「今度の世も美しく育った」
夜と同化するようにひっそりと、男はベッドで眠る青年を眺めていた。
この人間の世界で、親友として過ごしてきた青年だ。
青年の暮らしぶりをずっと見てきたが、あまり裕福そうではない。
だが、その姿と心根は美しかった。
清い魂の方が誘惑のしがいがある。
男は人間のように見えるが違う。
背には鴉のような真っ黒な翼が生えていた。
本体が精神の世界に存在している悪魔にとって、肉体は玩具のようなものだった。
物質の世界に現れる時は、自分の好きな姿になれる。
今までずっと、彼の親友という姿で存在していたように。
それと同じように、自分のではない肉体も、積み木を好きな形に組むように、好きなように組み直せる。
「…これからは他のものはもう口に入れさせてやらない」
夜が明けると青年の誕生日。
眠る青年の額に、悪魔の口付けを贈る。
愛しい彼の若く美しい顔を、永遠に残しておくために。


まばゆい朝日に包まれて、青年は目を覚ました。
昨夜は大学に行った後、友人の家に泊まった。
今日は自分の誕生日。
小学生から知り合っている彼のことは、お互いに親友だと思っている。
自分も彼も、幼い頃に両親を亡くしていたためか、気がつけば支えあうようになっていた。
毎年、彼の家で誕生日を祝ってくれる。
彼の両親は莫大な遺産があったようで、彼は自分よりも金持ちだった。
少し引け目を感じてしまうのだが、彼は温かく迎えてくれる。
「ハッピーバースデイ。生まれてきてくれてありがとう」
着替えて部屋を出ると、待ってくれていた彼が声をかけてくれる。
嬉しくて、微笑み返した。
「もう朝食は用意してあるよ」
だが、食堂に入ると、突然便所のような臭いが鼻をついた。
「………っ?」
むせてしまったが、隣にいる彼は何ともないようだ。
「どうしたんだ?」
気遣うように、彼が聞く。
「…いや、何でもない」
きっと気のせいだと思いたかったが、その臭いは消えない。
だが、心配をかけるわけにもいかないので、そのまま席に着いた。
どうしてだろう?
目の前の料理が全く美味しそうに見えない。
それにあの、便所のような臭いは、まさにこれらの料理から放たれているように思えてならなかった。
「どうした?食べないのか?お前のために用意したんだ、遠慮するなよ」
そうだ、自分の好物ばかりだ。
きっと不快な感じも腹が空いているからだ。
気のせいに決まってる。
そう自分に言い聞かせて、無理矢理一口食べた。
「ぐ……っ」
飲み込んだ途端、吐き気がこみ上げてきた。
どぶ川の臭い、肥溜めの臭い…
やはりこの料理からだった。
口に入れただけでこんなに不快なのに、とてもこれ以上噛む気にはならない。
だが、出してしまうなんて、失礼なことはできない。
ほとんど噛まずに、飲み込んだ。
便の臭いのするそれを。
目尻に涙をにじませていると、心配そうな彼の声がした。
「大丈夫か?顔色が悪いぞ」
「ごめん、ちょっとお手洗いに……」
「ああ、一人で大丈夫か?」
頷いて、席を立った。
せっかく泊めてくれて、食事まで用意してくれた彼の好意を、無駄にしてしまったことを後悔しながら急いで洗面所に向かう。
吐き気がおさまらない。
食堂から離れると、あの不快な臭気はしなくなった。
洗面台で口に入れた料理を吐いてしまったが、落ち着いた後、とても心地好い薫りが漂っていることに気付いた。
隣のトイレからだ。
「あ……」
便器の床下に溜まっている汚物が普段は臭いはずなのに、何故こんなにも良い匂いがするんだろう。
しかもそれは、花の香りのような良い匂いではなく、美味しそうな匂いなのだ。
思わず床に座って、顔を近づけてもっとよく匂いを嗅ごうとした時、声がした。
「大丈夫か?」
心配そうに彼が立っていた。
「あぁ…」
我に返ると、今自分がしようとした行為を思い出して、恐ろしくなった。
早く忘れてしまいたくてそそくさと、彼と一緒にもう一度、食堂に向かう。
便所から遠ざかると、美味しそうな匂いも遠ざかった。
しかし食堂が近づくと、またあの不快な臭いを感じる。
「食事、できそうか?」
「……」
間違いなくこの料理から臭いがするのだ。
だが、彼は不快さは何も感じていないようだ。
「無理はしない方がいい」
何と説明したら良いのか迷っていると、彼が穏やかに言う。
「でも、折角用意してくれたのに…」
「いいんだ、お前が元気でいてくれる方が良い」
にじみそうな涙を隠すように俯いていると、彼が頭をなでてくれる。
子供の頃にされたような仕草で、すこし恥ずかしかったが、嬉しくもあった。


何日たっても、一向に良くはならなかった。
あの日から全てがおかしい。
食べ物がとても気持ち悪いものに思える。
どんな食べ物からも、汚物の臭いがする。
何も食べることができなかった。
やがて餓えで体調が悪くなり、仕事も大学も休む日が続いている。
ただ唯一、良い匂いがするのは、何日か前に出した最後の排泄物だった。
まだ表の肥溜めに捨てていないその臭いを嗅ぐたびに腹が鳴る。
美味しそうな匂いがするから。
空腹で倒れそうだった。
何か食べたくて仕方ない。
足が勝手に、あの美味しそうな匂いの漂う便所に向かっていた。
今まで不快なものだったはずの汚物が、何故か絶品の料理に思える。
気がつけば、そっと手を伸ばしていた。
はっと気づいて、手を止める。
いくら良い香りがするからって、排泄物を食べようとしていたなんて、考えただけで恐ろしい。
すぐにこんな場所から離れなくては。
「………」
耐え切れない空腹感に腹が鳴る。
もう何日も食べていない。
だが、こんなもの口に入れるわけにはいかない。
自分の中の、人間としての何かが無くなってしまう。
「……ぅ……っ」
勝手に涙があふれてきた。
でもお腹が空いて死にそうなんだと。
この場所から動けない。
こんなに美味しそうな匂いのする場所から。
衝動が、もう一度自分の手を動かした。
便を素手ですくい、口に運んでいた。
「…ぁ……っ!」
これは食べ物ではないのに、美味しいものを食べることができたことの喜びに涙がにじむ。
頭がおかしくなりそうだった。
こんなものを口に入れて、飲み込むことができてしまう自分が恐ろしい。
だがそんな理性的な思考よりも、餓えを満たすことへの欲が勝っていた。
夢中で、数日前に自分が捨てた便を貪っていた。

「……何をしているんだ」
後ろから響いた声で我に返る。
驚愕の表情を浮かべて、彼が立っていた。
家には鍵がかかっているはずなのに、何故彼が入って来れたか不思議だったが、
それよりも、便を食っている所を見られたことに対する羞恥や恐怖の方が勝っていた。
「…あの……俺…っ」
茫然としている彼に、何も言い訳が思いつかない。
ただ、しばらく顔を見合わせるしかなかった。
涙がぼろぼろとあふれてくる。
こんな惨めな姿を見られて、きっと嫌われたに違いない。
「………っ!」
彼の指がそっと頬に触れる。
嫌われるとばかり思っていて、恐怖で目を閉じてしまったが、彼は涙をぬぐってくれたのだった。
「……ずっと、心配していたよ」
ようやく、彼が小さく呟いた。
「お前がどんな病気になったとしても、ずっと友達だ」
それから彼は、衰弱した自分を彼の家に連れて行ってくれた。
異常な食欲不振という名目で医者も呼んでくれたが、原因は結局わからない。
もう今は、死を覚悟している。
ただ、餓えと乾きだけは苦しくて、もう一度排泄物を口に入れることにした。
本当は自宅でひっそりとそうしたかった。
だが、彼はそれを許さなかった。
彼に便を差し出され、その惨めさに泣きながら、それでも口を開けた。
それしか食べ物として認識できない。
凄まじい臭気を放っているであろう汚物をスプーンですくって、彼が食べさせてくれる。
優しい微笑を見せながら。
そんな彼に、端から見ると狂っているとしか思えない自分の姿を、見られるのがたまらなく苦痛だった。
「…もう俺のこと…放っておいていいから……」
衰弱しきって掠れた声で頼んだ。
これ以上彼に迷惑をかけるなら、このままこんな姿を晒し続けるなら、死んだ方がましだった。
「だめだ」
「どうして」
「お前は俺の」
彼の手が頭をなでる。とても優しく。
「大切な人だから」
毎日口に入れられる排泄物。
彼が出した便なのだろうか。
そう思うと、倒錯した感覚でおかしくなりそうだった。
いや、もう既に自分は狂っているに違いない。
たとえ狂っていても、満ち足りた安らぎと幸福を感じていた。
彼が側にいてくれるから。


「もう幻で隠す必要ないかな」
排泄物だけを口にしていた”親友”は、目や口を開ける力すら失なっていった。
ただ頭をなでると、ゆっくり目を開けて静かに微笑む。
半分まどろみの中にいる彼の頭をなでながら、悪魔の本性を現していく。
茶色い瞳が真紅に変わり、背に漆黒の翼が現れると共に、周りの風景がぼろぼろと崩れていく。
穏やかな日差しは消え、家の内装がグロテスクに歪んでいく。
「この家のこと、思い出したか?全部お前の体で作ったこの部屋」
柱は骨が繋ぎ合わされ、妙な艶のある壁は、全て人間の肌だった。
家具も、インテリアも、彼を寝かせているベッドも、全て人間の身体でできている。
彼の前世達の肉体で。
「今度の世のお前の体は、便器にしようと思っていたんだよ」
だから、人間に化けた自分の排泄物を食べさせた。
それ以外食べることのできない彼の姿を、眺めていられるのは悦ばしかった。
大切な彼の魂が、汚れて堕ちていく様子を側でずっと見ていた。
抱き締めると、幸せそうにそっと微笑む。
人間の身体はすぐに死んでしまうけど、それ故に見せる儚い表情が好きだった。
この美しくて愛しい微笑みをずっと留めたい。
これからもずっと飾っていくだろう、この部屋に。
「おやすみ、また次の世で逢おう」



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