邂逅(光彩番外編)
(16)
「わー…スゲーマンション…先生ってお金持ち…」
ヒカルはポカンと口を開けて、マンションを見上げている。そのまま後ろに倒れそうになって、
緒方は慌てて手を差し出した。
「おいおい。」
「ゴメンなさい。」
そう言いながらもヒカルはまだマンションを眺めている。
そんなヒカルをホールへと招き入れる。ヒカルの肩に軽く添えた掌に、彼がいかに華奢で
頼りないかが伝わってきた。
玄関の扉を開け中に入る。その後ろを少し怖じけるようにヒカルが付いてくる。
「お、おじゃまします…」
「そんなにビクつくなよ。幽霊がいるわけじゃないんだから…」
ヒカルをリラックスさせようとつまらない冗談を言った。だが、ヒカルは真剣な眼差しで、
「オレ、幽霊は怖くないよ。ホント…全然…会いたいくらい…」
と、返してきた。まじまじと見返した緒方に、「ウソ。冗談。」と笑った顔が何故か悲しそうに見えた。
「ねえ、先生。あれナニ?熱帯魚?」
部屋の奥に据えられた水槽を目ざとく見つけ、ヒカルが駆けて行く。
「わあ…」
ヒカルはうっとりとそれを見つめている。
緒方は後ろから、そっと近寄って真後ろに立った。
「気に入ったか?好きなのか?」
ヒカルは目を水槽に据えたまま、小さく頷いた。
暫く一緒に小さな魚達の乱舞を鑑賞していた。
「これはホンモノだね…」
何かをポツリとヒカルが呟いた。
「ああ。偽物があるのか?」
「棋院…」
ああ…そうか…緒方は思い出した。棋院で彼がバーチャル水槽の前に佇んでいる姿をよく
見かけた。以前は楽しげに、独り言を言いながら見ていたが、最近はボンヤリとそれを眺めている。
その表情はいつも見えない。ただ、彼の後ろ姿は、今ここで水槽を眺めている姿と同じく、
酷く寂しげだった。
(17)
「緒方先生はホンモノだね…」
「は?」
唐突なヒカルの言葉。意味がくみ取れない。狼狽える緒方を尻目にヒカルは続ける。
「塔矢もホンモノ…塔矢先生もホンモノ…本因坊のじいちゃんもホンモノ…」
漸くヒカルが言わんとしていることが理解できた。
「ああ…お前もホンモノだろ?」
ヒカルはそれには答えなかった。水槽にボンヤリと映った彼の顔は薄く微笑んではいたが、
あまりに寂しげで頼りなかった。
どうにも堪らなくなって、抱きしめたい衝動に駆られた。なんの邪心も下心もなく、ただ
彼を慰めたいと思った。緒方が腕を伸ばし掛けたとき、ヒカルがくるりと振り返った。
先程までの寂しさや哀しさなど微塵も感じさせない屈託のない笑顔を緒方に投げる。
「先生。オレ、まだ教えてもらってないよ?答えがでているってなんで?」
澄んだ茶色い大きな瞳に吸い込まれそうになった。
もしもその時インターフォンが鳴らなかったら、緒方は彼を抱き上げて、寝室のドアを
くぐっていたかもしれない。
(18)
その時の感情をどう表現すればいいのだろう。緒方は、来訪者を招き入れながら、暗い喜びを
感じていた。自分の考えが図にあたったこともあったが、見る見るうちに血の気が失せていく
彼の秀麗な横顔を見ていると、溜飲が下がる思いがした。
アキラの蒼白さとは対照的に、ヒカルは熟れたトマトのように真っ赤になっていた。
「あ…!と、塔矢?なんで…?」
と、言いかけてヒカルは口を噤んだ。アキラは緒方の弟弟子だ。自宅に遊びに来ることがあっても
不思議ではないと思い当たったのだろう。逆に、自分と緒方が一緒にいる方が不自然だ…
そう思ったのかもしれない。
「先生に用事?あ…あの…その…オレ、帰る!」
ヒカルは緒方に早口で礼を言うと、アキラの横を滑り抜け、そのまま走り去ってしまった。
ヒカルがアキラの脇を通り抜けるとき、アキラの白い横顔にチラリと視線を送っていた。
頬を染め、大きな瞳は潤み、愛らしい唇が何か言いたげ微かに動いた。ヒカルがアキラを
意識しているのは誰が見ても明白だった。
だが、当の本人はというと、いつもの聡い彼らしくもなく、そのことにまったく気付いていなかった。
それだけ彼の衝撃が大きかったということだろう。
緒方は驚愕に見開かれたままの彼の瞳を見つめた。真正面に立っているにもかかわらず、
彼は緒方を見ていなかった。漆黒のスクリーンのようだ―――そこには、確かに緒方の姿が
映っているのに、彼の心はもっと別の遠いところ…明るい前髪が揺れる残像を――小さく
なっていく足音を追い掛けているようだった。
アキラは茫然としていたが、バタンと扉が閉まる音が彼を現実に引き戻した。 彼は
目の前に立つ男――緒方を睨み付けた。猫のようにまっすぐ正面から見据える。
「………どうして彼がここにいるんです…?」
緒方は薄く笑って答えなかった。そうすれば、彼が誤解することはわかっていた。だから、
わざとそうしたのだ。