風も雲もなく、視界良好。
パイロットにとってはこのうえなく飛びやすい状況だろう。
今日みたいな日は管制官も仕事がやりやすい。多忙なことに変わりはないが、
天候によって
引き起こされる些細なミスがぐっと減るのだ。
クルーズは次々に指示を出しながら、斜め前に立っているジャックを時折眺
めていた。ジャック
は手に持ったボールを弄びながら仕事をしている。順調な
んだなと、クルーズは思わず微笑んだ。
ジャックを軽んじているわけではない。
しかし、彼は自分より経験も実力も上の尊敬すべき先輩で
ある以上に、クルー
ズにとってはどんな所作も愛しく思えてしまうほどの可愛い恋人なのだ。
「あぁジャック…」
『何か?』
「あ、いや。6000フィートに降下して、それを維持せよ」
『了解。6000フィートに降下して維持する』
緩んだ頬を引き締めて、失言を誤魔化すかのように眉を顰める。
その時、ふと視線を感じた。
ジャックが、微かに顔を赤らめてこちらを睨んでいる。
握り込んでいる鉄のボールを今にも投げつけてきそうだ。
(聞こえたのか…相変わらず耳がいいな)
少々ずれたことを考えながらニヘラと笑うと、ジャックはぷいと
自分の管制卓へ姿勢を戻して
しまった。
「ジャック! ジャーック!」
休憩時間に入ると、ジャックはすぐに管制室を出て行った。クルーズは慌
ててジャックに追い
すがると、硬く口を引き結んでいる恋人の隣に並んで謝
り始めた。通り縋る人が、「またか…」
という顔をして2人の進路を避けて
いく。
「ジャック、悪かったって。謝るよ、な?」
「………」
「管制には何も問題なかったし、パイロットだって何とも思ってないさ」
「………」
「ジャック、無線越しじゃないとしゃべれないのか?」
「………っ!」
連れ立ったまま休憩室に入ると、中で休んでいた数人の管制官がそそくさと
部屋を出て行く。
気遣われたことにも気付かず、ジャックは部屋が自分達だけ
になったのを確認してやっと重い
息を吐き出した。
「――この、馬鹿野郎!!」
「イテッ! 酷いな、殴るなんて」
「これくらい当然だろう? いったい何回目だ、今週に入って」
「えーと」
「数えるな!」
「イテ! なんだよもう!」
再度はたかれた頭を抑えて抗議すると、ジャックは更に顔を赤くして怒鳴り
返した。
「それはこっちの台詞だ! 仕事中に呆けるなんて!」
「だから…謝ってるじゃないか。そんなに神経質にならなくても」
「そういう問題じゃない。一瞬の油断が命取りなんだぞ。一体、何人の命を
預かっていると思っ
ているんだ。それに…」
ふいにジャックが口ごもった。
クルーズが訝しんで覗き込むと、強く睨み返してくる。仕事大事のジャック
が、管制から注意
を逸らしたこと以外で何を怒っているのか、クルーズには
見当もつかなかった。
「ジャック? それに、なんだ?」
「………記録が残る」
「は?」
「だから! ヴォイス・レコーダーに残るんだぞ!?」
ああ…とクルーズは頷いた。
パイロットと管制官との通信は、全てレコーダーに録音されている。
万一事故が発生した際、機内で厳重に保護されたフライト・データ・
レコーダーやヴォイス・レ
コーダーから事故前後の状況を推測するためである。
確かに、フェニックス空港の管制圏に入った航空機のうちの何機かのレコーダ
ーには、
『ジャック…』という呟きが記録されているかもしれない。
「でも、そんなの大したことじゃないだろう?」
さらりと言うと、ジャックは信じられないといった顔で詰め寄ってきた。
「僕にとっては大したことだ! 考えてもみろ、数年は保存されるレコーダー
にお前の声で、
ジャック、ジャック、ジャック! 恥ずかしいじゃないか!」
「そんなに大声は出してないが…」
「同じことだ!」
ジャックはずいぶんと憤慨しているようだ。
しかし、その理由を聞いた途端、クルーズはたちまち笑顔になってジャック
を抱きしめた。
「ふぅん、恥ずかしいのか、ジャック」
「なっ…!」
「そうなんだろ? そう言ったろ?」
「な、何度も言う必要はない!」
「はは〜ん。可愛いな、それくらいで照れるなんて」
「照れるとかそういう…っ、ん、う!」
クルーズの腕から逃れようとする身体を引きとめ、強引に唇を重ねる。
身じろぎはしても拒絶はしないジャックに、自信を得たクルーズは更に
口づけを深くする。
くたりとジャックの身体がもたれかかってくるまで、
クルーズは放さなかった。
「ハ、…はぁ…」
「ジャック…気をつけるよ。こうやって名前を囁くのは、本人だけにする」
「っクルーズ、」
「まだ何かあるのか?」
耳を甘噛みしながら優しく尋ねる。
クルーズの肩口に顔を埋めたジャックの声はくぐもって聞き取りにくかった。
「僕、が…いることで気が散るなら、シフトを変えるしかない」
「冗談だろ!? 頼むよ、同じシフトじゃないと休憩や休日が合わないじゃ
ないか!」
「だから…仕事をしっかりしろと言ってる」
そして、クルーズの背中を抱きしめ、小さく掠れた声で続けた。
「僕だって、お前との時間が減るのは嫌なんだ」
「ジャック…!」
いつになく素直な告白に、クルーズはもう一度ジャックへと顔を寄せた。
しかし、その途端にジャックの携帯が鳴り響き、飛び跳ねたジャックに
クルーズは頭突きを
くらった。
「テテ…」
「す、すまないクルーズ…。あー、TC? え、外に出てこい? 苦情?
なんの? だってここ
にはいま誰も――え、それが問題?」
クルーズには、電話越しにブライアントの盛大な溜息が聞こえたような
気がした。ジャックは
未だクルーズの腕の中にいるというのに、きょとん
とした顔で友人と会話している。
ほぼ誰にも聞かれないであろうレコーダーに自分を呼ぶ声が残るのは嫌
がるくせに、外界
から扉一つ隔てた部屋では安心できるとは、天然なのか
実は図太い大物なのか。さらりとし
た金髪を撫でると、口元を綻ばせて
見上げてきた。
「屋上でコーヒー? いいけど、クルーズも構わないかな。ああ、すぐ行く」
「あ〜あ…。またブライアントに睨まれるのか」
ジャックの顔にハテナマークが浮かぶ。
なんでもない、と額に軽くキスを落とすと、外へと促した。
他の職員にも休息は必要だ。
礼儀正しい距離を保って歩く。
扉を出るとすっかりいつものジャック・ハリスに戻った彼に、クルーズは
もう一つ気になって
いた質問をしてみた。
「なあ、ジャック。あんた、いつもよく俺の声が聞こえるな。イヤホンは
ちゃんとしてんのか」
するとジャックはムッとした顔になって歩調を早め、クルーズの少し
前を歩いた。
「ジャーック?」
「……気になってるのが、お前だけだと思うなよ」
「え……」
咄嗟にはその言葉の意味がわからず、気付いた時にはクルーズはジャック
を後ろから抱
きしめていた。
「暑い! 重い! 放せ!」
「ジャック、嬉しいよ。それで、あんたは管制に支障はないのかい?」
くすくすと笑いながらジャックを解放する。
また顔を赤くして怒るかと思ったが、振り返ったジャックはにっこりと
笑い返してきた。
「支障なんてないな。僕は、お前よりも優秀な管制官だから」
「それは…精進します」
クルーズは苦笑して、再びジャックの隣へと足を揃えた。