Irritation
それは、焦燥。
Irritation
学校が始まってから、一ヶ月程が経った。勉強をしているレプリカ達は、徐々にではあるが言葉や計算を覚えて来ている。学校での講義の成果が出ているのだ。
そのせいだろう、学校内でのアニスにも余裕が出て来ているようだ。始まったばかりの頃は机で作業をしているばかりであったのに、今ではマルクト側の教師と仲良く話しているのを頻繁に見る。
今も、そうだ。ジャン・アーレントと一緒に昼食へと向かっている最中なのだ。
「…はぁ」
行き場所のない苛立ちを溜息に乗せると吐き出した。正直、面白くない。自分だってアニスと昼食を一緒に食べたい。
だが、学校という場所の仕事だけではない。軍人としての仕事がそれを許してはくれない。学校で潰れてしまう午前中の遅れを取り戻しつつ、アニスの待つ家へと早く帰るには、昼食の時間さえも削らなければならない。
机の上に積まれている書類に目を通し、次々とサインをしていると突然、ドアがノックされた。
「入れ」
「失礼します。大佐、追加の書類が来ています」
「…おや、今日の書類はこれだけの筈では?」
入室を促されてから、両手に大量の書類を抱えた兵士が入って来たのを目で確認すると、不機嫌そうに眉を潜めた。その表情に、怒らせたと思った兵士は慌てて口を開く。
「は、はい。ですが、この書類を見る人がいないので、大佐にお願いしろと…」
「そうですか。その机の上に置いて下さい。それと、少し席を外しますよ」
兵士の返事すら聞かずに立ち上がると、執務室を出て行き、家へと向かって歩き出した。アニスは学校が午前中で終わる為、昼食を取ったら家へ帰って仕事を済ませている筈だ。
遅くなるのなら、書類に手をつけてしまって執務室を出られなくなる前に、連絡をしておこうと思ったのだ。
だが、家に帰ってみても、アニスは帰って来ていない。時刻はもう夕方近くになっている。昼食を取るだけなのにいくらなんでも遅すぎる。
しかし、この時間ではもしかしたら昼食ついでに買い物でもしているのかもしれない。ふと過ぎった不安を打ち消し、残った仕事を早く片付けようと、家を出て再び執務室へと戻って行った。
「あの…もう帰らないと」
「いいじゃないか。このまま夕食も一緒に食べない?ご馳走するよ」
不満さを顔に出さないようにと顔に力を入れた。ジャンにこれ以上付き合うのも嫌なのだが、もう帰らなければならないのも事実だ。
今日は、ジェイドと夕食を食べると約束している。朝ジェイドが言っていた話では、もうそろそろ仕事が終わる時間だ。きっと、家に着いた時に自分がいなければ心配される。
「でも、大佐の仕事もそろそろ終わると思いますし、余り遅くまでは一人で外に出るなと言われていますから」
「はは、まるで親みたいだね。それに僕がいるじゃないか」
「(あんたじゃ心配なの!!)」
笑いながらも悪態づく。だが、そんな自分の心境とは裏腹にジャンは上機嫌だ。無理矢理手を引いて歩き始めた。
突然の出来事に、引きずられるようについて行くしか出来ない。何分程だかわからないが、少しの間歩いたところでジャンは立ち止まる。
「それに、大佐ならまだ暫くは帰って来ないよ」
「…え?」
「書類、増やして貰ったから」
貰った?誰に?何でそんな事を?急に沢山の疑問が浮かぶ。ジャンは、そんな心の声を読むように口を開く。
「僕の兄さんは、大佐の上官でね。大佐に書類を回すように頼んだんだ。だって…邪魔だったし」
「え…?」
「大佐がいると、いつまでもこうして君と長い時間、一緒にいられない」
握られていた手を力強く引き寄せられる。そこで初めて、自分は今まずい状況なのだと自覚する。だが、辺りを見回すと、暗い路地裏のようで、助けが来る事も期待出来ない。
何故もっと早く気づかなかったのだ、と後悔した。応戦するにも、いつも背中にある筈のトクナガは置いて来てしまったし、この近距離では詠唱も不可能だ。
「僕は、君が好きなんだよ」
首筋に舌が触れ、ぞわり、と肌が粟立つ。暫くは抵抗していたが、女が男に力で勝てる筈もなく、体力も奪われるばかりである。
諦めて、このまま抵抗を止めてしまおうと、腕の力を緩めたその時である。
「…何をして、いるのですか?」
声と同時に、手を掴んでいたジャンの手が、声の主によって離される。その隙に後ろに下がり、顔を見上げる。声の主は、先程ジャンが仕事だと言っていた筈のジェイドだった。
「た、大佐…何故ここに?」
「陛下のブウサギの世話をしているガイラルディア伯爵が、貴方達の姿を見ていたのですよ。…それより、アーレント少尉、ダアトからの客人に対してこんな事が許されると思っているのですか?…連れて行け」
捻り上げたジャンを後ろで立っていた兵士に預けると、兵士はジャンを連れ、ジェイドを置いて去って行った。残されたジェイドは、無言のまま近寄ると、アニスの手を取り、引っ張るように歩き出す。方向から、目的地は家だろうと予測した。
「大佐、仕事は?」
「終わらせました」
骨が折れる程の力で握られた手首が痛んだが、その言葉の冷たさから、怒っているのだろうと察して、それ以上言葉を発する事を止めた。
強く握られたジェイドの手から感じられる熱が、今は現実だと伝えているような感覚を、アニスはただ、無言で感じていた。