君の祈りと通り雨
「…行かせない」
声に温度はなかった。彼女が愛用しているナイフと同じようにスイスには彼女も鋭い刃に見えた。
ぴんっ、と張られた弦のようだとオーストリアなら例えただろう。今にも切れてしまいそうな危うさを抱えてベラルーシは立っているように見えた。
紅い絨毯の上に古臭いメイド服で佇むすがたは何処か美しくもあり、古い映画のようで滑稽だった。
スイスは目を奪われていたがその事に対して口を開くことはなかった。
「妹を探しているのだ、邪魔するなら撃つぞ」
廊下の無効から微かに弾んだ声がスイスには聞こえた。
会議も終ればこんな煩い場所には用がない。早々に退散してしまいたかった。
「お前は撃てない。私は何もしていないからな」
確かにその通りだった。今ベラルーシを撃つのはスイスの沽券に関わる。
「だったら退くのだ」
「断る」
「お前も兄を探していたのだろう」
ベラルーシは廊下の向こうを指差した。それは先程リヒテンシュタインの声が聞こえて来た方向だった。
「兄さんは向こうに居る」
一歩も動こうとしないベラルーシをスイスは不審に思う。
ナイフに添えられた手は、スイスが一歩でも廊下の向こうに出ようと下瞬間襲ってくるだろう。軍人の感以前の問題だった。
「何故向こうに行かせたくないのだ?」
「煩い」
スイスは気を使って精一杯優しい声色で問い掛けたが一蹴されてしまった。
なんにせよリヒテンシュタインの所には行けそうにないとスイスは諦める。
どうせ此処を通り掛かるのだとスイスは廊下にもたれ掛かって床に座り込む。
ベラルーシがゆっくりスイス目の前に立った。
「おい」
「何だ」
「見下ろすな」
「お前が小さいのが悪い」
スイスが全プライドをかけて銃を発射することを決意した瞬間ベラルーシの姿が消えた。
気付けばベラルーシがスイスの隣に蹲っている。
「何なのだ…お前は。」
スイスは額に手を添えて呻くように呟いた。
必要以上の馴れ合いは好まないスイスにとってベラルーシの言動は理解しがたいものだった。
永久中立国としての立場、けっしてそれだけではない。
人と付き合う煩わしさ、唯一の例外である大切な妹はベラルーシとは似ても似つかない。
「…兄さん、兄さん、兄さん」
ベラルーシが呟いた。口から無意識に出た彼の呼称はぽろぽろと零れ落ちる。
「…兄さん、兄…」
膝頭に頭を付けてベラルーシが黙り込んだ。
「泣いているのか?」
思わずスイスが尋ねる。
「泣いてなどない。私が泣くような女に見えるか?」
「まるで、祈りの言葉だな。お前の”兄さん”は人が”神様”と祈るのと同じ響きがするのだ。共通点は」
「けして、手を差し伸べない。…それくらい判ってる。向こうにいる、確かに兄さんはいるんだ。
さっき、笑い声が聞こえた。兄さんの声だ、あんなに澄んだ声で、弾んだ声で……私には、あんな声」
そしてベラルーシはまた小さく呟いた、兄さん。彼女の口にする”兄さん”という言葉は祈りのようにも聞こえる。
兄本人は恐ろしいと体を震わせているが、スイスにはさほど恐ろしいものには思えなかった。
「兄さん、兄さん、兄さん、兄さん。」
すがるようにベラルーシは延々とその言葉を口にし続ける。この言葉は彼女の涙だ。
思わずスイスは自分の胸にベラルーシの頭を押し付けていた。
「…慰めてるのか?」
「都合のいいようにとるのである」
不器用な女だ。愛らしさはどこに捨ててきた。男の背中にすがることも知らないではないか。そこまで考えてスイスは自嘲した。
同じように縋らせてやるすべを知らなかった。
不意にリヒテンシュタインの笑い声が聞こえた気がした。
慎ましく品のある、あのいとおしいはずの声が今だけは耳に付く気がしてスイスは大きく息を吐いた。
君の祈りと通り雨