無題
―清純な心―
いつだって、彼女は、心から楽しそうに笑うことは無かった。
「・・・ベトナムちゃん」
「・・・・・・・」
「ねえ、ベトナムちゃん」
「・・・聞こえてるよ」
今にも海に沈みそうな夕日。太陽は何かを照らすものだと言われるが、今は違う。
逆光となってしまい、ベトナムの顔は黒く染まっている。
「で、何のようなの」
彼女は不機嫌そうに答える。
「いやね、貴方の上司に用事があってこの国に来ただけなんだけどね、うん、ほんとにそれだけなのよ? で、帰ろうと思ったら貴方がここに佇んでいて。なんか恨めしそうな顔してて、そのまま身投げでもされたら・・・と思っただけよ」
「・・・へえ? それがもしも本当なら、その眼鏡・・・度が合ってないんじゃない?作り替えたらどう? 」
「ふふふ、そうかもね」
曖昧に笑う。いつでもこの笑いで人はごまかされるのだ。義兄の中国や、突然知り合った欧米の奴らには「爽やか」で通っている。
日本はどうだかわからない。彼も自分と一緒だろう、人当たりの良い微笑をいつも浮かべているから。
韓国や台湾も。あれで鋭いところがある。恐らく気がついているのだろう。
あと一人。ずっと陰で見てきた彼女も。
「ま、どうせ嘘だろうね。何で来たの? 真剣に答えないと、暴力沙汰だよ。できればその気持ち悪い笑い方もやめて。苛々する」
やはりバレていた。油断がならない。
「相も変わらず鋭い子ね? まあ・・・貴方と違って今日は機嫌がいいから教えてあげるわ。」
無論、話し方を貴方なんかの為に変えたりはしないわよ、と付け足す。自分でもびっくりするほど、さっきと語気が違いすぎていた。
「真面目に答えても、さっきと答えは変わらないわ。偶然見かけたから少し立ち寄っただけ。」
「殴るよ」
「同じだって言ってるでしょう。それとも、もっと私と話したいの? 生憎、今日は都合が悪いからまた今度に」
「さっさと帰れ屑」
言い終わらないうちに切って捨てられた。
さて、自分もこれ以上彼女と話す義理はない。背を向けて帰ろうとした時、
「素直に『罪滅ぼしに来た』って言えば、少しは考えてあげるのに。まあ、考えるだけだけどね」
心臓を抉りとられたような衝撃が体を襲った。
ああ、懐かしい。この痛みは・・・久しぶりだ・・・長らく感じていなかったのに。
最初に来たのはいつだったろうか、彼女が欧州の・・・誰だったかに植民地にされた時。そして、自分が日本に味方した時。そして、アメリカ側についた時。
思えば、その間はほとんど毎日の様に痛みがあったのだ。
彼女に謝罪しようとしてから何年たったのだろう。悩んでいるうちに、貿易での関係は結びつき、言い出せなくなってしまった。
彼女を見かけると、今のように声をかけ、険悪な雰囲気だけ残る。きっとこの関係はかわらない。
けれど、その関係は少し心地良かったから。仲良くしていて、ある日突然他所の奴らの勝手で壊された時の怨みや悲しみを味わうことはないから。
女言葉にしたのも、男っぽいところのある彼女の気を荒立てるため。女装壁がついたのも、その発展上。
その癖、本気では争いたくない。このままで良い。
だから、今日も俺は曖昧に微笑んでこう言った。
「違うわ、私がそんなことすると思う? 」
するといつもどおり、こう返ってくるのだ。
「全然? 」
背を向けて歩き出す。微笑は決して崩さない。
思えば、自分も心から楽しそうに笑ってない気がする。