「父上…!!」 一心に馬を走らせ、僕は故郷で自分の帰りを待ちわびているであろう父の顔を思い浮かべていた。心に重く積もっていく不安を振り払いながら、ギュッと手綱を握り締めた――― 『フェレ公爵危篤』の報せを受けたのはオスティア領に差し掛かったときだった。 亡き父親の跡を継いで公爵となった幼馴染、リリーナに挨拶をしてから戻ろうとオスティア城に向かいかけたとき、血相を変えて一人の騎士が目の前に躍り出た。それは自分の家の――フェレ家に仕える騎士の姿だった。 「ど、どうなさったんですか!?」 傍らに控えていた弓兵のウォルトが、驚いてその騎士に駆け寄った。騎士は呼吸を整え、動転した様子で言葉を紡ぎだした。 「ロイ様、急いでフェレへお戻り下さい…え、エリウッド様が…!」 「!? …父上がどうしたの?」 必死に訴えかける騎士の言葉に同様が走ったけど、すぐにそれは心の奥にしまい込んだ。取り乱している場合じゃないから。詳しい話を聞いて、事実関係を把握しないといけないから。 すぐにでも駆け出したい衝動を抑えて静かに騎士に歩み寄った。彼の前に膝をつき、そっと顔を覗き込む。不安に押し潰されそうになりながら、じっと彼の答えを待った。 一瞬彼は躊躇ったようだった。遠慮がちに視線を逸らし、瞳を伏せて僕の顔を見ないようにさえした。そして、彼の口からたった一言、だが途轍もない重みを持つ言葉が零れ落ちた。 「エリウッド様が…危篤状態に…」 「………!?」 時が止まったような気がした。視界がぐらりと歪んだ気がした。全ての音が遠くなった気がした。そして同じように冷水を浴びたように硬直していたウォルトがが、一番早く我に返った。 「ロイ様、早く戻りましょう!」 彼の声に、周りの者達もハッと我に返った。数人いる騎士の中でも一際鮮やかな真紅の鎧を纏った騎士が、慌てて口を開いた。 「そ、そうです…ウォルトの言う通りですよ。急いで戻りましょう!!」 「ロイ様!」 ウォルトは、動きを取れない僕の肩を掴んで、自分の方に向けさせた。彼の真剣な眼差しが、思考停止していた僕を射抜く。 「…そう、そうだね。早く戻ろう…アレン、すぐに出発できる?」 まだ少し残っている混乱を抑えながら赤騎士に尋ねた。じっと見られ、先程口を開いた赤の騎士は隣に居た緑の騎士を見た。 「…ら、ランス…」 ランスはこくりと頷く。 「ええ、すぐに招集をかければ一時間ほどで出発できると思われます」 僕は休ませるつもりでいた馬の鬣をそっと撫でた。もう、心は決まっている。 「アレン、ランス、皆を集めてくれ。 …すぐにフェレへ戻る」 「はっ」 「了解いたしました」 二人の騎士が駆けて行くのを見届け、力なく栗毛の馬にもたれかかった。何をする気にもなれなくて、ただ栗毛の馬を撫でてやる事しかしなかった。それがウォルトにとってどうしようもない不安を掻き立てたようだった。 しばらく沈黙が続いた後、やっぱり彼が声をかけた。 「ロイ様…あの、きっと大丈夫ですよ。きっと…」 いつもならありがたく思う彼の言葉も、今の僕にとってはその場凌ぎの言い訳にしか聞こえなかった。 「…気休めは…いらないよ…」 思わず皮肉たっぷりにそう言い放った。ウォルトは何も言わずに、ただ驚いた様子で僕を見ていた。でも、数秒経って自分の言った事を後悔した。余りにも威力の大きすぎる爆弾を投げつけてしまったんだ。 「…申し訳ありません…」 少し掠れた声で、ウォルトは僕にそう謝った。必死に言葉を絞り出して、僕を気遣って怒りもせず、悲しみもせずに、機械的にそう言った。攻撃的な言葉に呆れたかもしれない。でも、あくまでも臣下として接してくる。 僕はそれがいやだった。そんな態度は止めろと、先の動乱の間もずっと言い続けてきた。その効果もあってか、二人で居る時は幾分マシになってきていたのに… ―――僕が、以前の彼に戻してしまった。 「ごめん…僕…」 「いいえ。僕にはロイ様がどんなに苦しんでおられるのかは分かりません。でも、お辛いという事は分かっていますから…」 そう言ってウォルトは笑った。悲しそうに。一生懸命なその微笑が、僕の心を締め付けた。 ―――…不安なのは僕だけじゃないのに。 「ありがとう、ウォルト」 「どういたしまして」 自分でも訳が分からないほど唐突に口をついて出た感謝の言葉。でもウォルトは悪戯っぽく笑った。それだけだった。 「ロイ様、全員揃いました」 「すぐ出発できますよ」 アレンとランスが戻ってきた。オスティアの街に散らばっていた騎士たちをかき集めて、すぐに出発できるように準備を整えて。彼らの額には、うっすらと汗が滲んでいた。 「すぐに戻ろう。父上のもとへ」 「「はっ」」 息の合った返事をし、部下たちに指示を飛ばし始める。パラパラと騎士たちが走り出した。そっと栗毛の馬を撫でて謝った後、静かに背に乗った。軽く腹を蹴って走り出す。父の待つ故郷へ、フェレへ向かって。 ろくに休まず、走り続けて何日経っただろう。それでも誰一人文句を言わなかった。時々休憩しても殆どは馬を労わってやるか自身が休憩するばかりで、報せを受ける前までの、酒場に通ったり街へ外出したりするといった行動はめっきりなくなっていた。 みんな、一刻も早くフェレへ帰りたいという気持ちに駆られていたのか、僕を気遣ってくれているのかは分からないけど、苦情を出さずに付いてきてくれている事がとてもありがたかった。 でも、不安が消える事は一時も無い。時が経てば経つほど色濃くなっていくばかり。 ―――もっと早く、もっと早く…ああ、いっそフェレまで飛んで帰れたら… ずっと前を見続けながら故郷に、父に思いを馳せてひたすら馬を走らせる。僕には周りの景色なんか見えていなかった。ただ早く帰りたいと、その一心で駆けていた。 「ロイ様、まだ走らなければならないのですから、少しでも体を休めないと…」 僕達は何ヵ所目かの休憩場所にたどり着いた。もうすぐ、もうすぐ進めばフェレ領が見えてくる。急く心に落ち着き無く立っていると、ウォルトがコップに入った水を手に声をかけてきた。彼の手に収まった硝子のコップを見て、喉が渇いていたのを思い出した。 「…とは言っても、休んでなんかいられないですよね。お水です。どうぞ」 「ありがとう…」 ウォルトの心遣いに、僕は少し心が軽くなった。ぐいっとコップの中の水を一気に呷ると、冷たい水が乾いた喉にひんやりとした感覚を残す。僕の心の中に凝り固まった不安を、この水が溶かし出してくれたように思えて、フゥ、と小さく息をついた。 ―――もう少し走れば、父上に会える。 父は今まで床に臥していながらも元気そうに見えた。だから僕はオスティア、エトルリア、ベルン、ナバタの里…色々なところを心配せずに回っていられた。でも、甘えすぎていたんだ… 「…父上…」 改めて考えると情けなくて、思わず目を伏せた。 「…僕はこれで。少しでもお休みになってくださいね」 ウォルトは小さくそう言って焚き火の明かりの方へ歩いていった。一人になるとますます落ち着かない。こうしているのもなんなので、辺りを散策する事にした。 暗い草原。空を見上げれば月は無い。 ―――ああ、そういえば今夜は新月だったっけ。 そんな事を考えながら歩いていると、誰かに呼ばれた気がした。ウォルトかと思って辺りを見回してみても誰もいなかった。気のせいかと思って歩き出すと、今度は緑色の光が目に入った。その淡緑の輝きを見ると妙に懐かしいような気がして、半ば反射的に父の事を思い出していた。 「父上…」 ―――故郷へ、フェレへ戻りたい… 月の無い空に何かを求めるように手を伸ばした。その手が淡緑の輝きに包まれて、ぐっと空に近付いた。同じ色の光は僕の体を包み、どんどん変化させていった。腕や足は淡緑の鱗に覆われ、地面が遥か下に見える。この姿は―――人ならざるもの。 ―――…竜。でもこれなら…フェレへ帰れる。 どうして竜の姿になったのか。そんな疑問も忘れて、僕は夢中で宙を駆けた。前へ、前へ。ただひたすら父の元へ。今宵は新月。幸い誰にも見られてはいないみたいだった。もしこの姿を見た者がいたなら、きっと下は大騒ぎになっている筈だから。 焚き火の明かりに背を向け、遠ざかって行く。フェレへ。父の許へ。 ****** 「………」 白く靄がかかったような場所。川原でもなく雪原でもない。何も無い場所。でも其処に二つの影があった。一つは会いたくて堪らなかった父。そして人ならざるものの姿をとった僕。でも、父は僕の事が分からないかもしれない。僕が竜の姿をとっているなんて、想像出来ないだろうから。 「ロイ、よく来たね…」 でも父は迷わず僕の名を呼んだ。嬉しそうに目を細め、いつもの優しい微笑を浮かべて、そっと僕の冷たい鱗に覆われた首を撫でた。その暖かい手の温もりが僕の体にじんわり伝わると、体が溶ける様に縮む。 ―――人の姿に、戻った。 「…あ…父上…僕…」 微笑む父の顔色は悪くなくて、僕はホッとした。そしたら何を言えばいいか分からなくなって言葉に詰まる。しどろもどろになりながらも体のほうはどうなのか、という旨を伝える事ができた。 でもその瞬間、父の顔から笑顔が消えた。驚いた僕はしばらく何も言えなくなってしまった。 とても健康そうに見えたのにそんなに体は悪かったのか、と思ってみたりもした。でも父の口から零れ落ちたのは意外な言葉だった。 「もう私の事は心配しなくていい」 「え…本当、ですか…!?」 思わず身を乗り出す。危篤状態だと聞いていたが、いつの間にか回復していたのだと思うと、笑みがこぼれた。久しぶりに笑ったので、ちょっと頬が引き攣りそうな気がする。 「ああ。死人の体を心配する必要は無いからな…」 父は少し淋しそうに言った。一方僕の方はと言うと、意味が理解できずに目を丸くして硬直していた。『死人』…それはつまり死んだ人のこと。父は、すでに死んでいるのだと自分で言った。だから自分の事を心配する必要は無いと。僕の目の前の父が確かに言った。悲しそうな瞳をしながら、僕を見てそう言った。 「でも、父上は今ここに…僕の目の前に居るではないですか!?」 意味が理解出来なくて、思わず父に詰め寄った。ううん、違う。理解できなかったんじゃない。理解したくなかったんだ。父が死んだなんて、冗談でだって聞きたくない。だから信じなかった。 「父上、冗談は止めてください!」 きっと悪い冗談なんだと、そうであって欲しいと願って、僕は次の言葉を待った。 「私は冗談など言ってはいない。いいか、ロイ? 私は…」 「………っ! 嘘だ! 冗談にしては悪質です、父上!!」 僕は分かっていた。父は冗談なんか言っていない事を。だって、後ろに… ―――ヘクトル様が、居る――― その青い髪と髭をたっぷりと蓄えた男性を見間違えるはずは無かった。父の親友であり、僕の幼馴染であるリリーナの父。そして彼の最後を看取ったのは、他ならない僕。確かにヘクトル様は亡くなっている。 「…エリウッド」 そのヘクトル様が声をかけた。 「ああ、分かってる」 父は彼の方を向いて返事をした。 ―――やめてください、ヘクトル様。 「そろそろいかねぇと。つらいのは分かるが…」 不意に手を伸ばした。父も静かに頷く。 ―――やめてください… 「あんまり長居すると、名残惜しくなっちまうぜ」 僕の前の話し方と違う事にも気が回らなかった。 ―――お願いです、ヘクトル様。 「ほら、皆待ってる」 父がヘクトル様の手を取った。 ―――父上を連れて行かないで… 「父上…っ! 行かないで下さいッ!!!」 ここぞとばかりに父のマントを掴んだ。聞き分けの悪い僕を、父はどう思うだろう。恐る恐る顔を上げると、そこには僕の知る父の顔は無かった。 「…え?」 そこに居たのは炎の様な赤い髪に、空の様な青い瞳を持った一人の青年だった。今度こそ訳が分からなくてポカンと彼の顔を見つめる。青年は困った様に笑い、腰を屈めて僕の顔を覗き込んだ。 「泣かなくてもいいんだよ、ロイ。お前は一人じゃない。お前がこちら側に来てしまう時まで、私はお前を見守っていよう…」 そう言って青年の手が僕の髪を撫でた。 「父…上…?」 嗚咽を必死に押し堪えてたった一言、絞り出すように父を呼んだ。青年の姿をした父は優しく微笑み、そっと僕を抱きしめた。涙が溢れ出しそうになるのを必死に堪えて言葉を探す。 でも何も出てこない。 そうこうしている間に父の体が離れ、僕から遠ざかる。その姿を目で追おうと顔を上げた。 「…えっ。ヘクトル様…?」 父に再び手を差し伸べているヘクトル様には、トレードマークともとれる髭が全くなかった。それどころか父同様青年の姿に戻ってしまっている。その周りには数人の人々が立っていた。その中には見知った顔もあったし、きっと昔、父と共に戦った人々なんだろう。 子供の頃、レベッカに聞かせて貰ったお話。殆どの人々には知られていない、世界を救う戦いを駆け抜けた人たち。僕も全ては聞かせて貰えなかったお話の人たち。ずっと、ずっと、父を見守っていたのだろう。 「ロイ、強く生きなさい。お前を支えてくれる人は沢山居る。そちら側にも、こちら側にも」 「…はい。皆が居るから…頑張れます。きっと」 まだハッキリとは言い切れないけれど、決心を胸に頷く。父はそれを見ると穏やかな笑顔で頷き、僕に背を向けた。一度も振り返る事無く歩き続け、やがて仲間たちと共に白い空間に溶ける様に消えた… ****** 「…ま。 …ロイ様!!」 聞き覚えのある声。心なしか必死な様子に聞こえる。うっすら目を開けてみると、心配そうな顔で覗き込んでいる顔があった。 「ん…ウォルト…?」 ハッキリと意識が覚醒すると、首に圧迫感を感じたきがした。よく見てみれば、ウォルトが力一杯僕の首にしがみ付いていた。本人は嬉しさのあまり、といった所だろうけど、僕の方はなかなか苦しくて彼の手を振りほどこうと必死だった。 「ああっ、よかった…よかったです! お姿が見えないので探していたら、こんなところに倒れていらっしゃって…」 「倒れてた…の? ここに?」 「そうですよ! 心配したんですからねッ!! だからあれほど無理はなさらないで下さいって言ったのに。ちょっと僕が目を離すと…」 未だ状況が飲み込めずにキョトンとしている僕に、ウォルトは早口でまくし立てた。さっきまでの安堵の笑顔から一変、厳しい表情で説教してくる。 「ここで倒れるまで何をしていらしたんですか!?」 厳しい表情を崩さず詰め寄ってくる。その勢いに気圧された僕は、咄嗟に誤魔化そうと口を開いた。 「えっと…ぼーっと空を見てたら眠くなってきて。ついウトウト…」 「ロイ様―――ッ!!」 ウォルトがこれでもかと言うほど怒鳴る。僕は思わず耳を塞いだ。 「ごめんごめん。今度から気をつけるよ」 「ホントですよ、全く。その格好で明け方まで眠っていらしたんじゃ、風邪を引いてしまいますよ」 「明け方…」 朝まで眠りこけていたらしい。目を丸くして周りを見回す僕をよそに、眉間にしわを寄せ、ビシッと僕を指差した。でもすぐに安堵の表情に戻って、「心配して損しました」と溜め息をついた。すっくと立ち上がると、何か思い出したようにこっちを見る。 「もうそろそろ出発出来ますよ。睡眠はバッチリですよね」 「うん、そうだね」 ―――怖い。フェレに戻るのが怖い。あれは、夢には思えない… 一抹の不安を抱えながら、それでも微かな希望を信じて、騎士たちが出発準備をしている所へ向かった。 ―――…やっぱり、あれは夢じゃなかった。 フェレについて僕を迎えたのは浮かない顔のマリナス。いつもならどんな事があったのかと色々聞きたがるけど、今日はそんな事はしなかった。そんな彼の様子を見れば、大体の予想はついてしまう。 「…ロイ様…実は…」 実に言いにくそうに口を動かす。いいんだマリナス。分かってるから。何が起こっているかは分かっているから。 「父上は、寝室?」 それでも気にしないように尋ねてみる。一瞬躊躇った後、「はい…」と小さく返事をした。 寝台に横たわっている父の顔は安らかだった。病で苦しんだはずなのに、何事も無かったような、むしろ微笑んでいるようにも見える顔で眠っていた。それでもやつれた頬が痛々しくて、それだけでも悲しさと申し訳なさが込み上げてくる。間に合わなかった。あちこちを回っているうちに、遂には親の死に目にも会えなかった。 それでも心に残る暖かいものは何なんだろう。心の中に息づく「強く生きなさい」という言葉は何なんだろう。夢にしては出来すぎている、あの思い出の中で出会った父は何だったんだろう。 泣けなかった。涙が出なかった。周りで家臣たちが泣いている中、僕は一人じっと父を見つめていた。亡くなったんだと分かっていても、やっぱり実感が無くて。例え夢でもさっきまで会話をしていたから、すぐに目を開けて話しかけてくれそうな気がして。 「…父上」 その言葉だけが、口をついて出た。 悲しくないわけじゃない。心が痛まないわけじゃない。辛くないわけじゃない。 ただ、泣けないだけ。 「ロイ」 背後からかけられた声の主はリリーナだった。ゆっくりと僕の方へ歩み寄り、心配そうに顔を覗き込んだ。彼女の青く澄んだ瞳が硬い表情の僕を映し出す。 「大丈夫? 顔色が悪いわ…」 ―――ああ、僕はこんな顔をしてるんだな…情けない、顔。 「本当にリリーナ…? どうしてここに…」 「おじ様のお見舞いに来たのだけれど、急に容態が悪化されて…」 目を伏せがちに言う。でもリリーナの瞳が幾分潤んでいるのが分かった。泣きそうになるのを押さえるように、肩を震わせている。数年前の動乱で彼女の父、ヘクトル様が亡くなった時の様に。だけど僕はその時よりも落ち着いていた。どうしてだろう。あんなに父に会いたかったのに。体の具合を思うと悲しくなったり、不安になったりしたのに。 父の死を知った僕は、今までよりずっと悲しいのに。それでも涙は出ない。声を上げる事も出来ない。 ―――父上は微笑んでいた。大丈夫だって言うと、安心したように微笑んでくれたんだ。だから、僕は泣けない… それでも、今にも泣きそうなリリーナの顔を見ていると釣られて泣きそうになった。慌てて寝室を出て、僕の部屋へ向かう。あそこなら、誰も追ってこないはず。 「…ロイ…」 遠くで、リリーナがそう呟いた気がした。 「………」 僕の部屋のバルコニーから見える薄暗い中庭を、じっと見下ろしていた。部屋に逃げ込んだのはいいけど、目に付く物には父との思い出が詰まっている。それらを見て、じわじわと込み上げてくる悲しみや涙を押さえ込む自信は、欠片も無かった。中庭だって思い出があるといえばあるけれど、ウォルトや他の騎士たちとの訓練の方が印象深くて、何とか平静を保っていられた。 小さく溜め息を吐いた時、控えめなノックの音が部屋に響いた。 「…ロイ、少しいい…?」 躊躇いがちに、控えめに、気遣わしげにドアの向こうから尋ねてきた。その声の主は間違いなくリリーナだ。そっと戸を開けてみると、やっぱり彼女の姿があった。 「リリーナ…いいよ、入って」 本当は昔の思い出を思い出してしまいそうで入って欲しくなかったけれど、心配して追ってきてくれただろう彼女を、無下に追い返す事なんか出来なかった。それでも出来るだけ顔を見ないように視線を中庭に泳がせる。 リリーナもどうすればいいのか迷っているらしくて、ずっと俯いて床を見ていた。少し有難かったけれど、しばらくすればその沈黙はどんどん気まずくなっていく。 「あのね、ロイ…」 不意にリリーナが顔を上げて僕の方を見た。 「あの動乱のとき、お父様が亡くなったって貴方が教えてくれたとき、私、とっても悲しかったわ」 「…当然だよ。親が亡くなって悲しまない子供なんて、いる訳ないんだから…」 潤みきって今にも泣き出しそうな顔から視線を微妙に外しつつ、僕は答えた。そんな態度を知ってか知らずか、気に留める様子も無くリリーナは続ける。 「でもね…ロイが私に無理しなくていいって言ってくれたとき、すごく嬉しかったわ。一人じゃないんだって、思ったから」 「………」 何となく、彼女が言おうとしている事が分かった気がした。 「だからロイ、貴方も無理はしないで。一人で抱え込まないで。せめて私の前では…我慢しないで…」 もう涙が溢れかけている瞳で僕に訴えかける。 「貴方は…一人じゃないんだから…」 リリーナの瞳から、光るものが零れ落ちた。それを皮切りにして、次から次へと大粒の涙が落ちていく。堪えていた涙が一気に溢れ出したようで、彼女は大慌てで涙を拭う。でも、それが止まる事はなかった。 「もうっ…私が泣いてどうするのかしら! 私、より、ロイの方が…っ悲しいはず…なのにっ…」 言葉を絞り出せば出すほど涙は溢れて、収集が付かなくなってしまったらしい。リリーナは僕に背を向けて、必死に腕を動かしていた。多分、涙を拭い取っているんだろう。 「リリーナ…」 「ご、ごめんなさい…励まそうと思って来たのに、これじゃ逆だわ…」 未だに涙を拭いながらも、振り返ってぎこちない笑顔を浮かべる。動揺しながらも気丈に振舞おうとした、あの時の様に… 「ごめんなさいっ…私…こんな時に役に立てなくて…ごめんなさ…」 「ありがとう…」 バルコニーに出ようとしたリリーナの肩を、そっと抱き寄せた。ビクッと体が硬直したのが伝わってくる。しばらく、僕もリリーナも動かなかった。部屋を吹き抜ける風の音だけが耳に届く。 「泣いてくれてありがとう、リリーナ」 ぽつりと、僕が呟いた。 「僕は泣けない。約束があるから…」 強くなると、約束したから。 「…約…束?」 やっと、リリーナが声を出した。恐る恐る僕の方を向いて、涙で一杯の視線を戸惑わせながら。それでも僕は彼女と視線を合わせる事なく、中庭を見ながら言った。 「だから、泣けない僕の代わりに…泣いて欲しい…」 「ロイ…何だか…変よ…っ」 「ごめん…」 僕を咎めながらも、リリーナはもう涙が溢れていた。謝った瞬間に視線が合い、リリーナの青い瞳から大きな涙が再びボロボロと零れ落ち始める。彼女の額が肩にもたれかかり、ほっそりとした手が僕の服を掴んだ。彼女の肩を抱きしめると細かく震えていた。一生懸命に声を抑えながら涙を流していた。 「私の前では無理…しないで…」 リリーナがポツリと言った。 「分かってるよ。でも、こればっかりは譲れない…」 「…頑固者…」 僕が答えると、リリーナは一生懸命皮肉たっぷりに言った。でも、すぐに声が途切れて嗚咽に変わる。 ―――泣けないんだ。約束…したから。 俯いていると泣いてしまいそうで、顔を上げて夜空を見た。一筋の流れ星が濃紺の空を流れていく。 一筋の涙が、僕の頬を流れていった… |
終戦後しばらく経っていて、あちこち飛び回っていたロイが父親危篤の報せを受ける… という、ありがちの様なそうでない様な設定です。 ベストエンディング(?)でナバタに行くあの場面を見ていて思いついた小説で、 書き始めると結構すんなり書き上がった物。 色々辛いことがあった二人には、幸せになってほしいです。 |