トニーは気が気ではなかった。
それは、ニーナがジャックに言ったように、麻薬を強要されているから
ではない。
(ジャック…大丈夫だろうか…)
彼はワンマンでぶっきらぼうでトニーとは相性が合わなかったが、それでも
彼の能力には信頼を置いているし尊敬もしている。
彼に限って、とは思うが、
先ほどニーナからもたらされた不安がトニーの心を苛んだ。
『トニー、言いにくいことだけど、ジャックが…。いいえ、貴方は自分の任務
に集中して』
計画では、トニーがジェドから情報を聞き出している間、ジャックは
他の部屋を捜索する予定だった。
彼に限って。
しかし、もしジャックがあの男達に、と思うと、トニーは今すぐにでも彼を
助けにいきたい衝動に駆られた。
「あんな奴らに――」
「彼が心配? 大丈夫だよ、あいつら、ねちっこいけど上手いからさ」
ジェドは冷たく言い放った。
場所はベッドで隣にはジェドがいるのに、そわそわと落ち着きないトニー
に苛立ちが募る。焦らすのが好きなのか、前の恋人
に心が戻っているのか。
そのどちらもジェドには認めがたかった。今までの男は皆、飛びつくように
ジェドに奉仕したものだ。
「ねぇ、トニー。そんなにあの男は良かったの? でももう戻れないよ。
あんたが自分で捨てたんだから。大丈夫、僕が忘れさせ
てあげる」
「ジェド、その前にお願いが――いや。それより、やっぱり俺は彼を助け
にいかなきゃ」
「な、なんだよそれ! 待ってよ!」
トニーが意を決して立ち上がり、ジェドは慌てて彼に縋りついた。
その時、扉が勢い良く開かれた。
「トニー! 無事か!?」
「ジャック!?」
「ブレディ!!」
3人の声が交差した。
ジャックはブレディと呼ばれた大柄のボディガードの頭に銃を突きつけ、
自分の盾になるように前に立たせている。そのため、
トニーとジェドの位置か
らはジャックの姿は見えなかった。ジャックが用は済んだとばかりにブレディ
を殴って失神させた。
「ブレディ!」
ジェドが悲鳴を上げる。
トニーが思わずジャックに駆け寄ったところへ、ニーナの鋭い声が響いた。
『トニー、抱きしめなさい!』
勢い余って条件反射のように反応してしまう。
ぎゅっと力強くを抱きしめると、ジャックの身体が硬直した。
「ト…!!」
『ジャック、そのまま』
間髪いれずに司令が下り、ジャックは罵倒の言葉を飲み込んだ。
どのように事件が進んでいるのかわけがわからない。ニーナに従っていれば
間違いないだろう。
「ジャック、大丈夫ですか? 服は…ちゃんと着てますね」
「なんで脱いでなきゃいけないんだ。それより、お前は大丈夫か? 何も
されてないか?」
互いが勘違いの心配をしていると、足元から呻き声が上がった。
あまりの身長差のため、殴打がちゃんと入らなかったらしい。
「ブレディ!」
ジェドがベッドから下りてボディガードに駆け寄る。
「トニー、離せ」
『待って、ジャック。そのまま後ろに下がって』
再び銃を構えようとしたジャックに、ニーナはストップをかけた。
トニーを抱き返すようにしてブレディから離れる。よくわからない展開に
戸惑いながらも、自分とジャックが陥っている状態に
トニーは微笑んだ。いぶ
かしげに見つめてくるジャックの耳元へと囁く。
「ジャック…貴方って、態度ほどは大きくないんですね」
「トニー…終わったら覚えてろよ」
重低音の怒声はジェド達には届かず、2人は睦みあっているように見えた。
ふらつきながら身体を起こすブレディを支えなが
ら、赤く潤んだ瞳でジェドが
喚きだす。
「なんだよ、一体なんなんだよ、あんた達! 別に一晩くらい放っといたら
いいじゃないか! 僕よりもそいつの方がいい?
そんなのわかってるよ!
他の客だって、調子のいいことを言っておきながら、結局は別の場所へ帰る
んだ。僕だけを愛してく
れる人なんてどこにもいないんだ!」
「――ここにいるよ、ジェド」
泣き喚くジェドを抱きしめて、ブレディが優しく囁いた。
「君を愛している。君だけを愛すると誓うよ。だから、私を信用してほしい。
私は麻薬取締官だ」
その言葉に驚いたのはジェドだけではなかった。
ジャックとトニーは目を見開き、互いの抱擁を解くのも忘れている。
「この店のことは以前から目をつけていた。でも証拠がないうえに上からの
重圧もあって、捜査もできなかった。だが数ヶ月前、
ある女性から潜入捜査
の依頼を受けたんだ」
((ニーナ…!!))
『まぁ、不思議な偶然もあるものねぇ』
のほほんとしたニーナの声が聞こえる。
トニーは溜息を吐き、ジャックはぎりぎりと歯噛みした。
それでは、自分達は何のためにこんな真似をしたというのか。
「個人的に潜入し、情報を流してほしいと。私はそれを受けた。本部にばれ
たら危険だが、早くカタをつけて君をここから救い
出したかった」
「ブレディ…僕は逮捕されるの?」
「無罪というわけにはいかない。でも協力してくれたら刑は軽くなる」
「ボスに殺されちゃうよ」
「私が君を守る。約束する。信じてくれないか?」
「ブレディ…」
「私の本当の名前は、ロバートというんだ」
「ロバート…ロバート」
居心地の悪さに、ジャックは咳払いをした。
ロバートがすっくと立ちあがり、少々にやけた面で頭を下げた。
「君達には迷惑をかけたな。できれば今夜のことは内密にしてもらいたい」
「それはもちろん…君に依頼したという女性は、身元を語ったか?」
「何故そんなことを? そういえば君、一般人にしては動きが尋常でなか
ったな」
ぎくりとジャックは身構えた。
疚しくはないが、今更自分の立場を告白するのは気が引ける。どう答えた
ものかと悩むジャックに、トニーが助け舟を出した。
「パワー・オブ・ラブです」
「は?」
ジャックはあんぐりと口を開け――そうになって、慌てて顔を伏せた。
「俺への愛が、ジャックに奇跡の力を与えたんです」
「そんなわけ――」
「すごい、あんた達はそんなに愛し合ってたんだね!」
ロバートの不審は、ある意味箱入りでロマンティックな展開に弱いジェド
の感動の声にかき消された。
『トニー、貴方って最高よ』
トニーは調子に乗って、ジャックの腰を引き寄せた。
我慢ならないのはジャックだった。身を捩ってトニーから逃れようとする。
演技に水を差されたトニーは、むっとしてジャックを
見つめた。
「ジャック、まだ怒ってるんですか? 一時でも、他の男に目を奪われた俺
を許してください――。愛しているのは貴方だけだ」
「わかった、わかったからこの手を離せ!」
顔を真っ赤にして怒鳴るジャックに、ジェドとロバートは笑い声を上げた。
「どうやら当分、許してもらえそうになさそうだな」
「シャイなだけさ。甘〜いキスをしてあげなよ、トニー!」
『トニー、キスなさい』
もはや神の啓示のごとく予断を許さない調子でニーナが言葉を挟む。
その声音には多分に笑いが含まれていたが、トニーはそこまで察すること
はできなかった。
ただ、言われたままジャックへと顔を寄せる。
「トニー? 待て、まっ…っ、んぅ…」
深いキスを交わす2人を見て、ジェドはロバートに甘えるように笑いかけた。
「僕にも、キスをくれる?」
ロバートは優しく微笑んで、ジェドを抱き寄せた。
『これで、万事平和に解決ね』
(ふざけるな! 一体何の目的でこんな手の込んだ茶番劇を――)
耳の奥で聞こえるニーナの声に、ジャックは毒づく。更に車のエンジン音が聞
こえてきた時には、ジャックは心底、ニーナ
を敵に回したくないと思った。
『ジャック、お邪魔なようだから私は先に帰るわね。顧客名簿やらはいいわ。
正規職員のロバートに任せましょ。あ、あと、隣
の部屋にもベッドはあるわよ』
ジャックは文句を言う気力も失せて肩を落とした。
見上げると、我に返って自分がしたことにショックを受けているトニーの
青褪めた顔があった。
「トニー…帰ろうか」
彼も被害者だと思うと、張り飛ばす気にはなれなかった。
トニーは素直に頷き、シャツのボタンを喉元まできっちりと締めた。
「ジャック、俺、その――」
「いいから、もうここから出よう。な?」
恋人と口付けを交わしたにしては固い雰囲気をまとっている2人に、ジェド
は首を傾げる。
「あんた達、キスもまだだったの? セックスは?」
「ジェド、人にはそれぞれペースがあるんだよ。セックスをしない恋人だって
いるんだ」
「でも、ロバート。好きな人には触れたくない? あ、それとも、実は付き合い
始めたばかりなんだ?」
興味津々で質問してくるジェドに、ジャックは溜息を吐いた。
トニーは先ほどの余裕もなく、目を白黒させている。無視して出て行こうと
したジャックの耳に、通信は途切れたと思ってい
たニーナの声が届いた。
『あなた達、カップルはともかく、けっこういいコンビにはなれそうよ』
ふ、とジャックは苦笑を漏らした。
いがみ合いたいわけじゃない。認めるのが癪だっただけだ。彼は、自分には
ない強さと能力を持っているから。だが、認め
てしまえば、トニーからの深い
信頼を得られるのだろうか? トニーを深く信頼できるようになるのだろうか?
ジャックは答えを見つけられないまま振り向くと、ジェドに笑いかけた。わか
っていることは、ジャックにはそういった人間が
必要だということだ。そして、
今が彼を認める時なのかもしれない。
「ああ、できたばかりなんだ。でも、彼は大事なパートナーだよ」
トニーが傍らで息を飲む。
ジェドははしゃいで歓声を上げた。もともと素直な気質の彼は、自分の
幸福に他人の幸福も重なってハイになっていた。
「やっぱり! なら、キスくらいでビビってちゃダメだよ、好きな人との
セックスってとっても気持ちいいんだからさ」
「じゃあな、ジェド」
延々としゃべり続けそうなジェドと傍らで彼の髪を撫でるロバートを後ろに、
ジャックは部屋を出た。トニーが続く。扉を出たと
ころで、イヤホンがプツリ
と音を消した。
「ったく、ニーナめ…」
「やられましたね…ニーナは何がしたかったんでしょう」
「報復だよ。気をつけろよ、トニー。仕事を溜め込むとこうなる」
「俺は大丈夫ですよ。次回があるとしたら、また貴方に巻き込まれるんでしょ
うね」
「うっ…今回はすまん」
「いいんですよ、ジャック」
常にない柔らかい口調で呼びかけ、トニーが隣に並ぶ。
ジャックが見上げると、トニーはニヤリと笑った。
「だって、俺は貴方のパートナーですから?」
「…もう迷惑はかけない」
「お願いしますよ」
神妙な顔のジャックに、トニーは笑って彼の背中を叩いた。
そういやキスをしたんだっけ、と思い出すが、ジャックは不問にしてくれ
るようだ。ならば藪蛇は出すまいと口を閉ざす。
「そういや、ニーナはもう帰ったぞ」
「ええ!? じゃあ、タクシーですね…それとも地下鉄?」
「タクシーだ。早く帰ろう、仕事が待ってる」
「そうでした、貴方には特にね」
「けっこうしつこいな、お前も――」
その頃、ニーナは上機嫌で鼻歌を歌っていた。
「ジャックもいいけど、トニーもやっぱり可愛いわ〜。あの反応の良さったら
ないわね」
ニーナ・マイヤーズ。
CTUロサンゼルス支局、アシスタントチーフ。
彼女の最近の楽しみは、2人で遊ぶことだった。