「君……」
街角の店で古いヴァイオリンを眺めている時だった。
不意に声をかけられる。
驚いて顔をあげると、穏やかに微笑む男が立っていた。
堂々とした体格からか、一瞬父と同じ年ぐらいに思った。
だが、鼻筋通った顔や、健康的な肌の色の手をよく見ると、そんなに年をとっているように思えない。
貫禄があるように思えたのは、その上品な見なりのおかげだ。
控えめな茶を基調にした服装が、緩やかな風になびく短い黒髪に似合う。
だが、そんな事はすぐにどうでもよくなってしまった。
「あなたは……?」
この人を見た瞬間、何故だか分からない強烈な懐かしさに襲われた。
畏怖するような、思慕のような、複雑な感情が交じり合った懐かしさ。
胸をかきむしっていくようなざわめき。
そんな気持ちになったのは、初めてだった。
「君と少しでいいから、話をしたいんだ」
見知らぬ人についていくなんて、普段の自分からは考えられない事だった。
ただ、この胸に巣食って離れない一瞬の懐かしさの正体を知るために、僕は彼の後に続いた。
「名前は何て言うの?」
「エリゴール」
だが、その名に心当りは無かった。
「どうして、僕に声をかけたの?」
謎めいた心のざわめきに翻弄されながらも、不審や不安が全くないわけではなかった。
「君は覚えていないだろうけれど、私は君の事をずっと昔から知っているのだよ、セリック」
彼の穏やかな返事はそれだけだった。
何故、僕を知っているのか聞いても無言だった。
それでも、不信感を凌駕する胸のざわめきに、僕は彼の後をついていく。
それはまるで操られているかのようでもあった。
カフェで彼の望みどおり話をした。
何を話したか覚えてないぐらい他愛のない話ばかりだったにも関わらず、別れ際は何故か、彼と別れるのが寂しい程だった。
あの懐かしさの正体も知らぬまま、たまらなくなって、僕はもう一度彼と会う約束をした。
それから何度か会う内、僕はすっかり彼を慕うようになっていた。
彼はいつも、とても親切だったのだ。
本当にずっと昔から自分を知っているかのように、自分が悩んでいることを理解し、親身になって聞いてくれる。
音大で、上手にヴァイオリンが弾けなくて悩んでいると言えば、実際に次に会った時に僕が奏でる音色を聞いて、良い所と悪い所について教えてくれた。
両親と喧嘩した時には、僕の言い分も聞いてくれた。
だが、幾度彼の側にいても、一向にあの不思議な懐かしさの正体は分からなかった。
「次は私の家で話をしないかね?」
ある時、いつも通りカフェで話をした日の、別れ際の彼の言葉だった。
この一年間、何度も彼と話をしたが、未だ彼の家に行った事がなかった僕は快諾した。
彼の家まで、遠くはなかった。
列車に乗る必要もない。
ただ、見知らぬ路地裏を通り抜けていくだけだ。
生まれた時からこの町に住んでいるのに、そんな路地があるなんて全く知らなかった。
しかし、何故か特にそれについて不審に思うこともなかった。
ただ、歩いている途中、急に霧が出始めたのだけが不思議だった。
一般庶民の家庭よりは裕福に見える彼の家の中は、真っ暗だった。
唯一光が射していた入り口の戸が閉まると、完全に闇に包まれる。
そのせいなのか、不意にひどく落ち着かない気分になった。
こんな虚無のような空間が中に広がっているとは思いもよらなかった。
「明かりをつける前に、一つ聞いてもいいかい?」
暗闇の中、彼がそっと呟いた。
その声は、どこか重々しく聞こえる。
「君は初めて私を見た時、どう思ったのかね?私を知らないにも関わらず、話を聞いてくれた」
「………」
それは自分にも、まだよく分かっていない事だった。
それを知るために、何度も彼に会ったのに、未だに分からない。
「ただ、胸を裂くような懐かしさに襲われたんです。
僕はいつまでも褪せないその気持ちの正体を知るために、あなたに会い続けていたのかもしれません」
きっと本当に、それだけだ。
あの哀しみと悦びが混ざった懐かしさ。
「そうか」
微笑みを含む返事がする。
「その答えを教えてあげよう」
意味深な言葉が、暗闇に不気味に響く。
一瞬背筋が寒くなった。
あんなに穏やかな彼の声なのに。
何だか自分が見知った彼の声ではないような気さえした。
「え……?」
不意に明かりがつく。
すぐにテーブルと椅子が目に入る。
だが、それはただの家具ではなかった。
「……!」
先程までは暗くて見えなかったが、照らし出されたそれはあまりに奇怪な形をしていた。
喉から悲鳴が漏れそうになるのを、なんとか堪えた。
この世にあってはいけないものだと、瞬時に理解できた。
椅子の四脚は人間の四肢…
背もたれは白い皮膚が張られ、座部は今にも脈打ちそうな筋が浮かぶ真っ赤な筋肉だ…
目の前に現れた椅子はよく見れば、全体が一人の人間の体を解体して、繋ぎあわせて作られているのだった。
椅子だけではない…
テーブルも、人間が変形させられていた。
両手両足が丁度、脚になるように胴から関節がはずされ、背がそのまま台になっていた。
テーブルの上に乗っていた皿もカップもフォークもスプーンも、磨かれた白骨だった。
「う…っ!」
異様な光景に僕は吐き気を催した。
椅子にも、テーブルにも、その人間の顔がついたままだった。
その顔は…
全て自分に似ていた。
それらは誰もが凄惨な姿にも関わらず、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「これは…!?」
目の前のものに耐えかねて、壁際に視線を移すと、棚があった。
そのベージュ色の棚も、よく見れば丁寧になめされた皮膚が表面に張られている。
その棚の上には、人間の腕を模した置物や、胴のトルソーや、自分にそっくりな人間の頭のオブジェがあった。
それが、彫刻やレプリカでは決してない事はすぐにわかった。
「驚いたかね?これは全て前世の君の体で作ったんだよ」
朗らかな笑顔を浮かべたまま、彼が囁いた。
「僕の…前世……?あなたは何なの…?」
壁に映し出された彼の影には、烏のように黒々とした翼が広がっている。
あの上品な服も今は、背後の影に溶け込んでしまうかのような、不気味な漆黒に替わっていた。
恐ろしい夢を見ているようだった。
だが、こみ上げてくる胃酸の苦い味は、本物だ。
「君が今、思ったようなものだよ。人間ではないものさ。君の一番最初の世で、君の魂は私への生贄として捧げられた。
そのまま君の魂を永遠に側において、仕えてもらっても良かった。
だが、君の美しい体だけで自分の家を作りたいと思って、君の魂を人間界に置いたままにしているんだよ」
人懐こい茶色だった彼の瞳が、赤茶に変わり、やがて血のような色に変わっていった。
「生きたまま、内臓を抜き取って、皮を剥いで、骨格を組み直して、肉を張り付けて…その度に君は可愛らしく歌ってくれた」
にわかには信じがたいが、恐ろしい光景を目前にして、僕は入り口の方に後退りしていた。
「君が様々な時代に新しく生まれ変わる度に、私は君を探して、見つけ出して、ずっと君を追いかけてきた。
ちょっとしたゲームだな。また無事に君を手に入れる事ができて嬉しいよ。君だけに囲まれて暮らしたいんだ」
後退りしていても、その爛々と輝く赤い目に見つめられると、僕は動けなくなった。
それに、確かにそこにあったはずの入り口の扉も、どこにも見当たらない。
きっと、あの霧の中を抜けたときから、僕はもうどこか別の世界に足を踏み入れてしまっていたのかもしれない。
「逃げられはしないよ。君は幾世紀も前から、私の所有物なのだからね。
人が生まれ変わる時は、天界から来世への門をくぐるが、君の魂が来世に行くときにくぐるのは地獄にある門だ」
いつの間にか、すぐ目の前に来ていた彼に抱き上げられる。
「嫌……!」
次の瞬間には、別の部屋に移動していた。
未だ動けずにいる僕の服を、彼がゆっくり脱がせていく。
「今度の生も、美しい体だね。君はある時代では王子だったり神父だったり、また別の時代では性奴隷だったのだよ」
裸に剥かれた体を、同じように人間の体で作られたベッドに寝かされる。
首はついていなかったが、前世の自分以外の誰でもないことはすぐにわかる。
「このベッドは一番大掛かりだったよ」
ベッドの脚はテーブルと違い、低くなるように四肢は膝と肘の部分で切り取られていた。
「胴をそのまま寝台に使うには、面積が足りなかった。
だから骨を全て除去した後、胴体を背中に平行にスライスして、筋肉を繋ぎ合わせたんだよ。
表面積が増えたから、切り取った四肢の皮膚を足しても、寝台の裏まで革張りすることはできなかったのが心残りだったがね」
僕は震えながらグロテスクな説明を聞いた。
だが、その話はまだ終わらない。
「このベッドには、先程の椅子やテーブルのように頭がついてないだろう?首はベッドランプにしたからね」
首骨に繋がる脊髄が、弧を描くランプの柱となっていた。
頭の皮膚は、きれいに剥がされ、シェードとして使われている。
光を灯すと、表面に毛細血管のラインが浮かび上がった。
「や………」
その恐ろしいベッドの上に大の字に、人形のように寝かせられる。
開かされた足の間に、彼が入ってきた。
「どうして…お願いです…止めてください…助けて……」
動かせない体に力を込めながら、僕は必死に叫んだ。
不気味な光景を思い出して、頬を涙が伝った。
あんなに無惨に、殺されていく事を知っているのに、逃げ出す事ができない。
「どうして、だと?聞きたいのはこちらの方だ。
いつか朽ちて果てていく脆い人間の肉体を、最も美しい瞬間で、永遠にとどめてあげようとしているのだがね」
彼が手を止めることはなかった。
こんなおぞましい事を考えていた者を慕っていたなんて…
だが、後悔しても遅かった。
「君はヴァイオリンにする事に決めたよ。君の演奏は素晴らしかった…」
巨大なはさみのような金属の器具を取り出した彼に、右腕の付け根にそれをはめられる。
「ひぃ……ッ!」
「人間が生み出すものよりも、遥かに切れ味は上だよ」
そう言って彼が、紙を切るときと同じように、その器具を動かした。
ごとりと、右腕が床に落ちた。
赤い血が後に続くように噴出す。
「や…ぁがあ……ッ!」
感じることすらできない程の極限の痛みに、僕は失禁していた。
「ああ、先に用を済ませてあげておけば良かったね」
迸る尿を眺めながら、彼は申し訳無さそうに困惑した表情を見せた。
「ぁ…ぐ……」
慰めるように、流れ続ける涙を舐め取りながら、彼は僕の残りの腕や足を手際よく切断していく。
「ぎ…ぁ……あぐぅ……ッ!」
「久しぶりに君の血を味わえるよ。甘くて美味だ」
零れ出す僕の鮮血を、彼は愛しそうに飲み干していた。
「胴だけにしてしまえば、ヴァイオリンのボディラインに似ているね」
次は内臓を綺麗に抜き取って、体の中を空洞にしよう…
切断した四肢の止血をしながら、そう彼が囁くのが聞こえる。
「ぁ……っひぎ…あ……ッ」
朦朧とした意識の中、不意に自分の中で、あの不思議な懐かしさが再びあふれ出した。
こんなにも痛くて苦しいのに、いつの間にか、僕は穏やかな気持ちになっていく自分に気づいた。
あの椅子やテーブルについていた頭の表情と同じように。
自分にも分からない。
あんなにも、理不尽な事への怒りや、未来への恐怖や、後悔や哀しみが心を埋めていたのに。
ただ、何も知らなくても、熱く疼き始める魂が覚えていた。
服従させられ続けてきた事への哀しみや、その中でも芽生えてしまったこの人への忠誠心や、奇妙な愛情のようなものを。
家に帰らなければならない事も、両親の事も、学校の宿題の事も、僕はいつの間にか忘れていた。
そんな事は、魂に刻み込まれた膨大な過去の記憶の前には無に等しかった。
「愛しているよ、ずっと昔から。これからも私の側で美しい音色を奏でてくれ給え」
この部屋に刻み込まれた、幾つもの過去の記憶が蘇る。
今まで何度繰り返されたのだろうか?
彼らの、僕らの、過去と現在の悲鳴と恍惚とした喘ぎ声が、時間を越えて、カノンの旋律のように奏でられていた。
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