汚  染



 目に見える血は洗い流せても、匂いまでもを完全に消すのは難しい。だから、その衝動が過ぎ去った後は、決まって匂いの強い草花や泥の中で、躯を休めるのが、いつの間にやらの習慣になった。反吐が出るような甘ったるいこの花木で休んでいたのも、単なる酔狂ではない。爪の間にこびり付いた錆の匂いには花を毟り取り、牙に染みたものは毟った花を片端から口に含み、吐き出した。匂いは甘くとも、花自体の味は苦みが先に立つ。滑らかな木肌に躯を預け、一時の嵐の後の、酷い気怠さをやり過ごしながら、惰眠を貪る。
 瞼の裏に駆け巡るのは、先刻最後に引き裂いた何処の誰とも知らぬ、哀れな雌猫の姿だった。但しその姿は幾ら目を閉じても、内腑を華々しく曝した後の姿でしか浮かんでは来ない。元来はそれなりに美しかったのだろうが、無言のまま地面に横たわるその面差しは、不条理な恐怖に醜く歪んでいる。引き攣った口許に血泡を浮かべ、限界まで見開かれた目は、半ば白濁していて汚らしかった。
 薄ら明るい空は、近く雨を運んでくる気配を漂わせながら、静かに白昼の凶行を覆っている。生温い風が粘度を以て頬を掠めていた。口の中に残る血液を唾液と一緒に吐き捨て、近くの川岸へ向かう。
 浅瀬に座り込み、戯れの様に水を弄いながら、全身に飛んだ朱い飛沫を溶かす。とても綺麗とは言えない川水は、溶けだした朱を隠すのに丁度適している。不意に川面に自分の面を見た。薄く笑むその表情は、何処か恍惚としてさえいた。水面の虚像がこちらに両の手を伸ばす。鋭く伸びた爪先が、頬に赤いラインを描き、喉笛に絡んだ。堪えきれなくなったように、空から落ちてきた細かな水滴が輪郭を歪ませて尚、それは力を込めることを止めない。
 空を見上げた。落下している筈の雨粒が、空に吸い込まれていくような錯覚を感じる。瞼を閉じると、丁度目頭に落ちた水滴が目の中に浸入して来て、僅かな痛みとなった。


 瞼を開くと、真っ白い塊が目に入った。一拍置いて、それが時折自分に纏い付く白猫だと判る。ぽたりぽたりと毛並みから滴り落ちる水雫が鬱陶しい。
「何だ」
 さして心地よくもない眠りでも、邪魔をされると些か癇に障った。自然声が棘を帯びる。だが白猫は気にも留めない風に、別に、と嘯いて笑った。ああ、此奴はこういう奴だったと今更思い返し、仕方なくまだ怠い躯を無理矢理起こして、水気を払う。漸く気付いたように、白猫も水飛沫を飛ばさぬよう手で濡れた毛並みを整え、幾らか上目遣いに口を開いた。
「もしかして、本当に寝ていたの?」
低く抑えられた声が、僅かに、逆波立った心象を静まらせる。
「悪いか」
幾分茫とした頭で応えると、欠伸が出そうになった。奥歯を噛み締めて堪える。すり寄せられた体温に、一層眠気が掻き立てられた。常のようにはね除ける気力も湧かない。唯管怠い。
「そんなに眠いの?」
「別に」
言いながら、口を開いたせいで抑えようもなく小さな欠伸が出たのに、口の中で舌を打った。隣で白猫が鬼の首でも取ったように、嬉しげな笑みを浮かべているのが、余計に腹立たしい。
「眠らせてあげても良いわよ」
如何にも腹に一物抱え込んだような白猫の顔に、つい口許が歪む。白猫は白々しい程澄まし返って、言った。
「私に、接吻けをしてくれたらば、ね」



 顔の上半分を覆い隠していた手を退けると、白猫は茫然自失の呈で、目を見開いていた。先程までの、憎たらしい程の澄まし顔が崩れて、無防備な素顔を晒している。
「…約束は守れよ」
 せせら笑って言うと、怒り出すかと思った白猫は、困惑し切った表情で、甘い、と呟いた。その呟きに、つと眉根を寄せて視線を外す。何となくバツが悪かった。自分らしくなかったと、後悔が津波のように寄せる。先刻とは違う種類の感情の細波が、幾重にも押し被さり混じりあって、複雑な波形を描く。
「…食ってしまったからな」
 言い訳のように呟いてしまい、今度こそもう、目を閉じた。
これ以上この白猫の相手をしていると、思ってもみない言葉を吐いて逆上してしまいそうだった。その時は殺してしまえ、と囁く声も無いではなかったが、今はこの群れの中でコトを犯すのは、得策ではないと、またも内心でしなくても良い言い訳をする。目を閉じて動かなくなったのを、眠ったと判断したのか、白猫は何事か呟き、こちらに凭れ掛かったまま、動かなくなった。
 そのうちに小さな寝息が聞こえ出す。そろりと瞼を開くと、胸に頬を預けた白猫の姿が目に入った。不愉快になる位安らかな表情に、舌打ちするも、時遅い。暫くはこのまま耐えるしか無さそうだった。早く目を醒まして、消えてくれと願いながら、気が狂わんばかりに甘い匂いの中で、再度の眠りを試みる。止みそうだった霧雨が、不意に勢いを増して辺りを包み込んだ。




20021006
対。



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