Waver
本当に、選ぶべき選択肢は――。
Waver
時刻はもう、正午を過ぎていた。
夏らしく冷たくてさっぱりした物が良いと思い、レタスやトマトを入れた冷やしパスタを昼食に用意しながら、アニスはぼんやりと、隣の部屋に座って書類に目を通しているジェイドを見た。
キッチンにある小さな窓から吹き込んで来た風は、ダアトの蒸し暑い風に比べ、涼しくて心地良かった。
あの夜から、一ヶ月が経つ。
前までは時折厚さの中に涼しさもあったと思われるグランコクマの気候は、すっかり夏の気候へと変化していた。だが、グランコクマの気候とは裏腹に、ジェイドとの関係は一向に変化のないままだった。
毎日の食事は用意しているし、何かあれば会話だってする。だが、お互いがどこか謙遜している状態――。正直、それが良いとも思っていないが、そうなるような出来事を二人は行ってきているのだ。だから、それは仕方のない事なのだ、と納得もしている。
それに、こうなるべきだと思っていた自分が、関係を戻らないか、なんて考えているのは、本当は駄目なのかもしれないが。
「(かも、じゃなくて、確実にダメでしょ)」
自分の考えを訂正してから火を止める。予め用意しておいた水の中へと茹でたばかりのパスタを入れれば、辺りが、湯気で白く染まった。その際、空になった鍋を片付けようとした時、手を滑らせてしまったのである。
「あ…」
大きな音を立てて、鍋は地面へと落下した。慌てて拾い上げてキッチンにある机の上へとそれを置く。
少し経ってから、慌ただしい足音と共にドアが開き、ジェイドが入って来た。
「今、大きな音がしましたが…」
「あ、さっき手が滑って鍋を落としちゃって…」
「鍋を?怪我はありませんか?」
「あ、それは全然平気です」
手を横に振り、否定の意味を表すと、不安を拭いきれないような、安堵したような表情を見せてから再び部屋へと戻って行く。ジェイドの姿が消えたのを確認してから、パスタと野菜を彩り良く飾り付け、完成した物をジェイドの元へと持って行く。
「大佐、出来たよ」
「有難うございます、アニス」
椅子に座り、書類に目を通しているジェイドは、書類から目を離す事なく口を開く。そのジェイドの前へ出来たばかりのパスタを置くと、部屋を出て行こうと踵を返した。
その時、アニス、と呼び止める声が耳に届いた。振り返ると、紅い瞳がこちらを見ている。
「食べないのですか?」
「え?あ、いや、食欲がなくて」
それは本当の事だった。最近はずっと食欲がなかったのだが、今日は特に酷い。いつもならば少しでも食べなければならないと思い、食事だけはするのだが、今日だけはどうしても食べる気にはならなかった。
それだけではなく、身体も怠い気もしていたので早く休みたいのだが、ジェイドは呼び止めただけでなく、手招きをして来るように呼んでいる。それに従ってジェイドの元へ行くと、ジェイドの冷たい手が額に当てられる。
それは数秒間続き、それから手が離された。その途端に身体が宙を浮く。ジェイドに抱き上げられたのだ。
「な…何するんですか!?」
「熱があるようですから、部屋まで連れて行くだけです。少し、じっとしていなさい」
言われるままに大人しくしていると、与えられている部屋のベッドに優しく降ろされた。その時、上から自分を見下ろす瞳がある事に気付き、一ヶ月前の夜を思い出して、思わず身震いした。それに気付いたジェイドは、すぐさま後ろを向くと、部屋のドアへと向かって行った。
「熱はそれ程でもないようですから、少し寝ていなさい。今日の夕食の準備は結構ですよ。私が準備しますから」
バタン、と閉まったドアをじっと見つめながら、ジェイドに悪い事をしたな――と思い、心の中で謝った。それと同時に、体調が良くない事に気付いてくれた事へも感謝する。自分では気付いていなかったのだ。今日も、悩んでいるせいだろうと思い込んでいた。
あの夜の出来事は、今でも鮮明に覚えている。特に、ジェイドの告げた言葉はどうしても、頭から離れてはくれなかった。
『愛してる――』
もしかしたら、自分がジェイドを好きであるように、ジェイドも自分と同じ気持ちだったのかもしれない。
だがあの時、彼の為にも、もう幸せになろうとしないと誓ったばかりなのだ。それに、今まで築いてきた物をあの一日で全て崩してしまった。そんな状況で、今更ジェイドの手を取ろうと思うのは間違っているのだろうか――。
何十回、何百回と考えたかもしれない疑問に答えが見い出せないうちに眠気がやって来る。それに逆らう事なく目を閉じれば、それは意識を完全に真っ暗の闇へと染めていった。