晩春の子供 (2)


 ああ、そう言えば昼のうちに、謝りに行くのを忘れていた、と思い出したのは、翌日の夜になってからだった。尤も昨日は寝て起きたら夕方になっていたのだけれども、あたしは、思い出すと突然実行したくなって、がたりと音を立てて立ち上がった。その様子に、今日も、相当酔っている、と自分で頷く。隣でつまらない冗談を言っていた男が、どーしたのぉ?なんて甘ったれた声を上げる。あたしは、ニッコリ笑って、一寸用事を思い出したの、と男に囁く。また、今度ね。そう言うと、男は残念そうにしながらも、ここの勘定を持ってあげると申し出た。当然だ。自慢ではないが、否、自慢だが、あたしは夜の街で自分の金を使ったことは、一度もない。
 酔いで火照った肌に、其処彼処から視線が突き刺さる。あたしはにんまりと口許を弛ませた。大人の男は莫迦だ。だけれども、その男共の視線ほど、気分の良いモノはない。上等の酒や香水よりも、煙草よりも、あたしを一番酔わせてくれるのは、その酒臭く荒っぽい、陰鬱な視線だ。あたしは誰よりも、いい気になれる。舐めるような、或いは触れるような視線。女達の睨め付けるような鋭利なそれすら、肌に気持ち良い。細いハイヒールの踵をわざと強く打ち付けて、跫音高く、まるで女王様のように、胸を張ってあたしは闊歩する。
 ちりちりと、鋭い痛みに似た感覚が、髪を上げた項や頚、頬紅を暈かした頬、大きく開いたワンピースの背中に走る。


 彼は、そこには居なかった。地下書庫に明かりはない。誰かが居る気配もしなかった。蝋燭は疾うの昔に火を落とされて、冷え切っている。昨日の今日で、闖入者を警戒して自室に籠もっているのか、珍しく遊びに出ているのか、それとも単に寝ているのか。
 落胆しつつ、あたしは暫しそこに佇んだ。黴臭く湿気を帯びた部屋には、天井に近い壁に一箇所だけ窓がある。その明かり取りの薄いスリットのような窓から照らされる、僅かな光に、部屋の埃がきらきらと舞って帯を成している。それが綺麗だった。冷たい空気がいつの間にか、高ぶっていた膚を静まらせ、体内で暴れていた酒精を消し去っていた。
 あたしには理解できない、判読不能の書物の山が、真っ黒い影になっている。こんなモノの、どこが面白いのだか。
 あたしは部屋と同じように冷え切った、分厚い本の背表紙を、指で辿った。棚は、薄らと、埃がやわらかい膜を作っている。彼が出し入れしたらしい本の箇所だけ、その膜は途切れて掠れている。
 『Politics as a Vocation』
こんな訳の分からないモノの、どこに、あたしを無視させる程の魅力があるのだろう。
「解らないわ」
「何が」
 独り言のつもりで呟いた言葉に、低く応じる声が聞こえた。振り向くと、彼が昨日の夜と同じ寝間着姿で燭台と本を手に、呆れ顔で立っていた。
「今日は、此処へは来ないのかと思った」
「ガキ共が寝るまで、部屋を離れられないだけだ」
「へぇ、あのイイコのマンカスが?」
「タガーが来てるからな」
 嫌そうに彼は顔を顰めた。彼は子供の世話が嫌いらしいけれど、デュトロノミー様は何故か、彼に他の子供達の世話を焼かせたがる。今、この教会にいる子供は、彼と二つ下のマンカストラップの二人だ。二人はデュトロノミー様に育てられている孤児で、互いに血縁関係はない。こういう時、童話か物語なら似た境遇の者同士、支え合って仲良くするのだろうけれど、現実はそんなに上手くは行かないものらしい。
 タガーは、数年前にこの辺りに越してきた子供だ。同い年のマンカスと仲良しで、それはそれは元気の良いやんちゃ坊主だ。イイコで大人しかったマンカスが、最近はタガーに引き擦られてか、良く笑いながら走り回っているのを見かける。
「アレが来ると、無駄な仕事が増える。ろくに本も読めない」
 傍迷惑な奴だ、と彼は嘆息した。
「でも子供って、元々そういうモノだわ。無邪気で可愛い代わりに、凄く無神経で自分勝手なのよ」
そういうと、彼は面白そうにククッと喉を鳴らした。
「成る程。自分のことだから、良く解るという訳か」
「あたしは、子供じゃないわよ!」
 けれども彼はもう、興味なさそうにあたしを無視し、机の上で本を開き始める。
「一寸、折角来たのに、あたしのこと無視しないでよ」
「煩い。さっさと帰れ」
「ね、あたし謝りに来たのよ」
 すげない彼の言葉を遮って、あたしは彼の手元に覆い被さるように、上体を傾けた。彼が広げていた本には、文字の代わりにあたしの影が広がる。まるであたしの影に、文字が溶け込んだようだった。彼がじろりとあたしを睨み上げる。彼の髪が蝋燭の灯火を弾いて、薄明と光っている。
「何を」
「昨日、思いっきり突き飛ばしちゃったでしょ。まだ、腫れてるんじゃないかと思って」
彼は、不味い料理でも口に詰め込まれたような、げんなりした表情を浮かべた。
「まだ痛い?」
「…痛くないとでも?謝って欲しくなんか無いから、帰ってくれ」
「んもゥ、だからァ、ゴメンってェ」
彼の額をつつきながら、あたしは片目を瞑って見せる。
「気持ち悪い」
 ぴしゃりと彼が言った。蠅でも追い払うようなぞんざいな仕草で、あっちへ行けとやる彼に、あたしもムキになって、口先を尖らせる。
「じゃあ、黙ってるから、じっとしてるから、此処にいて良い?」
疑い深い眼差しで、彼はじぃとあたしを眺め回した。そして、首を横に振る。
「駄目だ」
「何でよ。ケチ。意地悪」
半眼のまま、彼は勝ち誇った口調で、言う。
「ほら、もう喋ってるだろ。お前が黙るなんて、無理だ。出来っこない。天地が逆さになっても不可能だ」
 むぅ、とあたしは口を噤む。それって、なんだか卑怯だ。そう思ったけれど、話の流れ上、これ以上口を利く訳にもいかない。あたしはむっつりと黙り込んで、恨めしく彼を見詰めた。
「何だ、やれば出来るじゃないか。何事も努力だな。努力ついでにそのまま黙って家帰れ」
 ムキになってきているのか、珍しく彼まで赤裸様にあたしを挑発する様なことを言う。あたしと彼は、互いにひくひくと頬を引き攣らせながら、口元に笑みを浮かべて暫し、無言で対峙した。

 どのくらいそうしていただろうか。愛想の悪い、意地悪く見える綺麗な顔。左右色違いの眼が、あたしを映している。
 つと、睨み合いから視線を逸らして、溜息混じりに彼が立ち上がった。
「今日は、俺ももう寝るから、お前も早く帰って寝ろ」
 それで良いだろう、と彼が眉を顰める。自分が折れなければ、このままあたしが居座り続けて、埒が飽かないとでも思ったのか。彼はうんざりした様子で、携えて来たばかりの本を重ねて取り纏めている。
「そんなに、あたしが側にいたら、嫌?」
 あたしは別に、このまま一晩睨み合っても良かったので、少し傷付いた声を作ってみる。間髪入れず、嫌、と彼は言った。本当に即答だった。傷付いた演技に、少しでも躊躇ってくれれば、あたしだって一寸は妥協したのに。急激に込み上げてきた怒りに、あたしは思わず何よ、と怒鳴った。
「馬鹿っ、ガキ共が起きるだろ」
「煩いっアンタなんて本棚の下敷きになっちゃえば良いわ」
 彼の焦った顔が、余計癪に障る。あたしはくるりと踵を返して、後ろも見ずに地下書庫を飛び出した。ガツガツと、石造りの廊下に、ヒールの音が響いたけれど、彼が追ってくる気配は無い。地下書庫を飛び出し、教会を出て、けれども家には向かわずに、あたしは闇雲にそこいらを歩き回った。

 空は曇っていて、月も星も見えず、生温い風がべたべたとあたしの躯にまとわり付いて、酷く気持ち悪く感じる。屋根の低い住宅街をどんどんと抜けて、水路沿いの堤防に出た所で漸く腰掛ける。澱んだ黒い水が、ゆらゆらと白い街灯を反射していて、あたしはその水を覗き込んだ。そこには当然あたしが映っていて、ゆらゆらと揺らめきながら、拗ねた顔でじっとあたしを見返していた。腹の中で、沸騰した鍋から次々立ち上る蒸気が、出口を探して右往左往している。その熱の塊を吐き出そうとしたが、吐き出せず、あたしは徒に水路にえづきながら、唾液と胃液を口から、鼻水を鼻から、涙を目からぼたぼた垂れ流した。まだ少し酒精も混じっていたかもしれない。
 一体、これは、何だというのだろう。顔の穴という穴から出せる、色々な液体を出し尽くすと、あたしは手の甲で口と鼻を拭いながら、ぺっと最後の唾液を吐き捨てた。腹の中の熱の塊。肩で息をしながら、あたしは考える。考えるけれど、解らない。解らない。解らないあたしは、莫迦だ。
「…何だって言うのよぅ…あたしが、何したって言うのよ…」
 堤防を背に、地面にへたり込んで、あたしは呟いた。雲しかない夜空を見上げる。つん、と鼻の奥に胃液の酸っぱい臭いを感じた。お酒でも、煙草でも、夜の喧噪でも止まない、熱い沸騰水が、あたしの何かを突き上げる。けれどもソレが一体何なのか、あたしにはちっとも解らない。

 唐突な虚脱感に襲われる。
すとーんと、空が一転果てのない空洞になったようだった。
あたしは、空に吸い込まれるように、ふらふらと腰を上げた。



20031102初書
20040113改訂
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