空と背中と僕の誓い
(1)
前髪を撫でると、ふわりと風のような手触りが気持ち良い。
やっと眠ったみたいだね。怖い夢を見ませんように。
キミはいつも、明け方近くまで寝つけない。
ボクに悟らせまいと目を閉じて微動だにせず。ずっと、何かを考えているね。
だからボクはずっと、キミが眠れないのは自分のせいだと思っていたよ。
気づいたのは、つい最近。
ボクは地方の仕事で長く東京を離れていた。キミのことが気がかりだったけれど、
電話1つかかってこず、案外ボクがいなくても平気なのかな、
なんて考えて淋しいやら安堵するやら複雑だった。
だから、漸く戻ってきた自分の部屋のドアの前にキミがうずくまっていた時は心底驚いた。
そして自分の愚かさにいっそ絶望した。
キミは虚ろな瞳で、それでも僕をしっかりと捕えた。ボクが走っていって
身体を抱き起こしても、部屋に入れてベッドに座らせても何も言わず。
ただ、ボクを見ていた。瞳が、ボクという映像に飢えているようだった。
温かい飲み物をとキッチンに向かおうとしたボクの背中に飛びついて、
離れないでくれと呟いたのが最初の言葉。
わかった大丈夫、ここにいるからと抱きしめた身体は可哀想なほど痩せていて。
ちゃんと食べていなかったのかと訊こうとして、けれど訊けなかった。
――キミは僕の腕の中、寝息を立てていた。立ったまま、幼子のように。
ベッドに寝かせる振動にも、ぴくりともせず。
それからたっぷり13時間。目が覚めてキミ自身も驚いたほどに懇々と眠り続けたね。
(2)
その間中ボクはベッドの側から離れられなかった。
ボクが少しでも離れれば、キミはきっと目を覚ましてしまう。
そしてその瞳に、キミから離れていくボクが映ったなら――… 壊れてしまう気がした。
13時間、キミの寝顔を見つめていた。考えてみれば、あんなにも
深く熟睡するキミを見たのはあれが初めてだ。
キミの顔は青白く頬もこけ、何より目の下のくまが痛々しいほどだった。
もう、どれほど眠れずにいたのだろう。
ごめん。ごめんね。ごめんなさい。
ボクはどうしようもないバカだ。何も解っていなかった。
キミは、ボクが側にいる時だけ、ほんの少しでも眠ることが出来ていたんだね。
キミにはボクしかいないのに。本当にボクしか、いなかったのに。
キミを一人冷たい夜に置き去りにしておいて、案外平気なのかな、なんて子供みたいに拗ねて。
ごめんね、愛しいキミ。もう二度と一人にしないから。
お願いだから、目が覚めた時には、あんな瞳をしないでいて――…
目を覚ましたキミは、大きな瞳をくるりとさせてボクを見て。
「言い忘れてた。…塔矢、お帰り。」
微笑んでくれたから。胸が熱くなって、苦しいくらいにぎゅっとなったんだ。
いきなりキミを抱きしめて噎せさせたのは、つまりそういうことだ。
(3)
それから3日間、ボクはキミを離さなかった。
3日目の夜明けに、明るくなりかけた空を見て綺麗だとキミは言った。
窓を開けると、空一杯に薄く雲がかかって下から太陽の光を受け、
柔らかく輝いていて、本当に綺麗だった。
そのまま、ボクたちは何も言わずに窓辺にいて、朝の清浄な空気に触れていた。
ひんやりとした風に吹かれるのは心地好かった。
あの時キミが何を思っていたのかは今でも解らない。
キミは唐突に、雲を見たままぽつりと呟いた。
「オレはさ、碁打ち失格かも知れなくて。」
「――どうしてさ。…そんなこと。」
「碁より大切なものがあるんだ。」
前髪が淡く金色に輝いていた。太陽の色だと感じた。
「それは悪いことじゃないよ。」
瞳は、髪よりもなお輝いて美しかった。
「一番かどうかは重要じゃない。それよりも…キミが碁を好きだということの方が大切だ。
碁打ちには、それだけで十分。」
「―――――…」
美しい瞳が見えなくなった。閉じられた瞼の縁で睫毛が震えていた。
ボクは、立ち上ってキミの後ろへ回り。背中をくっつけて座った。
キミは、一人でじゃないと泣けないから。けれど一人にさせるのは嫌だったから。
これは妥協案。背中合わせなら、だいぶ気楽だろう?
キミの悲しみを背中で受け止める。
しっかり暖められるように、もっと大きな背中が欲しかった。
ボクはもっと強くなる。キミを支えて生きてゆけるように。
あの時そう誓った。
(4)
あれからボク達は一緒に暮らしている。
キミは以前に比べると随分眠れるようになった。それでも、時々は悲しい夢に魘されているね。
ゆっくり癒していくよ。ずっと髪を撫でてあげる。
あの日、誰にも見せない涙を零すキミに伝わっただろうか。
キミにとってボクが一番でなくたって、そんなことはどうでも良いのだと。
キミに、思う人がいるのは知っている。添い遂げることは叶わない相手なのだとも。
キミはボクの中にその人の欠片を見つけ。ひび割れて隙間風の吹く心をボクで塞いでいる。
ボクの気持ちを利用している自分を許せずに、でもボクを失えずに自分を責めて。
心のひびが深い深い淵になり、真っ暗なそこに落ちてもがき苦しむキミ。
好きだよと言う度に、細い身体を愛す度に、眉を寄せて悲しみに耐えるキミが憐れで堪らない。
キミはボクが不幸だと思っているね。そして何もかも自分が悪いのだと。
酷いことをしていると、自分を責めて責めて心を掻きむしる。
(5)
愛しいキミに、伝えたい。
キミの心が誰のものでも、ボクは構わないと。
縋る相手にボクを選んでくれた、それだけでもういい。
辛いことなどないんだよ。同じ気持ちを強要などしない。
ただ一つ辛いのは。
キミが、そんなところで苦しんでいること。それだけだから。
出来るなら、キミのいる深淵まで降りて行ってキミを掬い上げたい。暖かな世界に連れて行ってあげたい。
けれど、そうしてはいけないのだ。
それではキミを本当には救えない。キミが、自分自身で打ち克たなければ意味が無いから。
ねえ、だけどボクはキミを信じているよ。キミは、そのままで終わる人間ではない。
心の奥に、誰にも汚せない輝きがある。
その光に照らされて、いつか必ず深淵から這い上がる。
キミは光ある世界にしっかり立ち。 そして。
用済みになったボクの側に、キミがそれでもいてくれたなら――
その時、ボクたちの間にあるものを愛と呼べるだろう。
今はまだ、その日は遠く見えない。
暗い暗い淵の底、渇き続けるキミにせめてもの潤いを。
命ごと絞り尽くそう。最後の1滴まで、キミにあげる。
―了―