向日葵行きの切符
唯、黙って兄の後ろを付いて歩く人形のようなつまらない小国だと思っていた。庇護欲を煽るような外見は愛らしいとは思う。僕の妹もあれくらいか弱かったら優しく守ってあげる事が出来ただろうか。
初めて口を交わしたのは世界会議の議場の廊下だった。毎度の事ながら有り得ない提案をするアメリカ君にイギリス君が噛み付き、ドイツ君が胃を押さえながら修整を試みる。
「ふふっ、リトアニア上手くやってくれるかなぁ?」
僕はつまらない会議に飽き飽きして、休憩に入ったのを良い事にそのまま議場を後にした。赤い絨毯の引かれた廊下を一人で闊歩するのは中々に気分がいいからね。
「きゃっ!」
すっかり手に馴染んだ水道管を引きずりながら鼻唄でも口ずさもうとしたとき何かが腹部にぶつかった。それがリヒテンシュタィンだった。
休憩時間に兄の目を盗んでつかの間の探検でも堪能しようと思ったのだろう。厳格な兄は見当たらない。尻餅を付いた彼女は咄嗟の事に余程驚いたのだろう。ぼんやりとしたまま僕を見上げている。
僕にはそれが哀れに思えて彼女を引っ張り上げようと手を伸ばした。でも、ほら…ラトビアのように手を伸ばしたら、かたかたと音を立てて震えると思って伸ばした手を引っ込めた。自然と僕は彼女を見下ろす形になる。
…怯えたような目が僕を責めた気がした。僕は何もしてないのに、皆と仲良くしたいだけなのに…皆僕をそうやって責めるんだ。…嫌だなぁ。
何だか悲しくなって僕は踵を返そうとした。
「ま、待って下さいまし!」
その瞬間、彼女は一瞬だけ泣きそうな顔をして僕の服の裾を軽く引っ張った。よろよろと細長い四肢を付いて彼女が立ち上がる。その様子は生まれたての小鹿のように何処か力強さを感じる。…驚いたなあ、
「何?」
「そ…その…」
「…だから何?」
別に責めている訳じゃないんだ。好奇心が先立って先を急がせたくなる。
「済みませんでした…ぶつかってしまって。…その、痛くはありませんでしたか?」
妙な子だなぁ…僕はよろめいてさえいないのに彼女は必死に僕の心配をしてる。
「痛かったのは君の方じゃないの?」
尋ねれば大きく頭を横に振った。
「私は平気ですから…」
「僕は何ともないよ」
その言葉に彼女は安心して優しく微笑む。桜色のつやつやした唇がそっと持ち上げられて弧を描く動作に見入ってしまっていた。
「…失礼を」
「え?」
「失礼を許して下さいますか?」
曇りのない瞳が、あどけない表情が僕を覗き込む。…別に怒ってる訳じゃないし素直に頷いた。
「よかった…」
顔を綻ばせて彼女が笑う。まるで太陽の下でおもいっきり手を伸ばして深呼吸したような、咲き誇る向日葵畑の中で一輪だけ僕に向けてその花を広げているのを見付けたときのようなそんな心地だった。
思わず小さな頭に手を伸ばす。壊さないようにそうっと柔かな髪を撫でた。
「どうかなさいました?」
この子欲しいなぁ。…きっと僕の近くに彼女が居たら幸せなんだろうな。暖炉の暖かさとは違う…もっと、優しい…。
「…埃付いて」
「有難うございますね」
咄嗟に出た言葉を彼女は何の疑いもなく鵜呑みにした。無知故の愛らしさか優しさ故の美しさか。
どうしよう、本当に欲しくなってきちゃった。こんな小さな子だからこっそりトランクに入れて持って帰ってもわからないよね。ああ、でも…あの子の…スイス君は怒るだろうなぁ。…彼が居なくなったら…ああ、馬鹿みたいなこと考えてる。
「あげようか、シベリア行きの切符…片道だけどね。」
常にポケットに入ってる小さな紙切れをひらひらと掲げて見せる。不思議そうに紙が揺れているのを彼女は見つめていた。
「下さるんですか。」
「片道しかないけどね。」
小さな白い手がチケットに向かって伸びるのを信じられないような気持ちで見つめた。
「でしたら、私に良い考えがあります!」
弾んだような声が廊下に響いた。片道切符の意味を恐らく理解していないのだろう。友人に遊びに誘われた位にしか思っていないようだ。
「…あの、帰りは二人で帰りませんか?…あ、いえ!…違うんです…えーと…そうですね…。是非私の国にもいらっしゃって下さい。…えーと、私が帰る時に一緒に私の国へ…すみません、いきなり…」
ころころ変わる表情に目を奪われる。漸く落ち着いたのか語尾の調子が下がった。子供みたいにはしゃいでいたのを恥じているみたいだ。…別に構わないのに。
「寒いよ、僕の国は」
「…寒いのですか?」
「うん、凍えて死んじゃう位凄く凄く寒い」
悲しそうな声で聞き返された。とっさにオブラートに包まないまま事実を伝えてしまう。…やっぱり嫌になっちゃったのかな?
「…待ってて下さいましね。」
「え?」
「私、暖かく着込んで伺いますけど…それでも寒いでしょうから、…図々しいお願いですがお部屋を暖かくしておいて頂けると」
「…うん」
「有難うございます。」
そう言って彼女はポケットにシベリア行きのチケットを大切そうにしまい込んだ。
彼女の名前を呼ぶ声が聞こえた。彼女は声の先をちらりと見遣ると困ったように微笑んで一礼した。そして廊下を駆け出す。
本当は彼女を呼び止めて何か言いたい事が有ったんだけど、僕は彼女をどう呼べばいいか解らなかった。
くるりと彼女が振り向いた。僕を見て軽くポケットを叩き人差し指を唇に当てる。
(くれぐれも兄様には秘密にしておいて下さいましね)
僕もそれに習って人差し指を唇に当てた。
(了解、二人だけの秘密だよ)
彼女が見えなくなったのを確認して僕は廊下をゆっくりと歩きだす。帰ったら切符を買いに行こうと思う、今度は二枚。何だかポケットに小さな向日葵が居るような気がして思わず僕は微笑んだ。
向日葵行きの切符