないで、面倒くさそうに言う。あたしは腹を立てた振りをして、ワザと彼の側に寄った。
「酷いわ。良い香りじゃない。アンタみたいなお子様には、解らないのよ」
「解ってたまるか。近寄るなって言ってるだろう。鼻が曲がる」
「曲がってないよ」
 とうとう、彼が顔を上げた。祭壇の上の、古びた金製品のように、濁った、淡い金色の髪を掻き上げながら、彼はあたしを睨む。片目は髪と同じ様な色なのに、もう片目は血のように紅い。あたしは、この紅い方の目が好きだ。漸くあたしに注意を向けてくれた彼に、あたしは満足する。
「だって、ちっともこっちを見てくれないから」
「見なくても解る。莫迦な不良娘の夜遊びだろ」
鬱陶しそうにしながらも、遂に頁に栞を挟み、本を閉じる。あたしは、嬉しくて堪らない。
「ねぇ」
 彼はあたしの相手をしないと、いつまで経っても、あたしが家に帰らないと言うことに気付いたらしく、何だ、と本を棚に戻しながら、返事を返してくれた。あたしは机の上に、実に挑発的に脚を組んで、腰掛ける。
「あたし、美人でしょう」
 それで、と言いながら、彼はもう一度椅子に腰を下ろして、机上のあたしを見上げた。
「あたしのこと、好きじゃない?」
「嫌い」
間髪入れず、彼が答えた。もの凄く嫌そうな顔をしている。
「ケバイし、くさいし、鬱陶しい。用事がないなら、帰れよ」
「そんなに言わなくっても良いじゃない。何か、余計に帰りたくなくなった」
あたしはぷぅ、と可愛らしく頬を膨らませて、見せた。けれど彼は、つれない。
「心にも無い癖に」
「ばれたか」
ぺろりと舌を出して見せる。
「でもね、こうして聞くと、大抵の男はあたしのこと、好きって言うよ。抱き締めたりとか、して。スケベな奴なんて、胸掴もうとしたりね」
「そんな阿呆な格好してるからだ。ああ、どうせならお前、莫迦なチンピラか変態の爺ィに犯されて来い。そうしたら少しは莫迦も収まるだろ。一回痛い目に遭うべきだな」
 あたしは彼が言い終わらないウチに、腹を抱えて笑ってしまった。実は、あたしもそう思ったりすることがある。
「お前、一寸おかしいんじゃないか」
 彼は不気味そうにあたしを見上げて、言う。あたしは可笑しくて、可笑しくて、笑い過ぎて机の上にひっくり返ってしまった。
「あー、可笑しい」
「…お前、酔ってるだろ。帰れ」
とうとう彼は命令口調になった。あたしは上半身で机に寝転び、脚をぶらぶらさせながら、彼をそっと盗み見た。彼は口調とは裏腹に、少し真面目な顔になっている。にまり、と笑う。
「起きあがれない」
 あたしは中空に両手を突きだした。はぁ、と彼が聞こえよがしな溜息を吐く。彼は立ち上がって骨っぽい手で、あたしの手首を掴んで肩が抜けるくらい思い切り、引っ張ってくれた。
「きゃあん」
「っな」
 勢いのまま、彼にしがみついた。彼がぎょっとしたように後退さる。けれどもあたしは彼の首っ玉にしがみついて、彼を放さなかった。
「放せよ、莫迦!この酔っ払いが」
「いーやーよ。放さない」
耳元で囁いて、彼を抱き締める腕に、益々力を込めながら、あたしは、確かに酔っている、と妙な納得をした。そして同い年の彼の背が、あたしよりも、1インチくらいの差だけれど、低いことに気付いた。
 途端、あたしの中で沸騰しかけているお鍋が、急に沸点を超えて吹き零れそうになって、あたしは折角腕の中に閉じ込めていた彼を、突き倒してしまった。
 どさっという音の直後、ゴン、と鈍い音がした。あたしは呆然と、自分の手を眺めた。
「いっ痛ぅ――…お前、なぁ!」
 尻餅を付いた上に、頭を本棚の角にぶつけたらしい彼は、少し涙目になっている。相当痛かったのか、怒鳴る寸前でまた、ぶつけた所を抑えて俯いてしまう。あたしは慌てて彼に駆け寄った。
「ゴメン、大丈夫…なワケ無い?生きてる?痛い?歩ける?」
「っるさい!とっとと帰れ!」
 彼は怒り心頭、と言う表情で、手振りさえ交えながら、扉を指さした。あたしも、流石にこれ以上彼を怒らせたくはない。ゴメンねーと手を振り、そそくさと書庫を出て、階段を昇る。

 人気のない教会の礼拝堂を抜けて、外に出た。これから来る夏を匂わせるかのように、建物の隙間の空が、もう白っぽく霞んでいた。夏の夜は、今日よりもっと短い。
 深閑と澄んだ空気が、火照った肌に気持ち良い。夜通し遊んで、疲れていたのだと言うことに、今気付いた。自覚した途端に躯が重くなって、眠気を感じる。
「帰ったら、直ぐ寝よ」
 独り語ちて、あたしは、家路に着く。そうして、寝て、目が覚めたら、もう一度彼の所へ謝りに行こう、と思い付いた。それは随分と良い考えに思えた。あたしは躯に溜まった鈍い重みを振り払うように、くるりとその場で一回転をして、そのまま自宅まで走ろうと、意味もなく決心したのだった。



20031004初書
20040113改訂
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