食用金木犀。
幼い頃の朧気な記憶にも、それだけは明確りと残っている、甘ったるい金木犀の匂いに気付いたのは、つい先刻のことだった。今し方降り出した小糠雨の瑞々しい空気に混じって、ふうわりと流れてきた匂いを、ヴィクトリアは気紛れに遡っていた。毛並みが水を含んで重みを増し、ぺったりと頬に張り付くのを掻き上げつつ、畝傍のぬかるんだ道を、泥を跳ね上げないようにそっと歩く。直ぐにでも雨の上がってしまいそうな、明るい灰色の空を、雀が大慌てで塒へ飛んでいく様が大層可笑しい。
ひっそりと首を伸ばした先に、大振りの金木犀が植わっていた。四方に太い枝を伸ばし、なかなかの巨漢に生長している。細かな橙色の、見るだに甘そうな花が、丁度満開になって、近付けば近付く程に、眩暈を起こしそうな匂いが、辺り一面を染めていた。既に地面に零れているのも有る。枝葉に遮られているせいか、根本に近く零れ落ちている花は、まだ泥にまみれてはいない。ぐるりと木の周りを回ってみる。特に意味はなかったのだが、一箇所花の落ち具合が異常に多い箇所を見つけた。しかも妙にグチャグチャと潰れている。見上げた途端、ヴィクトリアは声を上げる代わりに、目を丸くした。
ぞんざいに枝に引っかけられた、淡い金色の毛並みの尻尾、に続く、上方の枝が哀れに撓う程大きな躯。微妙な枝の配置に絶妙に躯を預けて、眠っているのか起きているのか、雄猫。
そっと近寄って手近な枝を足掛かりに、側まで登ると、ヴィクトリアは耳元で囁いた。
「マキャヴィティ、起きていて?」
「…」
返事はない。眠っているのか、無視されているのか。元よりこの程度の呼びかけで、返事が貰えるとも思っていない。
「起きてくれないのなら、こうよ」
少し挑発的に微笑って、ヴィクトリアは真っ直ぐに引き結ばれたマキャヴィティの口許に、素早く接吻けた。金と朱の両眼が、漸くじろりと不機嫌そうにヴィクトリアに向く。
「何だ」
「別に」
一層不機嫌そうに眉間に皺を寄せたマキャヴィティは、緩慢な動作で身を起こして、ヴィクトリアから滴って落ちた水滴を、ぶるりと払い除けた。ヴィクトリアも横に倣って、躯を重くする水気を手で扱き落とす。そうしてから気付いたが、この場所は丁度雨が遮られて空気が滞留し、仄かに暖かい。昼寝には、この匂いさえ苦でなければ、持ってこいと言った環境なのだ。
「もしかして、本当に寝ていたの?」
「悪いか」
欠伸を噛み殺しでもしたのか、鋭く切れ上がった眦に、微かに涙が浮かんでいる。表情も、常の鋭利なそれとは、少し違うように見えた。まだ眠いのか。試しに甘えるようにそろりと躯をすり寄せても、反応がない。
「そんなに眠いの?」
「別に」
しかし別に、と言った尻から、マキャヴィティが今度こそ小さく欠伸を漏らした。思わず忌々しそうに舌打ちするマキャヴィティのその横で、ヴィクトリアは不意に浮かんだ悪戯染みた名案に、目を細めた。
「眠らせてあげても良いわよ」
不審そうに口をへの字に曲げたマキャヴィティに、澄ました顔でヴィクトリアは告げた。
「私に、接吻けをしてくれたらば、ね」
冗談で言ったつもりだったのに。
寝息の一つも上げずに隣で昏々と眠る雄猫に、ヴィクトリアは少々頬を赤らめて、黙ったまま恨み言を呟いた。
驚くか、怒るかのどちらかだと思って、笑い声をあげようとしたヴィクトリアの視界は、急に塞がれた。振り解く間もなく、うっすらと温かい体温を間近に感じる。先にヴィクトリアが仕掛けたのとは、全く違う、長い長い甘い、接吻け。呆然としてる間に、それは離れていった。
「…約束は守れよ」
薄く笑ったマキャヴィティの顔を、これほど憎らしいと思ったことはない。だが。
「…甘い」
ヴィクトリアの口を吐いて出たのは、別の言葉だった。ぽろりと口から零れた言葉に、マキャヴィティが一寸眉を顰め、視線を外して応えた。
「…食ってしまったからな」
何を、と聞き返す暇もなく、マキャヴィティは目を閉じて、それきり動かなくなった。
食った、と言うのは矢張りコレのことなのだろう、とヴィクトリアは木の根本を見下ろした。食べた後、吐き出したのか。眠るマキャヴィティの顔をじっと、見遣る。
そうして側の枝から橙色の小花を少量毟り取り、口に入れた。
「…甘くない」
甘?
20021001
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