鮭とイクラ
(1)
そばに立つアキラを見ながら、ヒカルはなにかを思い出しかけた。
「ハイ、どうもありがとうございます。これからもがんばります」
丁寧に頭を下げ、ほほえみを浮かべる。彼はヒカルと違って棋院関係者らに好かれている。
大人というものは棋力よりも礼儀正しさを尊重しているのではないかと思う。
同年代の棋士ということもあり、ヒカルは聞き分けの良いアキラといつも比べられる。
そのたびにお腹のあたりがむずむずするような不快感に襲われる。
正直、気に食わない。
話が終わったアキラはヒカルに向き直る。今日は碁会所に行く予定だ。
二人で坂道を歩きながら、ヒカルは首をひねってうなった。
「どうしたんだ」
「おまえってさあ、なんかに似てるよなあ」
「何にだ?」
アキラの顔を見る。整った顔立ちに、トレードマークのおかっぱが似合っている。
おかっぱ頭が似合う男など、彼のほかに知らない。
「思い出せないんだよ。けど、なーんかムカつくもの」
「……ボクも今、ムカついたよ」
ヒカルの失礼な言い草に、アキラは目を細めた。
どうしてこんなことを言えるのだろうか。信じられない。
唯一のライバルとして認める少年だが、盤外の彼の傍若無人な様には驚かされる。
そのヒカルもまた、アキラのあまりにもな"いい子ぶりっ子"には驚いている。
少年二人は、自分とは全く違う性格の相手を宇宙人のように感じるときがあった。
きっと互いのことを深く知ることなど、碁以外のことではありえないだろう。
今はまだ、そう思っていた。
(2)
「塔矢アキラってなにかに似てねえ?」
無邪気にヒカルは問う。いきなり問われた和谷は面食らった。
口のなかのものを飲み込みながらヒカルを見返す。
ヒカルは返答を待っているようだ。真面目に質問しているらしい。
「こけし……日本人形とか?」
「んー、ちがう。あいつ人形って感じじゃないし。あー、ここまで出かかってるのに」
昼食を食べ終わったばかりのヒカルはのどに手を当てた。
「吐くなよ」
和谷は嫌そうに顔をしかめた。カツ丼が急にまずくなる。
「なんか嫌な感じなものに似てるんだよ、塔矢って」
「わけわかんねーよ。っていうかお前、それ塔矢本人には言ってないよな?」
「言ったけど」
少しも悪びれるふうもなく言うヒカルに、顔を覆いたくなる。
こんなのだから、生意気だ子供だ礼儀知らずだなっとらん、などと言われてしまうのだ。
しかし塔矢アキラも、よくこんな発言をする少年と仲良くできるものだ。
いや、それはヒカルにも言える、よくあんなすました少年と仲良くできるものだ。
ヒカル以外の棋士など、どうでも良いと言いたげな目は本当に腹が立つ。
(……なるほど、たしかに嫌な感じだ)
和谷は胸のなかでうなずく。まあ前からそれはわかっていたことなのだが。
「あ、桑原先生と緒方先生だ。めずらしー」
ヒカルが声をあげた。宿敵同士だと言われている二人が並んで入ってくる。
緒方は仏頂面だが、桑原はとても嬉しそうな顔をしていた。
(3)
今日の手合いで二人は対局しないが、意識しあっているのが伝わってくる。
午前中、対局室にはどこか落ち着かない雰囲気が流れていた。
その二人がともに仲良く入ってきたのだ。少なからず驚いてしまった。
和谷はできるかぎり声をひそめた。
「桑原先生って、新人棋士を集めてるらしいぜ」
「なにそれ。集めてどうすんだよ。悪の組織でも作るっていうのか」
声が大きい。和谷は指を唇のまえに立てた。
ヒカルは残っていたうどんの汁を箸でかきまわして渦を作っている。
「これはという新人棋士に声をかけて、連れ去るらしい」
「なんだよ。オレ、声かけてもらってないぞ」
不機嫌そうに頬をふくらませた。和谷も真剣な顔でうなずいた。
「俺もだよ。でも伊角さんや冴木さんは、なんか呼ばれたっぽい」
「なんだ、じゃあどっちかに本当かどうか聞けばいいじゃん」
ヒカルは提案したが、和谷の顔が暗くなった。首を力なく横に振っている。
「二人とも、どうしても話してくれなかった。そんなのは単なる噂だってさ」
「じゃあそうなんじゃねえの?」
「でも火のないところに煙は立たないだろ? それに桑原先生って得体が知れないし」
たしかにそうだ。ヒカルは桑原の後ろ姿を見た。
あの妖怪めいた老人は、背中からでも妖気のようなものを出している、気がする。
ふとその肩が動いた。ヒカルは桑原がゆっくりと振り向くのを見た。
視線がしっかりと結ばれる。
しわだらけの頬が、ゆっくりと笑みを形作っていった。
一瞬、ヒカルの背筋に言いようのないものが走り抜けた。
(4)
桑原の気にあてられたのか、午後は調子が良くなかった。
それでも午前中での優勢は変わらず、勝ち星をひろうことができた。
なんだか疲れた。早く帰って眠りたい。
しかしエレベーターのまえで桑原が笑いながら立っていた
思わず回れ右をしたくなる。
それをこらえて頭を下げて脇を抜けようとした。階段を使おう。
「進藤くん、ちょっといいかな?」
「ハ、ハイッ」
声が変に跳ね上がってしまった。桑原がおかしそうにくつくつ笑った。
「今日は空いてるかね? 良かったら食事でもどうかの?」
「オレとですか?」
脳裏に和谷の言葉がかすめる。
────これはという新人棋士に……。
あれは本当だったのか? と言うことは桑原に見込まれたということか?
全然うれしくない。
「嫌なのかね」
いつもなら物怖じせずに答えるヒカルも、さすがに怯んだ。相手は囲碁界の重鎮だ。
「あの、オレなんかと食べても、おもしろくないと、思います」
おずおずと言うが、桑原はますます目を細めた。
「ワシはもう老いぼれてきとるからの。キミのように将来有望な棋士と語りたいのじゃよ」
肩をつかまれる。老人のしわがれた手なのに、力がものすごい。
ヒカルは息を飲んだ。
(5)
高い靴音にヒカルは桑原の手から逃れることができた。
桑原が片眉をあげて音のしたほうを見た。そこには緒方がいた。
ヒカルは緒方が目を丸くして、口をポカンと開けているのを初めて見た。
「進藤……」
自分の名を呼ぶのにヒカルはいぶかしむ。桑原といて驚いたのだろうか。
緒方はすぐに桑原に向き直った。鋭い目つきだった。
「桑原先生、進藤をどこに連れ去る気ですか」
連れ去る。和谷もそう言っていた。なんだか聞き捨てならない言葉だ。
「人聞きが悪いのう。ワシは進藤くんと食事をしたいと思っとるだけじゃ」
「食事だけで済むのですか」
緒方の問いに桑原は鼻で笑った。緒方はどこか焦ったように早口で言いつのる。
「彼は俺の弟弟子の大切なライバルです。だから」
「だから興味があるのじゃよ。それにおぬしとあやつに懇願されて、大事な大事な宝物に
は手を出しておらん。その他のことでつべこべ言われる筋合いはない。第一、ワシはこれ
でもかなりガマンしたんじゃ。そこのところをわかってもらわんとな」
なんの会話をしているのか全く見えない。ヒカルは二人のあいだで立ち尽くしていた。
桑原がボタンを押すと、エレベーターが開く。ヒカルの肩を抱いたまま桑原は乗り込んだ。
緒方が追おうとするが、桑原は目だけでその歩みを制した。
「おぬしに用はない」
ゆっくりと扉が閉まっていく。緒方が自分を見て悲しそうに頬を歪めた。
今すぐ桑原の手から逃げ出すべきだった。
しかしどうしてヒカルは身体を動かすことができなかった。