ドナウの宝石
時代の変化についていかなければならないと今まで立ち止まることなく、振り返ることもなく駆け抜けてきた。
走って、走って、息を切らせながら走って、突然ぐにゃりと視界が歪んで、足に力が入らなくなって、地面に勢いよく倒れこむ。
一度足を止めてしまったらそれからまた走り出すことは意外なほどに難しいもので、ハンガリーは街を彩る噴水の縁に腰を落とした。
今までまるで顧みることのなかった自分自身の体を見てみると、靴は擦れて穴が開き、スカートも綻びて左足がむき出しになっていた。
上半身をひねって水面に顔を映せば、可笑しなくらいにやつれた顔と伸び放題のボサボサ頭がそこにあった。
何をやっていたんだろう。
――ただあの人に追いつきたかった。本当の意味で対等になりたかった。そしてなにより、自分自身を持ちたかった。
これからどうしたいんだろう。
――飛び出してみてわかった。ああ、私はあの人が必死に支えていた今にも崩れてしまいそうな真綿の籠の中で、確かに幸せだったんだと。
なにもわからない。とにかくがむしゃらに走り続けてきたけれど、急激な変化に体は悲鳴を上げていくだけだ。
「ボンジュール、マダム」
水面に視線を落としていたハンガリーの耳に、訛りのないフランス語が触れた。
「空はこんなに晴れているのに、どうして君は下ばかりを見ているんだい?」
目深に被っていた帽子を取って「久しぶりだな、ハンガリー」と挨拶する男は、オーストリアと幾度となく対立し、現在でもお互いの感情は大変よろしくないはずのフランスだった。
「あら、今日は裸じゃないのね」
国柄が滲み出る洒落たスーツに身を包んだフランスを一瞥し、ハンガリーはそっけなく呟く。
「ひどいなー。お兄さんだっておめかしするさ」
それにいつもそんな格好だったらさすがのお兄さんでも捕まっちゃう。
「で、いったい何をしにきたのよ」
ハンガリーは髪を掬って耳にかけ、興味薄そうにため息をついた。
フランスはハンガリーの髪をいじるその手をとって、軽く唇を落とす。
「ドナウの宝石を口説き落としにね」
あのいけ好かない眼鏡野郎とは別れたみたいだしとウインクするヒゲ面に、
「なに気障なこと言ってんのよ」
フライパンが見舞われた。
走りつかれて立ち止まったハンガリーを連れ出したフランスは、やっぱりハンガリーちゃんとこの刺繍はかわいいなぁ、なんてことを言いながらハンガリーの服を見立て始めた。
あれやこれやと試着させられている間、ハンガリーはふと昔を思い出す。
あれはトルコの支配から脱し、欧州キリスト教圏へ復帰できた時のことだ。
第一次ウィーン包囲でハンガリーの上司だった王家が断絶していたので、婚姻関係のあったオーストリアの上司が勝手にその王位を継ぐことにしたのだ。
トルコの支配から逃れられたら、今度はオーストリアの支配。当然、国内の反発も大きかった。
「ふざけるな! 聖王冠はお前のものじゃない!」
当時のハンガリーはまだまだ男勝りの荒い口調で、国内をトルコに荒らされなかったらこんなお坊ちゃんになんか喧嘩で負けるわけがないと思っていたし、事実そのとおりだった。
「お黙りなさい」
張り上げているわけではないのにぴしゃりと響くオーストリアの声に、ハンガリーはびくりと肩を寄せる。
「あなたは私のものになったのです」
トルコの元にいる間にすっかり伸びてしまった髪をひと房掴み、オーストリアは自身のもとへ引いた。強引なそれにハンガリーは顔をしかめる。
オーストリアは恍惚とした笑みを浮かべながら、ハンガリーの首から肩にかけて手を這わせた。
「そう、これからあなたをわたし好みに仕立て上げて差し上げますよ」
「はぁ!? ふざけんな! 俺は……!」
「言葉遣いには気をつけなさい」
「うっ」
ハンガリーは顎を掴み上げられる。顎が歪んでしまうかと思うほどにそれは力強く感じた。いや、その時のハンガリーに抗う力がなかっただけかもしれないが。
「さて、まずはあの汚らわしい野蛮な異教徒の匂いがするものはすべて打ち壊しましょうか。モスクは勿論、橋も、泉も、風呂も、学校も! なにもかも!」
ドン、と肩を押されてハンガリーは壁まで追い込まれた。オーストリアは彼女に着せられていたオスマン風のチュニックに手をかける。
「お、おい。待てよ。確かにトルコの野郎は大嫌いだが、あいつの置き土産ぐらいは残したって」
そう言い終わる前にハンガリーの衣服が音を立てて引き裂かれた。
一瞬、ハンガリーはなにをされたのか理解できなかったのだが、最近いやがうえにも膨らんできた乳房が片方だけ外気に晒されたことに気付き、羞恥に顔の色を変える。
「このような衣服、あなたには似合いませんよ。今、ふさわしいものを用意しますから」
そんなもの、捨ててしまいなさい。
眼鏡が反射してオーストリアの表情はよくわからなかった。
激しく体力が落ちていたハンガリーがどれだけ抵抗しようとしても、オーストリアにねじ込まれるだけで意味はなかった。
幼いころとは逆転した立場、その昔、勇ましいハンガリーに何度となくボコボコにされていたオーストリアが長年募らせていた征服欲はついに満たされることになる。
オーストリアはかたくなに閉ざされてきたハンガリーの女性の部分を無理やりこじ開けて侵入する。
戦場を駆けてきたハンガリーがこれほどまでに自分が女であると自覚させられたのはそれがはじめてだった。膨らんだ胸、性器の構造、どうあがいても違う体のつくり。
そしてなによりオーストリアの乱暴な抽送に不快感と悔しさが脳裏を巡るばかりではなかったのがさらにハンガリーを混乱させた。
それから女であることを強く意識するよう求められ、言葉遣いに礼儀作法、身につけるものもなにもかも、以前の男ようなそれから矯正されていった。
フランスが服の見立てをしている様子が、色とりどりの給仕服を仕立てたオーストリアがまるで人形を着せ替えるようにハンガリーをあれこれ飾ろうとしていたこととなんとなく重なったのだ。
ちなみに当時のことをオーストリア本人に話すと「あの頃は調子に乗っていました。本当に申し訳ありません」と意気消沈してしまう。「誰だって勢いづいているときはそんなものですよ」と返してやるのが優しさだろう。
「やっぱりハンガリーちゃんには草原の若い緑が似合うね。これにしよう」
春に蒔かれた小麦がぐんぐんと育っていく初夏のプスタのような鮮やかな色に、赤を主体にした細やかな刺繍があしらわれたワンピース。編み上げブーツも新調し、髪を整えてバラトン湖の花飾りを磨けば、さっきまでの相貌が嘘のようだ。
「どんなに見た目を繕っても、身体の中はボロボロなんだけどね」
くるりとターンすれば、スカートがふわりと舞った。
「ちょっと前までは旧東欧の優等生だなんて言われたけど、政治も経済も仕組みが大きく変わって、追いかけていくのに精いっぱいで」
だんだん消沈していくハンガリーの声。フランスはただ頷くだけだ。
「……昔は、よかったなぁって」
女性だって社会進出するべきだとか、自分のことは自分で決めるべきだとかそういう煽り文句が飛び交う時世ではあるが、必ずしもそれが自分にとっていいことだけではないと知っている。
場所も時期も悪かった。でももう後戻りなんかできない。
「またそんな暗い顔をしちゃって。お兄さん悲しくなちゃうよ」
フランスはハンガリーを引きよせ、頬に手を添えて上を向かせる。涙を滲ませるヴェールの瞳が儚くも美しい。かつて馬とともに野を駆け巡った少女の面影は、時代の変化に揉まれてずいぶん薄れてしまったものだ。
「さあ、次はロマを聞きに行こう」
「え?」
装いを新たにしたハンガリーの手を引いてフランスは街に繰り出す。
「いやぁ、この間パリでラカトシュのライブに行ったんだけど、そうしたらハンガリーちゃんのおうちに行きたくなってさ」
「ああ、それが目的で来たのね」
それで同伴者を探していたら、昔からの知り合いがみすぼらしい格好をしていたから不憫に思って着飾ってやって同伴者に選んだというところかしら。
「違う違う。お兄さんはいつだって女の子の味方なんだって。ハンガリーちゃんが落ち込んでたらどこからでも駆けつけちゃうよ」
「あっそ。いったい何人にそう言っているんだか」
ハンガリーにじと目で見上げられるフランスは苦笑しながら視線をそらした。
ジプシーミュージックは観客も音楽の一つだ。
ころころと変わる曲調に観客の手拍子が加わって会場は大いに盛り上がっている。
近くを通りかかった演奏者の一人が、ハンガリーの手を引いた。
急なことに驚いたハンガリーは目をパチリとさせたが、フランスを振り返って行ってくるとウインクし、舞台へ上がる。
彼女はハンガリー民謡に合わせて、スカートがぶわっと舞い上がるほどにまわって見せる。即興で得意の歌を披露し、さらに観客を喜ばせた。
こうしてはいられないと思い立ったフランスは、セカンドからバイオリンを拝借して演奏の輪に入って行っていく。ジプシーバイオリンとクラシックのそれとは少々違うが、彼の奏でるフランス音楽特有の華やかさと個性がその場を最高潮に盛り上げた。
「あー、楽しかった!」
興奮さめ止まぬ様子のハンガリーは頬をわずかに赤く染めている。
「あとはワインとパプリカね。おいしいお店知ってるから行きましょう!」
数時間前の雰囲気はどこへやら、彼女はすっかり上機嫌になったようだ。本当は自分がいろいろと連れまわすつもりだったんだけどなぁとフランスは苦笑する。
「でもまぁ、こんなふうに元気いっぱいのほうがハンガリーちゃんらしいよ」
「なによ」
「だから昔の男のことなんか忘れて、お兄さんとめくるめく官の」
「無理ね。いろいろあったけど、やっぱりオーストリアさんが好きだし、でも私は私らしくありたいし。これでいいのよ」
自分の中にある懐古的な感傷を納得させるように頷くハンガリーの肩を抱き、次いでフランスはその細い体を抱え上げる。
「もったいない。ああもったいない! 音楽と町並みだけは認めてやらないことはないが、オーストリアと呼ばれている時点で拒絶反応モノの、あの眼鏡がいいだなんて、お兄さんショックでこのまま攫っていっちゃうよ!」
「待って、やめて、降ろしなさいよ!」
はははと冗談めかして笑いながら、二人で踊るように街を歩いた。
ドナウの宝石はいつの時代だって輝いている。