お茶ランチ
(1)
打掛を告げるブザーが鳴り対局場には一気に衣擦れの音が充満した。
もう慣れっことはいえ長時間の正座が全く辛くないわけではない。
歩く動作は皆どこかよたよたしている。中には腰をバキボキ鳴らす者もいた。
棋士とは地味な苦労も背負った戦士なのである。そんな中で一人しゃんと背筋を
伸ばして澱みなく歩く塔矢アキラからは『凛々オーラ』とでも形容したくなる
ビッシビシの空気が醸し出されて、まさに掃き溜めに鶴という風であった。
アキラの足は皆が昼食をとっている大部屋ではなく廊下に向かいそのまま階段を
降りていった。見た目に表れないだけで、アキラだってずっと同じ姿勢でいれば
多少なりとも苦痛を感じるのだ。少し体を動かして血の巡りをスムーズにしたかった。
廊下の片隅の自販機で冷たいお茶を買う。いつものように、これが彼の昼食だ。
アキラが対局中食事をとらないことはもう有名でよく理由を聞かれた。週間碁など
では『塔矢アキラの強さの鍵?』なんて下らないコラムのネタにもされた。
別にゲンをかついでいるわけではないし物を食べたからって碁が鈍くなったりも
しない。ただ、食べたいと思わないからそうしているだけだ。アキラは一度頭を
下げて打ち始めたら、終局するまで他の一切の欲が感じられないのである。
繰り広げられる石の戦いだけが彼の全てになった。
『えーっ。じゃあオマエさー、そういう時にオレがHしよ―って言っても断るわけ?』
恋人の言葉がふいに甦ってアキラは渋い飲み物を口に含んだまま目を細めた。
(2)
『えっと…うーん、どう、だろう?』
何だか自分がひどく甲斐性なしのようで、答えはしどろもどろになったものだ。
『は〜っ、オマエひでーぞー。』
『あ、いや、キミがしたいと言ってくれるのを、無下に断ったりしないよ。
断るものか!………ただ…』
『何だよ?』
『断らないけど、もしかしたら…体勢が整わなくてキミを失望、させるかも…』
カイショウナシどころかナサケナイ。実に情けない。
『うわ〜。有り得ねー。え、じゃあじゃあ、対局中オレがすっぽんぽんになったら?
勃たねーの?!』
どんな非常事態ですか、それは。だが聞かれた質問には答えるのが礼儀である。
アキラは口元に手を当ててその優秀な頭を不埒なシミュレーションにフル活用した。
そんなことで才能の無駄使いするなよおお〜〜
優しい友達の悲痛な声がしたような気がした。
『…一度打ち始めてしまえば、もう何も感じないと思うよ…。特にキミと打ってる
ときは。どんな時より研ぎ澄まされて、夢中になるから。』
ヒカルは複雑そうな顔をした。前半は落胆する言葉だが、後半は最高に嬉しいのだ。
ヒカルがアキラにとって最高の相手だと言ったのだから。
『でももしかしたら、のめりこむ前の…その、最初からキミが裸だったなら、
勃つんじゃないだろうか。』
アキラはヒカルの機嫌が上に行くか下に行くかでさ迷っている内に上への援護射撃
を放った。せっかくの2人っきりの時間だ。彼の笑顔だけを、飽きるほど(5千年
かかっても不可能だが)見ていたい。ヒカルは顔をむずむずさせた後に噴き出した。
『ははは、全裸で【お願いします】?すげー。有り得ね―。オマエおもしれー。』
『いや、言い出したのはキミだぞ…』
笑わせるのと笑われるのとでは微妙に大きな壁の存在を感じるが、彼の笑顔が
輝くばかりなことに変わりはないのでアキラは文句を返しながらも満足だった。
(3)
しかしその後の思考の方向がいけなかった。アキラは、今自分が口にした状況が
どのようなものかを思い浮かべてしまったのだ。
全裸囲碁。ヒカルが服を脱いでいく。シャツを勢いよく抜き取って、あの恐ろしく
魅力的な胸が露わになる。ズボンと下着を一気に下ろす。そうして彼の真っ直ぐ
伸びた脚とその上の…が丸見えになる。
【すっぽんぽん】の彼が、ちょこんと座布団に正座してアキラを見る………
頭の中は桃色の対局風景が咲き乱れた。いけない、碁への冒涜だ…頭を振る。
するとそれが重いのに気がついた。血が上っている…。ということは顔が赤いのだろう。
どうしよう。ヒカルに気付かれたろうか。ちらと見て、また頭が重くなった。
彼の顔がまた素晴らしく桃色なのだ。大きな瞳が角度をつけてアキラを見てきた。
『…やってみねえ?』
ごくりと喉が鳴った。その音量に絶望する。
『……な、にを?』
『今言ったこと。なんか、想像したらおかしくなっちゃった。』
もう一度同じ音がした。顔が発熱している。ヒカルの唇がにぃと笑んだ。
『はい、決定―。碁盤出すぜー。』
ヒカルは上機嫌で碁盤の埃よけを剥がしに掛かる。そんな後姿を見ているだけで
勃ってしまいそうだ、なんて―――言えなかった。
『あ、オレだけじゃ不公平だから、オマエもすっぽんぽんだぜ?』
………萎えそうだなんてますます言えない。
その後のことを思い出しながらアキラは一気に冷たい液体を飲み干した。
囲碁暦15年、勃起しながら碁を打ったのは初めてだ。
(4)
そう、見事に勃ってしまったのだ。妄想したばかりの光景が、その通りに――いや、
それ以上の色気を纏って繰り広げられたのだから仕方ない、とアキラは自分を弁護する。
真昼間に男2人が全裸で向き合う奇妙さはもう感じられなかった。
だって、本当にちょこんと座ってくれたのだ。挑戦的に光る瞳でアキラを見て
お願いしますと言われた時にもう結果は知れていた。
花のような乳首がアキラに向いている。石を置くため僅かに身を乗り出せば可愛い
おへそが碁盤の向こうにちらちら見え隠れする。その気になればた易く
彼のふわふわした陰毛まで覗ける。
心臓が二つに増えた気がした。上と下とに。
その上、手が進めば更なる興奮が駆け巡ることとなった。彼と打つ碁は極上だ。
あの刀で切り合うような、互いの頭を割って脳を引きずり出すような激しい戦い。
ぴたりとはまる快感。
そう、この世で最もアキラを昂ぶらせるものの2つが2つとも、手を組むように
して襲いかかってきたのだ。未体験の快感は相乗効果で数倍に跳ねあがって体を
貫いた。勃起どころで済まない。もしかしたら、相手の打つ手に極まって碁盤を
汚してしまうかもしれない。そんな危惧さえも感じる余裕はなくなり、アキラは
この快絶の世界に深く熱くのめりこんでいった。
ヒカルも同じ世界に入りこんでいることは、体を見ればよく解った。全身を染めて、
吐息も甘く。時折アキラと視線を絡ませうっとりした笑みをたたえ、直後これでもか
というほど強烈にアキラの石を攻めた。ぞくぞくしながらそれを受け、ならばこう
してやると責め返す。隠そうともしないヒカルの歓喜が、アキラのそれへと移る。
2人は夢中でこの性交を超えたまじわりを貪った。
(5)
盤上の結果はアキラの辛勝だったがヒカルは悔しがらなかった。
『へっへー、勝ったぜ。オマエびんびんじゃん。』
『ボクの勝ちだよ。キミは乳首まで立ってるじゃないか。』
『オレはいいの。オマエが勃ったらオレの勝ち!』
『ずるいな。』
言い合いながら、2人とも笑っていた。
石をまだ片付けていないが我慢できない。取り敢えず慎重に慎重に碁盤を脇に
動かして、スペースを確保した。視線ははちきれんばかりの互いに向かう。
『すっげーぞくぞくきた。』
『ボクもだ。』
『もう限界…いっちゃうよ…』
『ボクもだ…進藤…』
体を引き寄せて彼を鷲掴み、根元から先に向かって強く手を動かした。
ただそれだけで白色の体液が飛び出す。鼻に抜ける声を出した彼がお返しとアキラ
を手に取り自分の腹に擦りつけた。
『……いい…よ…』
亀頭がへそに食い込んで、放たれた精液は小さな窪みからあっという間に溢れて
流れ落ちた。
体は恍惚の余韻で重く甘い。
ヒカルは少し困った顔をした。その理由はアキラにもよく解る。
『どーしよ、やみつきになっちゃうよ。』
『ああ、困ったな。』
『こんなことばっかりしてちゃ…まずいよなあ。ポートク?だよなあ。』
『ああ、冒涜だ。本当に困った。』
(6)
一大事だ。こんなに気持ち良いことを知ってしまったらくせになる。
『普通の碁がつまらなくなってしまいそうだ…物凄く困る。』
碁への敬意と誇りにかけて、そんな堕落は許せない。
『だよなあ。もうこれしちゃダメ…だな。』
『…まあ、落ちこむことも無いさ。普通のセックスでも… うんと気持ち良くして
あげるから…』
そう言ってアキラは美味しそうな乳首に吸いついた―――
不意に金属の味がして、アキラは回想から現実に戻ってきた。無意識に飲み終わった
缶の飲み口を吸ってしまっていたのに気付いて恥ずかしくなる。
もうこれきりと誓ったあの夢のような快楽は、やはり完全に封印するには余りに惜しく。
何度か禁を犯してしてしまい、彼と話し合った結果、忙しくてこの夜を限りに当分
会えなくなる――という時だけはやっちゃおうということになった。
『自分へのごほうびって流行りじゃん。オレ達だって、たまにはな。』
いつも会えれば何より嬉しい。会えなくなっても、ごほうびがもらえて嬉しい。
彼との恋は嬉しい。アキラは目を細める。
ふと、自分の下半身に意識が行く。こんな不埒な回想に浸っていたというのに、
一度碁の世界に入った体は穏やかなものだ。
便利だなと自分で思う。
すっかり体温の移った缶を放り捨てて、よしと心で呟く。
棋士の顔になったアキラは、対局場へ戻っていった。
―おしまい―