パッチワーク 2023年12月 アキラ
(1)
目をさまして自分達の部屋でないことに気付いた。対局で地方に来ているのか。でも見慣れている
ような既視感もある。人の気配がしたのでそちらを見てみると彼女が服をまとっていた。ああ、そう
だ彼がいないから彼女の部屋で休んだんだ。臨月のおなかが存在を主張している。僕たち三人にとっ
て四人目の子どもだ。父親がどちらかなんてどうでもいいことだった。今日は対局のため宇都宮に行
くことになっている。子どもたちは昨日の夜に母が箱根へ連れていった。「ごめんなさい起こしちゃ
った?」手を伸ばして彼女の腕を取って「子どもたちいないんだからもう少しここにいて。」仕方な
いわねと言った表情で彼女はベッドに腰掛けた。僕はキスをねだった。身体のことがあるから無茶な
ことはできないけれど時間ぎりぎりまで僕らは楽しんだ。彼が三星杯のために韓国に行ったのは十日
も前のことだった。毎晩電話で顔を見ることもできたし、話もできた。でも、彼に触れることも彼の
匂いを嗅ぐこともできなかった。帰ってくるのは今晩で宇都宮に行く僕とはすれ違いになる。会える
のは三日後だ。とにかく僕は寂しかった。子どもたちも彼女も大切なだけれど彼の穴を埋めることは
できない。そのことを一番わかってくれているのは彼より彼女だった。今回も最初の三日ぐらいは棋
譜を並べたりしてごまかしていたけれど結局子どもたちが学校へ行ってしまうと彼女にまとわりつい
ていた。三人で一緒に暮らしはじめた十年前はこんな風になるなんて思っていなかった。二人で暮ら
しているとき彼の心の中にいる影は彼女だと思い、彼を独り占めしたくて彼女を嫉妬し憎んでいた。
でも三人で暮らしはじめてわかった。彼の中にいる影は彼女じゃなかった。
(2)
倉田さんへの王座挑戦手合い第三局。苦しかったけれど中押しで取ることが出来た。これで第一局
は落としたけれど第二・三局を取り1−2で第四局に臨むことが出来る。
前夜祭での話題はもっぱら前日の三星杯決勝第三局のことだった。今回準決勝は安太善さんと永夏、
彼と楊海さんでどちらも第三局までもつれた。韓国国内では組み合わせについて論争もあった。僕は
準々決勝で安さんに負けてしまっていた。家を出るとき彼女は「アキラさんが帰ってきたら誕生日の
お祝いと、ヒカルの優勝のお祝いね。」と言っていた。
家を出てから対局が終わるまで電話もメールも見ない。それがいつもの習慣だった。対局が終わり、
部屋に戻るとすぐに電話を確認した。二人からメールはすぐわかる。誰かに画面を見られても大丈夫
なように、声を聞かれないように今時珍しい文字だけのメールだからだ。二人からのメールをたどっ
て行くと。彼が日本に戻ってきたのは僕が宇都宮に着いた頃。夕飯後のメールは優勝祝いは僕が帰る
までお預けだから寄り道せずに帰ってくるようにと言う内容だった。きっと外食続きだった彼のため
に夕飯はヘルシーメニューだったのだろう。彼女からは彼が行ったときより太って帰ってきたと言う
嘆きのメールも入ってきていた。彼の体重はこのところ彼女の悩みの種になっている。そして今日の
昼過ぎのメールは「病院へ行く」それが最後のメールだった。
大宮が近づくにつれて雪が降っているのがはっきりわかるようになってきた。こんな早い時期に降
るなんてひどく久しぶりな気がする。ホテルを出る前にチェックしたメールは「男」と素っ気なかっ
た。
(3)
雪がひどくなったので駅からタクシーに乗ったらまずいことに運転手がアマ四段で僕のファンだと
いう人だった。とっさに家でなく芦原さんの家の近所を行き先にした。僕と彼は仲が悪いことになっ
ているせいか彼への非難を聞く羽目になってしまった。タクシーを降りて結局家まで歩くことになっ
た。玄関に灯りがついていてホッとした。靴を脱いでいると彩子が「あーちゃん、おかえりなさい。」
と出てきた。「あのね、さっきね、赤ちゃんみてきたの。さるの赤ちゃんにそっくりだったの。」彼
も出てきた。彼の姿を見たとたん彼の姿がぼやけてきた。彩子が何か言っているのはわかっているけ
れど音の羅列にしか聞こえなかった。誰かが僕を抱きしめた。「ほら、何泣いてんだよ」彼の声だ。
彼の匂いだ。僕も彼を抱きしめる。う、確かに行く前より少しと言うのはちょっと躊躇うくらい太っ
たかもしれない。でも、まあ昔の倉田さんほどではないかもしれない。倉田さんは結婚してから小太
りといえるくらいまでやせたけれど、入れ替わるように彼の体重が少しずつ増えて、娘たちが産まれ
た頃がピークだった。彼女の努力で少しずつ体重が落ちても海外の対局で家を長期に空けて外食が続
くと覿面に体重が増える。この繰り返しで段々体重が落としにくくなっているようだ。
気が付くと平太、暁子も玄関に出てきていた。「さっきまでおばさんもいてくれたけれど、先生が
待っているから帰った。もうすぐ夕飯。お風呂、沸いてるから先に入ってこいよ。」お風呂から出て
居間に行くともうみんな食卓に着いていた。僕が席に着くと彼が咳払いをして言った。「赤ちゃんの
名前は「雪彦」にきまりました。」家族みんなが男女一つずつ名前の候補を出していた。決めるのは
彼女だ。「男の子の名前の候補に雪彦はなかったと思うのだけれど。」と僕が言うと彼が「待ってる
間、窓の外を見てたら雪が降ってきて。お前の座間先生との新初段戦思い出した。それで「雪」って
字を使いたくなってオレのを換えた。」そうだ、あれからもう二十年になる。あのころは彼とこんな
風になるなんて思ってもいなかった。
彼と出会って二十年。三人で暮らしはじめて十年。この先も何があるかわからないけれど、これか
らも少しずつ三人で時を積み重ねて行きたい。
2023年12月 アキラ 了