部屋の奥から軽く咳き込む音がして、アラミスは手に持っていた書物
から顔を上げた。
ここは銃士隊隊長トレヴィル殿の書斎である。学の高
い2人に書物の整頓や目録作りが任せられたの
だが、量が多いうえにつ
い読書に没頭してしまう。作業はなかなか進まなかった。
「アトス、大丈夫か? 埃がすごいからな」
「大丈夫だ。それより、暗くなってきた。そろそろ終わりにするか」
「そうだな」
そういえば、いつの間にやら夕刻だった。
整頓し終わった部分に目印の板を挟み、アラミスは衣服の埃を払いなが
ら立ち並ぶ本棚を抜け出した。
「全く、連日こんなことでは喉や手を痛めてしまう」
「もう少し作業に集中すれば、解放されるのも早いぞ?」
アトスに含み笑いで宥められ、アラミスも頬を緩めた。
綺麗好きでお洒落なアラミスからしてみれば、たとえ詩集や聖書の宝庫
だろうとカビの生えていそうな
暗い部屋の整理など真っ平ゴメンだった。
だが、アトスが一緒にいるとなれば別だ。普段から行動を共
にすることは
多いが、最近は毎日顔を合わせている。作業の後はゆっくりと食事を取り、
あわよくば更に
その後まで…朝まで、一緒にいられるのだ。
「アトス、またあの店にするか? 昨日飲んだワインは美味かったな」
「ああそうだな…いや、まて、今日は何日だ?」
上機嫌なアラミスに、アトスは急に焦った表情で壁に掛けられた暦を
見遣った。
「やばいな…もうすぐではないか」
「何がだ?」
「うん…悪いが、今日はこのまま帰るよ。用事を思い出した」
「そんな…食事くらい、」
「駄目だ」
引き止めようとしたが、すげなく断られた。グリモーに言って、すぐに
手配しなくては、と言うのだ。暦を
見て何かを思い出し、恐らくは誰かに
何かを贈る…。あのアトスが! アラミスの胸中で嫉妬の虫がざ
わめいた。
「そういうわけで、じゃあなアラミ…っ?」
「まだ何も理由を聞いてないぞ」
急いで部屋を出ようとした身体を抱き締める。アトスは苛立たしげに
睨んできたが、それはアラミスを
ますます意固地にさせるだけだった。
「恋人との夕食を拒否してまで急がねばならない相手とは誰だ?」
「アラミス…?」
「女性か? 男性か?」
「…お前という奴は…」
アトスは深い溜息を落とした。だが、こうなったアラミスはアトスよ
りも頑固だ。扱いを誤ると、気持ちを
証明しろだとか言ってこの場で押
し倒されかねない。それに、少しは嬉しくもあるのだ、ここまで一途に
想われることに。アトスは拗ねた表情の恋人を見上げるともったいぶっ
て眉を顰めた。
「アラミス。私は急いで帰らねば」
「だから理由は」
「とある女性に、カードと花束を贈るのだ」
「なっ…! そ、それはどういう女性なんだ!?」
予想通りに慌てるアラミスに、アトスは笑い出した。
「アトス?」
「いや、すまんアラミス。あまりにお前がわかりやすくてな」
「ひどい言い様じゃないか? 俺は傷ついているんだぞ」
「そうなのか? 昔に世話になった、姉のような女性に誕生日
のカードを贈るのは、恋人がいる身では
いけないことなのか」
「え…いや、それは…」
「故郷の方だから、送るのに時間がかかるんだ。一刻も早く
使いを出さないと間に合わない」
「そ、そうだな…すまなかった」
アラミスは気まずそうに拘束していた腕を離した。だが今度は
アトスがその腕を引き寄せた。
「アト…」
「シッ。その人はな、アラミス。まだ若いラ・フェール伯爵がミ
レディーという美しい女性の虜になった時
に、周囲が反対するな
か唯一応援してくれた方なのだ」
アトスの言わんとすることがわからず、だが声音の真剣さに
アラミスはじっと耳を澄ませた。再び恋人
の腰に腕を回すと、
アトスは照れたように下を向き、また顔を上げる。
「ミレディとの結婚を心から祝ってくれたのも彼女だけだった
し、私がミレディを…裏切った時は、怒られた」
「怒られた?」
「すごい剣幕だったよ。私が惑わされた百合の刺青なんか、彼女
は気にしなかった。『貴方が愛した人と、
その人を愛した自分を信
じなさい』、そう言われたっけな。その時は説教なんか聞く気にな
れず、私もすぐ
に家を出てしまったから、喧嘩別れとなったが」
だが、こうして誕生カードを送るということは、縁が切れたわけ
ではないのだろう。
アラミスは柔らかく微笑んだ。
「良い人なんだな」
「ああ。いつも聞かれるよ、少しはマトモになったのかと」
「それは手厳しいな」
アトスの髪の毛にキスをしていて適当に相槌を打ったアラミスに、
アトスは不満そうに鼻を鳴らした。
「聞かないのか」
「何を?」
「普段はうっとうしいくらい目ざといくせに…。彼女の質問に対する
私の返事だよ」
「ああ…それで?」
いつにない鈍感さで顔を離すと、ふいにアトスが唇を重ねてきた。
明かりの抑えられた書斎は夜の闇にぼんやりと輪郭をあらわにするくら
いで、アラミスはこれは夢かも
しれないと思った。重ねてきた時と同様、
唐突にキスが終わり、アトスはさっと身を翻すと書斎の扉を開
けた。廊下
の明かりがアトスを照らし出し、アラミスは惚けたようにその笑顔を見つめた。
「アトス…」
「最近はこう答えているんだ。私は自分を信じています、とな」
「ええと…」
「じゃあな、アラミス。また明日」
パタン、と静かに扉が閉まり、アラミスは書斎に取り残された。
『貴方が愛した人と、その人を愛した自分を信じなさい』
かつて、アトスが彼女に言われたという言葉だ。
その言葉と、先ほどのアトスの言葉を何度も反芻する。いま彼を追いかけて
もっととキスねだったら
怒るだろうか。アラミスは手で口元を押さえて嬉しさ
を噛み殺した。
焦らなくてもいい。自分達には明日も明後日も、いくらでも時間はあるの
だから。アラミスはそっと神
に感謝の言葉を捧げると、書斎の蝋燭を消し
始めた。
END