晩春の子供 (3)
一瞬のことだった。頬で感じたのは、痛みというよりも鋭い熱さだった。
あたしは自分の部屋へ後一歩の所で、酔い潰れかけた糞親父に見つかって、張り飛ばされたのだ。狼狽えた母が、父の後ろで蒼白になって何かを喚いている。痛みは遅れてやってきた。悔しさと、痛みで、泣くつもりも無いのに勝手に涙が零れ落ちる。それをぐいと拭って、あたしは母に背中からしがみつかれている父の頬を、思い切り殴り返した。
「リナっ!止めなさい!」
「てめぇ、親に向かって何しやがるんだ!この!離せっ」
手のひらに、ぬるぬるした脂が着いて、酷く気持ち悪い。赤黒く染まり、脂の浮いた父の顔は、例えようもなく醜悪だ。あたしは無言でハイヒールの爪先を、弛んでぶよぶよの父の腹にめり込ませた。小動物が潰れた時のような声を上げて、父は他愛なく床に沈む。腹を押さえて、酒混じりの吐瀉物を撒き散らした。
「何てことを…」
饐えた悪臭が立ち上る中、母は呆然と立ち竦んで、あたしを見ている。頬に幾筋も涙の跡を作って、あたしを見ている。けれども、あたしは彼女にかける言葉を、唯の一つも持ち合わせてはいない。ただ、流石に居たたまれない思いに駆られ、自室へと逃げ込んだ。
内側からしっかりと鍵を閉め、その心配はないと思うが、念のために父が鍵をこじ開けないよう、扉の前にチェストを移動させる。化粧を落としたかったが、浴室へ行くには部屋を出なければならない。仕方なく着替えだけを済ませて、あたしは寝台に潜り込んだ。ハイヒールを脱ぐと、足がすうとして気持ち良い。安物のハイヒールは、爪先や踵が酷く痛む。かと言って、上等のそれはあたしの小遣いでは、手が届かない。躯を丸めて足をマッサージしていると、扉の向こうから、まだ怒鳴り散らす父の声と、宥めながら汚物の始末をしているらしい、母の小声が漏れ聞こえた。
左官だった父が、酒浸りになったのは、五年前に休戦が結ばれた、あの戦争の頃からだ。あたしが物心着いた時には、既に父が酒を飲まない日はなく、仕事も辛うじて行く程度で、あの頃から家計の殆どは母が稼いでいる。今では一日中酔いっぱなしで、正気の時はない。荒れた胃から発する臭い息を吐きつつ、どうしようもない繰り言や恨み言ばかりを反芻し、過去ばかりを悔やみながら過去に溺れている。早く、死ねばいいのにと何度思っただろう。死ねば、少なくともそれ以上、父を憎まずにいられる気がする。
どしん、と床が響いた。父が転けたらしい。また、下の階から苦情が来るだろう。そのまま、死んでしまえ。あたしは声に出さずに、呟いて、目を閉じた。
目を醒ますと、いつものように、もう日は高くなっていた。チェストを退け、そっと部屋の外に出ると、昨夜父が吐瀉した床は石灰が撒かれて染みになっていた。奥の部屋からは途切れがちに大鼾が聞こえる。母は、もう疾うに働きに出ているのだろう。あたしはそっと浴室へ向かった。
鏡に映ったあたしの顔は、笑い出したい程酷い。マスカラが流れて黒い縁になり、頬紅は片方だけ消えてしまっている。代わりに父に殴られた痕がくっきりと青黒く、痣になっていた。触るとじんと痛む。あたしは顔にコールドクリームを塗りたくり、寝間着を脱ぎ捨てて、頭から熱いシャワーを浴びた。項や胸元に落としていた香水が、湯に溶けだしてふわりと匂う。躯の奥に澱のように溜まっていた疲労感が、綺麗に流れ落ちていく。躯に石鹸を擦り付け、髪も洗った。浴室を出ると、奥の部屋からは、まだ高鼾が聞こえていた。
ダイニングで母の作り置きの遅い朝食を済ませて、あたしは外に出た。久しぶりの、昼の外出だ。薄青い空に、明るい太陽が眩しい。側を通り過ぎる時、ぎょっとしたように人があたしを見るのも、心が浮かれた。あたしの頬の、青痣に驚いているのだろう。あたしは仄暖かい陽気任せに、ふらふらと歩き出した。
教会の、祭壇の裏手にある地下書庫への階段の手前で、あたしは少しの間、立ち竦んだ。どこへ行くという気もなかったけれど、脚が勝手に此処を目掛けていた。訳の解らない激高に駆られて、彼の前を飛び出したのは、つい数日前だ。流石に、まだ顔を合わせるのはバツが悪い。ガキ共の世話に追われて、書庫には居ません様に、と内心で柄でもなく祈りながら、あたしは階段に足を踏み出した。本が読みたくなった訳ではない。ただ、冷え切った石壁で囲まれたここなら、誰にも邪魔されずに、静かに考えることが出来そうだと思ったのだ。何を考えるか、迄は考えていなかったが。
案の定、書庫は無人だった。月光より日光の方が明るいらしく、全体的にぼんやりと薄明るい。外の暖かい空気よりも、格段に冷たい、埃っぽい空気が、ぴんと張りつめている。きらきらと舞う埃の粒は、やはり綺麗だ。あたしは、彼がいつも本を読む時に座っていた、古い大きな椅子に腰掛けてみた。座面はビロードだが、疾うに毛並みは摩滅している。簡素で、頑丈な椅子だ。背凭れに凭れて、尊大に脚を組んでみる。落ち着かない。靴を脱ぎ落とし、両脚を抱えて座ると、何だかほっとした。両膝に顎を埋めて、溜息を吐く。机の上に、自分で綴じたらしい帳面が、雑に置かれているのを見つけた。何の気無しに、パラパラと捲ってみる。神経質そうな、細身の筆記体で、酷く読み難い。字自体は整っているのだが、筆記体は半分くらいしか理解できないあたしには、幼児の落書きとさして変わらない。直ぐに嫌になって、あたしは帳面を閉じて、視線を上げた。
上げた視線の先には、彼が居た。否、居たというか、丁度踵を返して去ろうとする背中を、あたしは見たのだが、彼が階段を昇るのよりも、あたしの声の方が、少しだけ早かった。あたしはさっき彼がいませんようにと祈ったのも忘れて、彼を呼び止めた。
「一寸!待ちなさいよ!」
彼は、一瞬立ち止まると、実に嫌そうに、ゆっくりと、まるで背後にお化けでもいるみたいに、あたしの方を振り向いた。
「昼間なのに、暇なの?」
「別に俺にだって、自分の時間があっても良いだろ」
「それもそうだね」
あたしは彼に椅子を譲るべく、立ち上がって、机の脇に立った。けれど彼は一向にその場を動かない。あたしが居るのが、そんなに嫌なのかと思ったが、彼の表情はどちらかと言えば、嫌がっているよりも戸惑い気味に見えた。
どうしたの、と問おうとして、気付く。彼は、あたしの頬の痣を見ているのだ。
「それ、また親父さんか。お前も懲りないよな」
「フフン。懲りないのは、あっちよ。莫迦だから、あいつ。仕方ないわ」
「どっちもどっちだろ」
「まあね」
漸く、彼はあたしの側を通って、椅子に腰掛け、持って来た本ではなく、帳面を開いた。丁度良いので、聞いてみる。
「ねえ、この帳面、何が書いてあるの?」
「さっき、読んでたのじゃなかったのか」
訝しげに、彼があたしを見上げた。
「筆記体は読めないの」
素直に白状する。彼は一寸眉を顰めたが、簡潔に内容を教えてくれた。
「覚え書きだ」
「何の?」
「本の」
「何だ、つまんないの。日記だったら、頑張って読もうと思ったのに」
「日記はつけない。面倒だ。お前、つけてるのか?」
まさか、だ。肩を竦めてみせる。あたしに、日記を書き続けられるような、辛気くさい根気があってたまるものか。そう言うと、彼は自棄に納得したように頷いた。そんなに納得しなくても良いのだけれど。もし、あたしが日記なんてつけていたら、毎日毎日、ばりぞーごんだらけに決まっている。そんな日記をつけるくらいなら、毎日のばりぞーごんは、毎日少しでも忘れていった方が、良いと思うのだ。
「ばりぞーごんじゃなくて、罵詈雑言だ。…殴られたことも忘れられるのか?」
彼は一寸意地悪げに目を細めた。あたしも、すまして答える。
「ちゃんと殴り返したし、蹴りも入れたから、それに関してはチャラよ。早く死ねばいいとは、いつも思うけど」
「親父さん長いことアル中なんだろ。だったら、もう直ぐなんじゃないか」
「あたしもそう思ってたんだけどさ、でも結構しぶといの」
「そんなもんなのか」
「だって、もうああなってから十年以上経つもの。最近じゃ、酔うとあたしや母さんのことも判らない時だって、あるわ。でもまだ生き汚く、おめおめと生きてるのよ。醜悪だわ――いっそ、あたしが殺してやろうかしらって思うこともあるのよ。アンタは、そんな風に思ったこと、無い?」
彼に水を向けると、彼は斜めに顎を引き、薄く眦と口元を歪めた。彼は元が綺麗な顔なだけに、こういう表情は一寸した凄みが出る。
「そうだな。俺の数少ない読書時間を減らしに来る莫迦女とか糞ガキ共だったら、殺しても良いかもな」
「殺されてあげようか?」
彼は、いつもの冗談か、皮肉のつもりで言ったのだろう。けれどあたしは、反射的に、そう言っていた。薄ら笑いを作っていた彼の顔が、キッと引き締まる。その彼の耳元に屈み込むようにして、もう一度囁いた。
「殺されてあげる。アンタに」
ぶくぶくと、腹の底から熱いものが沸き立つのが解る。膨れ上がる蒸気に圧されるように、あたしは彼の両の手を取り、椅子の肘掛けに押さえ付け、額にキスを一つ落とす。
「…おい、」
彼とあたしでは、まだ、あたしの方が力は強い。直ぐに抜かされて、二度と追いつけなくなるのだろうが、今なら、まだあたしに利がある。今しかないと、腹の中で沸きたくる熱い液体が、あたしを動かす。
あたしは、じっと、彼を見た。彼は、怯んではいない。必死にあたしの手の中から、自分の腕を取り返そうと藻掻いている。可哀らしい、と思った。蹴りを繰り出そうとした彼の脛を軽く蹴り返して、あたしは彼の膝の上に躯を乗り上げた。
「――冗談、だろ」
「あたしじゃ、不満?」
「不満とか、そう言う問題じゃない」
「だったらどういう問題?どうせ、あたしのことなんて、嫌いなんでしょ。別に好きになって欲しいとかじゃないよ」
椅子は大人用だ。並んで二人は座れないが、体重を支えるのならば問題ない。あたしはにじにじと彼の膝上によじ登り、しっかりと座り込んだ。
「嫌い。だから嫌だし、第一まだ…」
彼が言い淀んだ。まだ?と促し、あたしは片手で彼を押さえたまま、片手を彼の胸の上に置いた。薄い胸だ。掌の真下直ぐに、肋骨の感触が生々しく感じられる。彼は空いた手で、慌ててシャツの胸元の釦を掴み込んだ。あたしに無理矢理脱がされるとでも、思ったのか。そんな気は無かったけれど、でも、それも、悪くない。あたしはニンマリと笑う。
「…まだ、ガキじゃないか!俺も、お前も」
「発情期のこと言ってるの?あんなの来ても来なくても、一緒だってさ」
「そう言う意味じゃ無くってだなァ!」
いつも、あたしのことなど、字も碌に読めない子供と莫迦にしていた彼が、今は形振り構わぬ体で抵抗する様が、随分と子供に見える。
「もう、観念して」
普段は細い柔毛で覆われているが、今は怒りのせいか、ピンと立ち上がり全体的に逆立ち気味の彼の耳に、フゥと息を吹きかけて、彼の頭をかき抱いた。耳の先端に噛み付いてみる。薄い軟骨が、歯に当たる。膝立ちになったせいで、彼の息が、丁度胸にかかって熱く感じられた。
「…ね?」
彼の腕がやがて、緩慢に、少し震えたりなんかしながら、あたしの腰をそぉっと抱きしめた。
天井近くのスリットからの光の射し込み具合は、まだ十分に明るいが、時間的にはもう夕食近くなっているらしかった。教会のものだろう、夕餉の仕度の匂いが、埃っぽい空気中に微かに混じっていた。この時期の日没は、午後九時を回る。彼は未だにぼんやりと机に背を預け、脚を投げ出した姿勢で床に座り込み、無防備な表情で本棚を眺めていた。少し間抜けだ。あたしは、椅子の上でうん、と伸びをした。お互いに手持ちのハンカチで拭っただけだけれども、身繕いは疾うに済ませている。相当に躯が痛むのを、おくびにも出さず、あたしは平静を装って、考え込んでいた。
体温が平常になるのと同時に、あたしの中の、あの熱く熱せられていた鍋や沸騰水も、消え去っていた。あたしの中には、実際に穿たれたのよりも、何十倍も大きな虚ろが出来ている。いっそ寂しい程空っぽだった。あれは、あれらは、一体幻だったのかしらと思う。呆気ない終わりだ。何だったのだろうと首を捻っても、在る時でさえ解らなかったモノが、無くなった今解ろう筈もなかった。性欲、等では決して無い。否、それも在ったかもしれない。けれどそれだけでは無い。色々なモノが魔女の煮鍋の様に、ごったに混ざり合い、変質していたのかもしれない。第一、今は失われていても、いつまた蘇るとも限らない。それにしても。
「生きてる?大丈夫?」
「知るか。用が無いなら、さっさと帰れ。二度と来るな」
「帰るから、聞いてるのよ。まあまた来ると思うけど。本当に、大丈夫?」
「さぁな。明日、もし俺が死んでたら、お前のせいだからな」
座り込んで動かなかった彼が、漸く腰を上げた。憮然としている筈の横顔が、何故か苦笑しているように見える。ぱんぱん、と尻の埃を叩いて、あたしの方を振り返る。
「お前こそ、大丈夫なのか」
振り返った彼は、苦笑ではなく、酷くまじめな顔をしていた。その表情に妙な息苦しさを感じて、あたしは慌てて畳み掛けるように、答えた。
「――うん。平気。親父に殴られる方が痛かったくらい」
「あ、そ。じゃ」
あたしの言葉に、彼は普段通りの、あたしを小莫迦にしたような、鬱陶しそうな不機嫌顔に戻る。あたしは彼に気付かれないよう、内心でほっと安堵の息を吐いた。怒られたり莫迦にされたりには慣れているが、まじめに心配されると、少し困ってしまう。
「うん。じゃあ、またね」
あたしは笑顔で彼に手を振って、階段を駆け上がった。駆け上がる度に、鈍い痛みが躯の底からズキズキと沸き上がって来たが、あたしは結局地上に出るまで一段飛ばしを止めなかった。部屋を出しな、彼がまたは無い、二度と無い、なんて呟いていたのが聞こえたけれど、あたしは「次」の存在を殆ど確信している。
あたしを突き動かす、訳の解らない衝動を生む鍋の代わりに手に入れたのは、下腹部の痛みと、その確信だけだったけれど、あたしは自分が久しぶりに冷静に穏やかな気分になっているのに気付いた。糞親父は、別にまだ暫く生きていても、良いかもしれない。そんな気にさえなる。単に浮かれているだけなのかもしれないが。
彼方此方から流れてくる、夕餉の、腹の虫を擽る匂いを辿りながら、あたしも家路を急いだ。
20031111初書
20040113改訂
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