初めての体験 Aside

(1)
 「待ってください。」
ボクは、通常の三倍の早さで前を歩く、男の背中に向かって声をかけた。男は歩をゆるめない。
 後を追うボクも自然と早足になる。彼はボクに気付いていた。何より先に気がついていたのは
彼の方だ。ボクがそちらを見ると同時に、彼は慌てて視線を逸らした。一瞬だけ視線が
絡んだのだ。
 「どうして逃げるんですか?」
「逃げてない。」
男は振り向きもせずに、短く答えただけだ。声に抑揚はなく、ボクは彼の心情をはかりかねた。
 チッ…!
内心で舌打ちをした。どうやって捕獲しようか?早足のまま考えた。
 その彼の歩みが急に止まった。
やった!フフフ…
が、ボクは彼の方へと伸ばしかけた手を、慌てて引っ込めた。彼が立ち止まったのは、
エレベーターに乗るためだったのだ。そこには、一般の客や他の棋士達がまばらに並んで待っていた。
 そう…ここは日本棋院。ここで無理矢理ことに及ぶのはまずい。ボクにも世間体という物がある。
「あ、塔矢三段…」
若い女の子達がボクの方をチラチラ見ながら、囁き合っている。ボクは、そちらの方を向き、
にこりと微笑んだ。
「〜〜〜〜〜〜!!!」
彼女たちは声もなく叫んだ。もう今にも気を失いそうだ。プロになってから営業用スマイルにも
磨きがかかった。プラス人当たりの良さで、ハートをがっちりキャッチ。日々、碁会所の
老人相手に鍛えた腕前は伊達じゃない。

(2)
 冷たい視線を頬の辺りに感じて、ボクは振り返った。
「どうかしましたか?緒方さん。」
「別に…」
彼はさっきと同じように、短い返事で会話を断ち切ると、そのまま隣にいた棋士に話しかけボクを無視した。
 むかっ腹がたつが、ここは我慢だ。ロビーについたときが勝負だと思った。それは向こうも
同じなのだろう。緊張が伝わってくる。
『階段だったら、捕まえられたのに…』
奥歯が鳴った。無意識に噛み締めていたらしい。ボクは目だけ動かし緒方さんを見た。
 彼の額にもなにやら光る物が…汗だ…緒方さんは冷や汗をかいている。周りの客達は何も気付いておらず、
話をしたり、エレベーターの階数表示を見たりしていた。
 三階…二階…スピードが、がくんと落ちる。そろそろだ。

チン…

 軽い音をたてて、ドアが開く。

 飛び出したのは緒方さんの方が一瞬早かった。

(3)
 しまった―――――――――――――

 ボクも慌てて後を追う。かなりの早足だが、差は縮まらない。向こうも必死だ。
「待ってください。」
「待たない。」
「用があるんです。」
「忙しい。」
埒があかない。ボクはとっておきの呪文を唱えた。
「ボクが…怖いんですか?」
「――――――――――――――――――!!!」
彼は立ち止まり、ボクに向き直る――――――はずだった。緒方さんは瞬間止めかけた
歩みを更に早めた。
 どうやら、彼は様々な対局を経てレベルアップし、ポイントを精神に全部注ぎ込んだらしい。
知らないうちに“平常心”のスキルを身につけていた。
 おもしろい…………ボクは抵抗されればされるだけ燃える性質だ。自然と笑みが浮かぶ。
「ふふふ…逃がしませんよ…」
よほど凶悪な笑顔だったのか、通りすがりの院生が、腰を抜かしてその場でへたり込んだ。
 ボク達に声をかける者はいない。そらそーだ。鬼気迫る表情で、追いかけっこを続ける
二人の間に割ってはいる勇気のある奴はいないだろう。緒方さん…そろそろあきらめてください。
…………助けは…………来ません!

(4)
 ボクが彼の背中を射程に捉えたとき、
「あ、塔矢ぁ〜」
と、甘い甘いとろけるようなハニーボイスが後から聞こえた。
「進藤(マイスイートハート←心の声)〜〜〜〜〜〜〜〜」
ボクはそのまま踊るようにくるりとターンした。目に飛び込んできたのは、煌めくエンジェルスマイル。
 ああ…眩しくて目が眩みそうだ。進藤がパタパタとボクの方にかけてくる。
「そんなに急いでどうしたんだ?どっかに行くの?」
「いや…別に…進藤は?」
「オレ?今から帰るとこ。」
「偶然だね。ボクもだよ。一緒に帰ろう。」
「………え?いいの?じゃあ、碁会所に寄らない?」
進藤が上目遣いでボクに訊ねてくる。もちろんボクに否やはない。

 玄関から出たボク達の前を赤いRXが横切っていった。
「あ、緒方先生だ…いいな〜オレもあれに乗ってみたいな〜」
羨望の眼差しを遠ざかる赤い車体に向ける。うっとりとしている進藤はとても可愛いが、
他人に向けられたものだと思うと腹が立つ。それがたった今捕まえ損ねた獲物に対してものなら
悔しさ倍増だ。
「そんなにいいものじゃないよ。狭いし…実用的じゃないね。」
「え〜〜でもお………カッコいいじゃん…」
ちょっとションボリする進藤………鼻血が出そうなほどラブリー。
「………そうだね…格好いい…フォルムだよね…………」
ボクは心に忍の一文字。嫌々ながらもフォローする。
「だろ?あ〜いいな〜乗せてくれないかな〜」
進藤はニッコリ笑うと、また車の去っていった方角に視線を戻した。

―――――緒方さん………この償いは“必ず”してもらいますよ………

 迷惑きわまりないだろうが、ボクはこの苛立ちを、まとめて彼に清算してもらうことにした。

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