あなたがくれる春

(1)
 春めいてきたとはいえ夜の空気はまだ冷たく容赦無い風が吹きつけて、薄着の少年は
冷えて痛む耳を両手で包んで身震いした。

「う〜〜。寒っ」
――もう…ヒカル、もう少し着込んだ方がいいと言ったでしょう?
――だって出る時はあったかかったもん。
――夜になれば冷えるのは当たり前でしょう。全くその場その場でしか考えないんですから。
――検討こんなに遅くなると思わなかったんだよっ。

少年が美しい幽霊と頭の中で喧嘩していることなど解らないサラリーマンは、あらぬ方を
見据えて時折拗ねた風な顔になる子どもを胡散臭く思いながらその横を通り過ぎた。
早足気味なのは別に子どもが気味悪いからではなく、早くこの寒さから逃れたいだけだ。
彼にも少年にも、帰りを待つ暖かなわが家がある。



遅くなるのに電話もしなかったと怒る母親は軽く遣り過ごして、まず風呂に入ることにした。
冷え切った身体で飛び込む熱いお湯はじんじんと肌を痺れさせて、逆に冷たい水に晒されている
ような感覚を与える。
しかしそれもつかの間、すぐに暖かさが足の先までしみ通ってヒカルは心地良さに息を吐いた。 
気持ちいいな。――にも…。
――ああ…、 暖かい。
「え?!」
二人で入る広さも必要も無いので佐為は湯船の外に控えているのが常だ。勿論今も。
たとえお湯の中にいたとしても、生身でない彼には何も感じられないはずだった。

(2)
「佐為?お前…あったかいの解るのか?」
――ええ。解ります、感じます。
「え…え?だって、お前…」
ヒカルの言いたいことはよく解る。どんな刺激も感触も自分は欠片ほども得ることはない、
その事実を常に突きつけられていた佐為なのだから。
――私が一番驚いていますよ。もう…「感じる」など二度と無いと思っていました。
「じゃ、ほんとに感じれるんだ?ていうか何で?」
佐為はふわりと微笑んだ。花が開くようなとはこの笑みのためにある言葉だろう。
――たぶんね、ヒカル。あなたのおかげですよ。
  今、私にもこの気持ち良さ味わわせてやりたいって思ったでしょう?
「うん…思ったけど?」
――そう望めば伝わるようですね。あなたの感覚が。
「へえ〜。そんなことできるんだオレ。うわぁ、すっげえ。」
ヒカルは興奮してお湯にばしゃりと沈んだ。
そうかそうか、解るのか。すげえなあ、嬉しいなあ。
死して一切の感覚を失った彼が、風のそよぎひとつ感じられずに嘆いているのをヒカルも察していた。
この美しい人は、誰にも見てもらえず何にも触れられず空気よりも軽いのだ。
ヒカルはいつもそれが悲しかった。
それが今、彼は暖かいと言っている。自分のおかげだと言う。叫びたいほど嬉しい。

洗い場は寒いので髪と身体を急いで洗い流し、それでも冷えてしまった身体を再び湯に沈める。
「へへ、佐為。気持ち良い?」
――はいっ。とーっても♪
にっこりと笑み交わす二人の間には穏やかな情が満ちていた。
「じゃあ次は、おフロあがりの牛乳も飲ませてやる!」
飛沫とともに立ちあがったヒカルは浴槽で脛を強かに打ちつけ、縁に縋ってうめいた。
この痛みは自分だけで留めるつもりだったが、痛みも懐かしい感じてみたいとせがまれて、
仕方ないので伝えてみる。
――うわぁ痛い。痛いです、嬉しい…
痛くて喜ぶ人を初めて見た。彼の千年を思って、ヒカルは改めて切なくなった。

(3)
――佐為、鶏肉の唐揚げ。美味しい?
――わあ、美味しい。初めて食べました。
――お米も久しぶりだろ。わかめのお味噌汁どう?
――懐かしい味です。お米って甘いのでしたね。あ、ヒカル、もっとよく噛んで。
――はいはい。

一口一口、美味しい?と訊きながら口に運ぶのは何とも言えず優しい気持ちが溢れ出る。
お腹に赤ちゃんがいる人は、きっとこんな気持ちでご飯を食べているのだろう。

――誰が赤ちゃんですか。
――んー、オレそんな事言った?
――もう。

だけど、今までこんなことは無かった。いつの間に出来るようになったのだろう?

―― 一緒にいるようになってから長いからかなー?でもまだ1年ちょいか。
   なあ、虎次郎とは何十年もいたんだろ?その時もこうだった?
――いえ、こんなこと一度もありませんでした。
――ふーん?不思議だな。なんでオレだけなんだろ。
―― ……ええ、…どうしてでしょうね。

本当は解っている。佐為だけは解っている。
 それはね、ヒカル。きっと、私があなたを―――……
佐為は、甘い痺れとともにその言葉を抱きしめた。

(4)
――ねえヒカル、私の一番触れたいもの何だと思います?
――お前の一番?…わかった、オッケー、待ってろ。
「ごちそーさまっ」


「えへへ。これだろ?」
戸をきっちり閉めればそこはヒカルと佐為だけの空間になる。もう閉じ込める必要の無くなった
笑みと言葉が零れ出して部屋を満たした。
碁盤の前に胡座をかいてゆっくり碁笥を開ける。
「佐為、触るよ?」
息を止めて指先に集中する。いつも無造作に掴んでいた小さな石が、今は何より神聖。
指先の薄い皮膚がまず触れ。ひんやりと静かな碁石をなぞる。つまんで挟んで、盤上へ。
ぱちりと音高く打ちつける。指に響く、微かな衝撃。
ヒカルは心の全てで佐為を、思った。
一連の動作は儀式のように重厚な空気でヒカルを縛り、首を持ち上げるのにさえ力を要した。
何も知らなかった幼い日、無邪気に無神経に碁を貶しめていた。今は思い返すたびに羞恥と
後悔が全身を焼く。碁への情熱も崇拝も、何もかも目の前のこの棋士が教えてくれた。
その彼にこの感触を伝えること、これ以上の幸せがあるだろうか。

「ふう。なあ、どうだった?ずっとこうしたかったろ?」
――ええ。何といとおしい手触りでしょう。もう永遠に叶わないと思っていました。
  ありがとうヒカル。とてもとても幸せです。
「良かったな。もっと打とうか?」
――ありがとう。でもね、これは2番目なんです。
「えぇ?」

(5)
ずっとくっついて過ごしてきてわかったのは、彼の心が恐ろしいまでに碁の虜だということ。
最優先されるのは常に碁でありその他の一切に執着がないのだ。
「お前に、碁石より大切なものなんてあるの?」
そう言うと形良い唇が苦笑の形に歪んだ。
――ありますよ。たった一つ。
「え、何?何?」


 ――  あなたです。


 「……  佐為  」


急に部屋の空気が変わってしまった。それはけして不快ではなかったが、なんだかいたたまれ
なくて目線を落とす。先の溶けた足が目に入って瞬いてもその白が瞳の裏に眩しく残った。

「…うん。」
胸がくすぐったい、手と頬が変に熱い。どうしてこんなに動揺してるんだろう。
なんでもないふりをして自分の頭に手をやると一撫でして佐為を仰ぐ。
「どう?」
おかしなことを訊いていると思う。自分の感じた通りにしか伝わらないのだから。
だけど知りたい。彼の手に、自分は何を残せるのだろう。

(6)
――ふわふわしてます。それと、ひんやり。

ずっと触れたかった。小さな宝、愛しいあなた。真に己の手で触れられたのではないけれど、
この手に彼が伝わる。今、確かに佐為の望みが叶っていた。

佐為の手がふっくらした頬に下りる。彼の動きを追って小さな手がそこをぽんぽん叩いた。
――ふふ、柔らかい。…暖かい。
「そう?」
心を佐為に向けたまま自分の身体を撫でていくのは何だか妙で、誰に触れられているのか
誰を撫でているのかが混濁してくる。
佐為の両腕で包み込まれた瞬間、ヒカルの中で小さな爆発が起きた。
今、この手と身体は佐為のもの。
瞳を閉じる。力を込めて佐為ごと己を抱きしめた。


――ヒカル

顔を上げると黒い瞳の輝きに射ぬかれる。
「佐為」
紅い唇が花弁のように舞い降りた。


閉じた瞳の向こうの相手を見つめ、二人は心と心でキスをした。




(7)
春らしくも無い冷たい風に誰もが顔をしかめて歩く中、背の伸びた少年が月の下でぼんやり佇む。

「寒いな。」
また薄い方の上着で出てしまった。手袋をしていない手も無防備な首も氷のようだ。
「さむいよ…」
振り返っても、叱ってくれる人はもういない。少年を囲むのはただただ暗い夜。

首をすくめて歩き出す。早足のサラリーマンが靴音高く少年を抜き去った。
こんな夜は、あの日のキスを思い出す。


昔、自分の中に奇跡のように美しい人がいた。
今はからっぽになったそこで、思い出だけが変わらず優しい。
思い出を辿れば彼と過ごした日々は全てが優しい春のよう。
いつでも二人だった。

見上げれば、端の掠れた寂しい光。
月もひとり。

「佐為」
いとおしい旋律をなぞれば胸の奥からじんと暖まる。
「佐為、佐為…」
呼ぶたびに彼がぬくもりとなって会いに来てくれる。この瞬間、あなたとふたり。
あなたのぬくもりに生かされて、今年もまた春を迎える。


微かに花の香が混じる向かい風の中、少年はまっすぐに歩いていった。 


―了―

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