紫煙
彼女の目の前の青年は、以前会った時より憔悴した顔をしていた。頬は痩せこけ、黒い瞳がただ獣のように爛々と気味悪く輝いていた。
そこにあったのは、途方もない闇と、切れてしまう寸前の何か。
「お久しぶりです」
そう声を漏らした青年――日本は、いつの少しばかり困った笑顔すら浮かべていなかった。ただ、無表情であった。だから彼女――ベトナムも無表情のまま返す。
「まったくね。この前会ったのは、いつだったかしら」
「さぁ。何分忙しかったもので。――私がここに来た意味、無論お分かりですよね?」
淡々と日本がベトナムに告げる。聞くまでもない。十二分にわかりきったことだ。
「支配しに来たんでしょう?まったく、本当に忙しいことね。台湾、韓国、中国ときて、その次はわたし、と」
「ええ」
ベトナムは一つ溜息をつくと、緩慢な動作で手元にあった煙草に火をつけ、一息吸った。紫煙が立ち上って、茜色の空に消えていく。
「で、それだけじゃないんでしょう?わたしに会いに来た理由」
また煙草を吸ったベトナムが言った言葉に、日本がくつくつと笑った。ひどく不気味だった。やわらかく笑っていた過去の彼など、今ここにはいない。今いるのはただの獣じみた一人の男だ。
彼女は今まで散々そんな男たちを見てきた。だからこそよくわかる。この後とる行動なんて、ただ一つだ。
「相変わらずあなたは話が早い」
「馬鹿だったら、当の昔にあのくそ野郎にのまれていたものでね」
「嗚呼、嗚呼。そうでした、そうでしたね」
くつくつ、くつくつと日本が笑う。
ベトナムがはじめて日本を見たのは、中国の家だった。何百年という支配に焦燥だけが募り、いつ奴ののど仏を食いちぎってやろうかと考えていた頃。小さな彼が、奴の家の上司を激怒させる文を携えてやってきた。
見ているこっちはひやひやしたものの、彼はうまいこと乗りきった。そして初めて会ったとき、彼女は彼に言ったのだ。気をつけなさい、ここはあなたの常識が通じる場所じゃない。気が付いたらやつに食われてしまうわよ、と。
それに対して小さな彼は小さく首をかしげながら、曖昧に笑っていた。そんな彼は、今ここにいない。面影も感じさせないさまで、くつくつと笑っている。
「回りくどいのは嫌いなの。さっさとはじめましょう」
ベトナムは吸いかけの煙草を地面に放り投げ踏みつぶすと、アオザイの襟元を緩めた。
細い喉に、男がしゃぶりつく。歯を立てて、噛み跡を残す。ぐちゃぐちゃという水音と、パンパンと肉がぶつかり合う音が耳に届く。
地面に押し倒されたベトナムがまとうものはもう用をなさない服。素肌に砂利が当たって少しばかり痛い。けれど彼女は無表情のままで彼に犯されていた。
彼の表情もまた、無表情だった。ただそれとは対照的に、目は爛々と獣のように輝き、荒い吐息が口から洩れる。
「……体は反応しているくせに、声はあげないんですかっ」
「ぁ……っ、それがお好みなら、そう、するわよ……っ」
「いえ、別に……、どちらでも……っ」
ぐい、と奥を突かれて小さく声が漏れた。けれど気にすることではない。今までと同じだ。
いつものようにそこに愛などなく、また悲しみもなかった。ただたまった欲求を解消する男と、それを受け止める女がいるだけだ。
散々繰り返してきたことを、日本としている。ベトナムにはそれがひどく奇妙なことにも思えた。けれど支配と被支配の関係から考えれば、なんらおかしなことではない。
何度も何度も突かれるたびに、どんどん互いの息が荒くなっていった。感じているというわけでもないが、体は濡れている。
変なことだと、ベトナムはいつも思う。高々国の化身でしかない自分たちに、どうして性があるのか。どうしてこのような欲求が生まれてくるのか。2千年近く考えても、けっきょく答えは出ていない。無駄なことだと思いつつ、利用できるときは散々利用してきたが。
ストロークの感覚が、どんどん速くなる。クライマックスに向かっているらしい。客観的にとらえながらも、自然と声が漏れる。
そんな中、日本の腕がすがりつくようにベトナムの背に回された。
そして、最奥を一気に一突き。
「――く……っ!」
先端から熱いそれが一気に注がれる。この瞬間が、たまらなく嫌で仕方がない。
「――あぁぁぁっ!」
一息遅れて、ベトナムも達した。
けだるさが残る。けれどこの後も求められるのだろう。彼の眼は、まだ獣のそれと同じだった。
何度か求められた後、ようやく日本はベトナムから離れた。
その場に漂うのは、甘い空気などではない。ただの睦愛などではないのだから、当たり前だ。けだるさと虚しさだけが、その場を支配していた。
「……ねぇ、わかっているんでしょう?」
まだ残っていた煙草を取り出し、火をつけながらベトナムは小さく日本に語りかけた。
「何がです?」
「しらばっくれるのはやめなさい。わかっているんでしょう?もう――」
「……それ以上は、言わないでくださいっ!」
ベトナムの言葉をさえぎって、日本が小さく悲鳴を上げた。ベトナムは小さくため息をついて、煙草を口にする。日本から目をそらして、立ち上る紫煙に視線を移した。
「……わかった。言わない。けどあと二つ。台湾を抱くときは、こんな風に抱くんじゃないわよ」
「……気が付いていたんですか」
「わかるわよ。まだ手を出してないんでしょう」
煙草をはずして、口から紫煙を吐き出す。口から出たそれと、煙草の先端から出たそれが混ざり合い、夜空にのぼっていく。ひどく、美しく見えた。けれどそれは、虚構にすぎない。
「……煙草、一本頂けますか」
ぽつりと呟いた日本に、ベトナムは火のついた煙草を渡してやった。日本は、うまそうにもなく、まずそうにもなく煙草を吸うと、義務のように紫煙を口から吐き出した。また空に昇って、夜空に消える。
そんな姿を横目で見ながら、ベトナムもまた一口煙草を吸って、紫煙を吐き出した。日本が持つ煙草のそれと、ベトナムが持つ煙草のそれが夜空で交じり合う。
先ほどは美しく見えたそれが、今度は滑稽に見えた。煙はいともたやすく混じり合うのに、人と、国家はそうはいかない。なんてものだ。けれどそんなものだと、二人とも割り切っている。無駄に長くは生きてはいない。
「最後の一つ。……あなたは結局、何がしたかったの?」
「私は……」
煙草の先端にたまっていた灰が、音も立てずに崩れ落ちた。