パッチワーク 2016 明子
(1)
息子のアキラの様子がおかしいと思い始めたのは三年前、夫が韓国で二度目
の発作を起こした後だった。連絡を受け一時帰国していた日本から韓国の病院
に急遽駆けつけたときは、夫は既に安静を取り戻していたが、アキラの方がシ
ョックを受けているようだった。大事をとって夫は一ヶ月ほど現地の病院に入
院し、アキラは先に帰国させた。自分たち夫婦は帰国後は箱根に引きこもって
いた。息子は週に一度のペースで電話を寄越したが、箱根を訪れようとせず、
電話を夫と代わろうとすると電話を切ってしまった。夫はアキラの態度に関心
がないのかいつものようにマイペースで、気にしている?様子はなかった。
アキラが風邪から肺炎になり、救急車で運ばれたと聞いたのは入院から一週
間も経ってからだった。市河さんは連絡が遅くなったことを詫びていたが、病
院に駆けつけアキラを見たときあまりの細さに愕然とした。どうみても肺炎な
どではなかった。主治医の先生からは拒食症の疑いがあると告げられ、アキラ
についていろいろ聞かれた。だが気が付いてみれば、夫が海外に活動の場を移
した当初は毎日のように本人や熊田さん、市河さんにしていた電話が安心が募
るに連れ一日おきに、一週間おきに、一ヶ月おきにと間遠くなり、十年近く経
っていたあの頃は年に一・二度用事のあるときに電話をするくらいだった。本
人や熊田さん芦原さんの手紙で新宿のマンションで進藤君と暮らしているのは
知っていたけれど、分かっているのはそこまでで、何をどう感じどう考えてい
るのか一緒に暮らしていた頃は当たり前のように分かっていたことが何も分か
らなくなっていた。
(2)
退院した後この十年を取り戻そうと箱根へ呼び寄せたけれど、アキラにはす
でに子どもの頃の無防備さはなく、私たち夫婦との間に一線を引き、家族と言
うより礼儀正しい同居人であろうとしているのがその振る舞いから読みとれた。
中国へ戻るという夫を説得しきれずに森下さんをお呼びした翌日、私はアキ
ラを連れて父や異母姉、夫の両親、叔母の眠る墓を訪ねた。三原山を望む墓に
は私の母は入っていない。そのことを思うと塔矢家いや、父や夫にとって母や
自分は何なのだろうと思う。夫の両親と父の最初の妻は三原山に墜落した飛行
機に乗っていて命を落とした。遺体が戻ってこなかったため、父は三原山が望
める地に慰霊のための墓を求めた。後に残された幼かった夫や姉を育てたのは
父の妹であった。その叔母アキラの交通事故死の後、分家から母が後添えに入
った。だが元々派手好きだったせいか、私が生まれた頃には別居結婚のような
状態になってしまい。仕事に忙しい父もほとんど家に帰ってこず、私は姉に育
てられたようなものだった。私の名前も既に不仲になっていた両親はなかなか
決められず、届けのギリギリになって姉が亡くなった叔母にちなんで付けてく
れた名前だった。生前、父も姉も家の傍にある菩提寺だけでなくこの墓への分
骨を願っていたが、母は父の遺骨も姉の遺骨も全て菩提寺へ納めてしまった。
(3)
塔矢本家の財産を自分の愛人に貢いでいた母を阻止するため私は親の同意が
不要となると同時に夫を説得し入籍した。父に、姉に、森下さんに夫を頼むと
言われたその呪縛から私は逃れることができなかった。母はこのことで愛人と
喧嘩になり、走行中のクルマから突き落とされ、脊椎骨折となり、首から下が
麻痺してしまった。私は母が入院している間に熊田さんと相談し、母を禁治産
者にし、退院後はこのマンションに移した。アキラが生まれる前年、母は私を
恨みながら亡くなった。納骨の際に私は菩提寺にあった姉と父・叔母の遺骨を
実質全てこちらに移してしまった。先日夫婦でここに訪れたとき、夫もまたこ
こに眠ることを望んだ。夫の望みはかなえたいと思うが、私は自分はここに入
るべきではないそう感じている。それは子どもの時から感じている姉と夫に対
する疎外感と同じものだろう。私たちの心情的なことは別として、何かあった
ときに託す相手であるアキラにこのことを頼むために私はあの時はじめて息子
をあの場所に連れていった。
アキラは手合いの前日に東京のマンションに戻り、手合いの翌日に箱根に戻
ってくるというサイクルで棋院に通うようになったが、一ヶ月もしないうちに
体調を崩した進藤君の世話をすると言って東京へ戻ってしまった。新宿のマン
ションに何度か電話をしたけれどいつも留守番電話で、アキラから電話が来た
のは最初の電話から一週間も経ってからだった。アキラの話によると進藤君の
ご両親はお仕事の関係で仙台にいらして、お母様も体調を崩して東京へ戻って
これないとのことだった。当分進藤君のおうちにいると言うことなので住所と
電話番号を訊いたが連絡は自分の携帯にして欲しいと教えてくれなかった。
(4)
その進藤君が結婚するというのは夫を訪ねてきた森下さんに進藤君への結婚
のお祝いに何をあげるか相談されて知った。しかも来月には子供が産まれると
のことだった。逆算して、では入院したときには既に進藤君の結婚は決まって
いたのかと、森下さんの結婚を知ったときの夫のことが頭をよぎった。食事を
することができなくなり痩せて行く夫に?対して小学生だった私は何もできずに
いた。使用人からの連絡で夫のことを知った熊田家の人々が助けてくれなけれ
ば、私は最後に残された唯一の家族である夫を失っていたかもしれない。その
夫の姿と入院中のアキラの姿がだぶった。
私はお世話になった方々へのお礼の品を用意するのに最近の東京には疎いか
ら手伝って欲しいとアキラを呼びだした。アキラは東京に戻ったときよりも顔
色もよく、体重も増えたようだった。私は幾分かホッとした。
買い物が一段落し遅い昼食を取ることにした。友人に勧められた店は幸い個
室が空いていた。進藤君の結婚のことを訊ねるとあっさりと肯定した。相手の
方は前に流産したことがあるので無理をさせたくないから手伝ってくれと進藤
君に頼まれ、今は進藤君のご両親のお宅で三人で暮らしていて、子供が産まれ
てからも子供の世話で手一杯になってしまうだろうから当分はこの状態が続く
とのことだった。「じゃぁ、進藤君は新宿でアキラさんと暮らしていた頃から
その方とおつきあいしていたの。」「プロになる前からですよ。幼稚園から中
学まで同級生だったそうですよ。」「筒井筒なのね」「なんですか?」「伊勢
物語にあるのよ、幼なじみが恋人になることよ。」「お父さんとお母さんもそ
うですね。」「違うわよ、私が物心ついた頃にはお父さんはもうタイトルを持
っていらしたもの」もし姉が生きていて夫と結婚していたら筒井筒と言われた
だろう。夫とは十五歳、姉とは十歳離れている私はいつもみそっかすで疎外感
を感じていた。
(5)
「アキラと進藤君は私の考えていたのと違う関係らしい」とこの時は安心し
た。だが、あれから二年、息子は未だに進藤君の家にいる。
この二年は間隔を開けないように一・二ヶ月に一度は何らかの理由を付けて
直接会う機会を作るようにした。最初の一年はどこかピリピリしたところが残
っていた。話題も進藤君のことばかりで時に少し子どもの話があるくらいだっ
た。だが、いつ頃だったか進藤君が囲碁普及で一ヶ月北欧に行っていると聞い
たときそれまでと違って穏やかな表情をしていたのを憶えている。去年くらい
から話の内容にも子どもや奥さんのことが混じるようになってきた。断片的な
話を統合すると最初アキラと進藤君は離れで、奥さんと子どもは母屋でと分か
れて暮らしていたのが最近は一緒に暮らしていて夜も四人一緒、進藤君が対局
などで留守の時も川の時になって寝ていると聞くと一体、この三人の関係はど
うなっているのか。傍目からはアキラが新婚家庭に居候してそのまま居座って
いるようで相手の女性はどう思っているのか。不安なことばかりだがアキラ本
人は二年前のことが嘘のように落ち着いた日々を送っているようだった。
「親友のおつれあいですの。ええ家族ぐるみでおつきあいしていると聞いて
おります。」 去年から街で息子と一緒にいた女性は誰かとの問い合わせが頻
繁に入るようになった。
夕食の準備をしているとアキラから、明日二歳の男の子を預かってもらえな
いかという電話が入った。進藤君の奥さんが急に入院することになり、進藤君
は地方でタイトル戦で帰ってくるのは明後日。自分も明日対局があるので預か
ってもらえるならこれから箱根に連れて行くとのことだった。今のあの子が自
分たちを頼ってくるのは嬉しかったので承知した。