タンブルブルータスの憂鬱なる午後



 少し離れた畑から、薬草を摘んで帰ると、姉の姿は店頭から消えていた。店は早々に店終いされている――わけではなく、扉を開けるとチリンチリンと小さなドアベルがタンブルブルータスを出迎えてくれる。だが、奥へ引っ込んでいる姉には聞こえていないのだろう。誰も出てくる気配はない。カウンターに「ご用の方は鳴らして下さい」と書かれたプレートと、呼び鈴が放り出してあった。良くあることではないが、少ないことでもない。来客があると、姉は大抵そうして奥へ引っ込んでしまうのだ。
 カウンターの後ろで、摘んできた夏白菊と西洋フキを取り出すと、葉に付いているゴミや土を丁寧に洗い流す。店内は、様々な薬草や薬品の匂いが混じり合っている。水切り台に摘んできた薬草を分けて並べるまでが、タンブルの仕事である。

 姉、カッサンドラの生業は、所謂調薬師と言ったところだが、占いもやるし多少の芸事も行う。典型的な流浪民の一族に育ち、数年前までは確かに二人で各地を放浪していたのだが、何故かこの土地で、姉は突然腰を落ち着けてしまった。以降この小さな薬種店と、医者の真似事で生計を立てている。――姉は。

 タンブルはと言うと、幼い内に一族から放り出されてしまったので、占いは愚か、星読みも出来なければ調薬の技術もなく、ただ諾々と雑事をこなすことしかできない。姉に付いて、舞踊はそれなりに修めたが、人前で踊る気質ではない。楽器は姉の為に幾つか身に付けたが、それも触れなくなって久しい。今現在、タンブルに残された仕事は、本当に雑用と家事ばかりで、果たしてこのままで良いのかと思う。思う反面、相当に気侭な姉の生活は、ほぼタンブルが支えていると言っても過言ではない。
 小さく息を吐いて、タンブルはカウンターに座った。光や熱で変質しやすい薬を置いているために、店内は薄暗い。石造りのひんやりとした壁面には、様々な硝子瓶だの紙包みだの袋だのがずらりと並んでいる。血止め、膏薬、目薬、頭痛薬、止瀉薬、風邪薬、喉飴、解熱剤、鎮痛剤、鎮静剤、消炎剤から、趣味の薬草茶や薬草のお菓子、入浴剤に子供騙しの恋のおまじないグッズに、リボン飾りのサシェやリース。更に店の奥には、タンブルすらも実体の解らない薬が並んでおり、それをこっそりと売ったりもしている。姉が。
 主な客筋は、近所の主婦達や職人達で、あとは年頃の娘さん達が連れ立って買いに来たり、姉の占いを求めてきたり、マセた少女達が小遣いを握り締めて「気になるあの子を振り向かせるハーブティ」などと言う眉唾なものを真顔で買いに来る。まるで、自分とは別の世界に住んでいるかのような少女達に、当初は酷くどぎまぎしたものの、今となってはそういった少女達の相手をするのが、決して嫌ではないタンブルである。打ち解けて話すことはないが、眺めているだけでも微笑ましいと言うものの存在を、タンブルはこの町で初めて知ったのだった。この町に来るまで、タンブルは愉しいとか、可愛いとか、微笑ましいとか、そういったものを、知らなかった。

 姉に手を引かれ、何処とも解らぬ埃っぽい街道を歩いている。それがタンブルの、明瞭りしている最初の記憶だ。タンブルの人生は、そこから始まっていると言っても過言ではない。あとは、薄暗い天幕やら、褐色の土や、きらきらと光る石や大勢の大人達が記憶の片隅に朧に残る程度である。父も母も、居た筈だが不思議と記憶にはない。長じてから一族の奇妙な風習を知った。その儀式と星占によって、自分が幼い内に一族を追い出されたことも、知った。その時、まだ幼いタンブルと共に一族を出た姉もまた、十になったばかりだったと言う。
 十やそこらの幼子が、更に自分より四つも下の子供を連れて、彷徨っていた。思い返すだに恐ろしげなことだが、不思議とその頃に嫌な記憶はない。勿論子供のする辻占や、薬種の調合で路銀が稼げるわけもなく、草木の根をしがんで空腹を誤魔化すことも多々あったが、そうして寝転んで見上げた空はいつも蒼く、高く、或いは紺青だった。一面の星に大層衝撃を受けたこともある。それを、「うつくしい」と表現するのだと姉は教えてくれた。
 唯管、歩き続けた。柔らかい子供の足裏に肉刺が出来、潰れ、を繰り返し、いつしか硬く角質化し、痛みは失せた。
 だが――、

「タンブル!タンブルー!」

 幾らか怒りを含んだ姉の声に、はっとタンブルは我に返った。いつの間にか、記憶の泥に飲まれていたようだった。
「今、行く!」
奥に向かって声を返し、机の上の薬草を片付け、店の扉に「本日閉店」の札を出して施錠する。姉は、こうして時折タンブルを呼ぶ。呼ばれると、タンブルに拒否権はない。つと視線を落とし、鍵を棚の定位置に返すと、タンブルは粛々と奥の部屋へと向かった。客が来ていた筈だが、こうして呼ばれるとなると、その客は十中十、ボンバルリーナだ。気が重かった。
 奥の居住空間にも、姉の調合した薬種が所狭しと並んでいる。店頭の様に客に見せる必要がない分、より乱雑に犇めき合っている。応接と居間を通り抜け、キッチンの手前の階段を昇る。狭く古い階段は、一足毎にきし、きしと鳴く。手すりはない。足許は相当に暗いが、「猫」の目には充分だ。
 階段を昇って、突き当たりの部屋が、姉の寝室である。今一度ノックを躊躇する間もなく、扉が向こうから開いた。
「大丈夫?もしかしてお客さん居た?」
「いえ、一寸」
紅く底光りする真っ黒い髪と、いつか旅した北の国の、深い海の様な瞳が、タンブルを見上げていた。ボンバルリーナだ。この目が、タンブルは理由無く苦手だ。彼女は、案の定一糸まとわぬ姿で、それを恥じらう様子もなく、高く隆起した乳房を張り出すように堂々と立っていた。何処を取っても円やかな線でラインを取った肢体は、見事なもので、それにもタンブルは圧倒される。
「何してんのサ。そんなところで。さっさと入っといで」
ボンバルリーナのとはまた違う、低い女の声が促した。姉の声だ。低いが艶を帯びたボンバルリーナのよりも、幾らかざらついて掠れた声だが、昔は、もっと土鈴を振るような澄んだ声だった。そのことを知っているのは、この町ではタンブルだけである。
 部屋の中へ入ると、がっしりとした寝台の、寝乱れたシーツの上に横たわる、くすんだ白膚の裸体が目に入った。明らかに情事の痕跡を残しているのに、しどけなく見えないのは、脱力して寝転ぶ姿が酷くだらしないからだ。その様な格好はするべきではない、と控えめに提言したこともあるが、何故さと首を傾げる姉に、「オッサン臭いから止めて欲しい」とは言えないタンブルである。
「ほォら、お姉様がお待ちかねよ」
 ぐい、と背中に大きな乳房の膨らみが押し付けられ、寝台へと押しやられた。否やを言う権利は無い。白く細い手が伸び、シャツの釦を外す。後ろから伸びた手がズボンを寛げる。四本の華奢な手が、するすると器用にタンブルを裸に剥いてしまい、蔓のように絡みついて寝台へと薙ぎ倒した。
 二人は、さながら双子の姉妹のような連携で、強引にタンブルを快楽の淵へと引き摺り込む。旅の最中、まだ未熟な身体を呈して路銀を稼ぐ姉を間近で見て育ったせいか、閨房事には一種恐怖にも似た嫌悪感があるのだが、この二人を、特に当の姉を相手に尻込みすることが許される筈もない。ボンバルリーナだけ抱いていれば良いのなら、まだマシなのだが――と思いながら、タンブルは、自分の雄を身体に含んで引き絞る姉の痩躯を遮るように、視界を覆う柔らかな胸に指を食い込ませ、顔を埋めた。姉を見て欲情することのないよう、今、自分に快楽を与えているのはボンバルリーナ唯一人だと錯覚するためだ。しかし、それもいつまで保つか、タンブルには自信がない。
 いつまでもこんなことをしていては、何れ行き詰まるに決まっている。この家を出なければ。身体のあちこちで弾ける快感を堪えながら、タンブルはお定まりのように長続きしない決心を起こした。



 二種類の白い皮膚が、互い違いに自分の身体にまとわりついている間中、タンブルは嫌悪感と共に罪悪感をも感じているのだが、かっきり二回、それぞれの身体に奉仕させられた後に残るのは、嫌悪でも罪悪感でもなく、何となく口寂しいような虚脱感である。家を出なければと言う切羽詰まった思いも、切迫感が失せて重く澱んだ凝りとなる。
 仲良くシャワーを浴びに行った姉達を待つ間、手持ちぶさたに、まだ色濃く二人の女の匂いを残すシーツに顔を擦り付けてみたりもするが、昼日中の明るい部屋に一人素っ裸でいると、やるせない気持ちになってくる。仕方なくシーツを掛け替え、窓を開けて空気を入れ換えたり、枕を叩いて膨らませたり、脱ぎ散らかされた衣服を畳んでおいたりしていると、ボンバルリーナが先に戻ってきた。タオル一枚を肩から掛け、手には氷をたっぷりと入れた水差しと、グラスを三つ、携えている。
「働き者ねえ」
 感心したように言いながら、小さな丸テーブルにグラスを置き、まず一つになみなみとよく冷えた水を注ぐと、はい、とタンブルに手渡してくれた。有り難う御座います、と礼を述べて両手で受け取る。タンブルが注ぎ返そうとすると、ボンバルリーナはそれを手で制して手酌で汲むと、酒を呷るように、一気に飲み干した。ぷはぁ、と美味そうに口許を拭い、綺麗にメイクしたばかりの寝台に脚を高く組んで腰掛ける。
 明るい中で、如何にも所在のない自らの身体と引き比べ、湯上がりに火照って堂々としているその身体に、タンブルは毎度、身の置き所がない思いに駆られる。いっそシャワーなど浴びずに服を着たいのだが、それはそれで二人の不興を買うのだ。部屋の中を見渡し、隅の椅子になるべく身を縮めて収まると、タンブルは漸くグラスを傾けて、ツンと澄んだ水を喉の奥へと流し込んだ。水には薄荷の風味が付いている。
「毎度悪いわね。世話掛けちゃって」
「いえ」
 そうお?と首を傾げてボンバルリーナが笑う。頭の上でまとめられた黒髪が、一筋二筋、頬に零れ落ちる。それを掻き上げる指先の仕草に、タンブルはふと動揺した。あの指が、と先刻の記憶がフラッシュバックを起こす。火のような頬を冷ますように、グラスを頬に押し当てた。それを揶揄うでなく、にこにこと見守られていることに、一層の羞恥を感じる。まだ、こっぴどく揶揄された方が、マシというものだ。
 バタン、と乱暴な音を立てて、扉が開いた。
「お待たせリーナ…?」
薬油の入った壺と、幾許かの薬草を持った姉が戻ってきた。部屋の中に漂う微妙な空気に、微かに片眉を上げるが、タンブルが咄嗟に恐れたような追及はなく、視線はチラリと皮膚の表を撫でるように通り過ぎていった。
「わ、有り難う!効くのよねぇアンタの薬草パック」
「はいはい。ちゃっちゃとやるから、タオル引いて横になりな」
はぁい、と甘ったるい声をあげて、ボンバルリーナが寝台に仰臥する。こんもりと小高い乳房が、ほぼそのままの形でゆるりと両脇に弛んだ。緊った腹に、黒い絹のような繁りを乗せたふくよかな下腹部と高低を描く曲線に、目が釘付けになる。
 そうして、既に衣服を身に着けてしまった姉の、その布の下のどこもかしこも肉薄い身体に目を移し、タンブルは再び罪悪感に見舞われた。あの時、自分さえ居なければ、姉は一族を出ず、もっと穏やかに幸せに、暮らせたのではないだろうか。今頃は好いた男と所帯を持っていたかもしれない。自分には、姉をせめて今よりは幸せにする責任がある――家を出なければと言う鈍い凝りは、姉に対する罪悪感と負い目に溶かされ、言い訳と共に胸の内をするりとすり抜けていく。
 二つの対照的な身体は、並び立つことでタンブルを責め立てているようにも思える。
「何をボーッと見てンの。アンタもさっさと水浴びて、店開けてきな」
不意に叱咤の声を掛けられて、タンブルは物思いの底から引き摺り上げられた。手をべったりと油塗れにして、姉が呆れたように振り返っていた。元はと言えば、自分が呼んだ癖に、とも言えないタンブルである。まあまあ、と姉を宥めながらボンバルリーナがタンブルに片目を瞑ってくれたが、応えることも出来ずにすごすごと畳んだ衣類を抱え、片手で軽く前を隠しながら、部屋の中を移動する。

 「あの情けない姿ったら。私の弟とは思えん」
「そんなこと言わないでよ。私、ああ言うタイプ結構好きなのに」
「相変わらず趣味が悪いな」
「悪かったわね」
「あの、下にいますから」
タンブルをダシにじゃれ合う姉達の会話から逃げるようにして、這々の体で廊下に出た。



 店を閉めてから、時間にして、二時間も経っていなかった。しかし既に夕刻ではある。開けるべきか、開けざるべきか。迷った挙げ句、やはり姉の言う通りに開店することにした。店の扉の鍵を開いて、「本日閉店」の札を取り入れると、カウンターの後ろの定位置へ収まる。
 その後一時間程もタンブルは黙って座っていたが、客は一人も来なかった。消墨色のフィルムを通したような夕闇が、ただでさえ薄暗い店内の彼方此方に滞留し始めている。のろのろと立ち上がって、店内の数カ所に置いている、良い匂いを出す薬草入りの蝋燭に火を点すと、ぼんやりと橙色の影が揺れた。
 何となく見とれていると、奥から笑い声と、階段の軋む音が近付いてきた。意味もなく慌てて、カウンターの内側へと戻る。ついでに瞑目した。
「長々とお邪魔様」
 が、直ぐにぽんっと肩を叩かれて、押し付けていた下瞼と上瞼を引き離す。派手だが、化粧ッ気のない顔が間近に迫っていて、タンブルは咄嗟に「どうも」と呟きながら、失礼にならない範囲でそっと後退さった。
「やぁね逃げたりして。取って食べたりしないわよ?」
「もう食った後だからだろ」
「カッサってば。意地悪なんだから」
小さな顎を引きながら、ボンバルリーナが苦笑する。通り過ぎていく姉達からは、同じ匂いが香った。

 「それじゃ、ほんとに今日は有り難う。一寸スッキリしたわ」
「変なことに首突っ込まないようにね」
扉際で挨拶のキスを交わす、良く似た二人の背を、座ったまま見送る。余りに似ていて、ふと、一瞬どちらがどちらか、解らなくなりそうだった。ボンバルリーナを送り出してしまうと、ちりんとドアベルを鳴らして、姉が扉を施錠した。
 何故かほっとした。
「もう閉めちゃうよ。こんな時間から、客も来ないだろうしね」
「…閉店の札は」
「かけた。それより腹が減ったなあ」
「…じゃあ、飯に」
「宜しく。出来たら呼んで」
カウンターを姉に譲り渡す。擦れ違いざま、姉が「難儀な子だね」と呟いたのが聞こえたが、聞こえないふりでキッチンへと向かう。
 一体、どちらが難儀なのか。内心ではそんな反駁が浮き沈みしたが、勿論口に出すことはない。腹の底深く幾つもの言葉を呑み込むと、ぐったりと疲れた身体を引き摺って、タンブルブルータスはそれでも姉のために何を作ろうかと、手持ちの材料と睨めっこを始めたのだった。






20061106



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