来た道をすぐに戻ることになり、一時間と経たずにクルーズは自室の
ドアをくぐっていた。
そっと鍵を閉めると、微かにシャワーを使う音が聞こえてきた。思わ
ず身を強張らせる。ジャックは
起きているのだ。戻ってはきたもののど
うすれば良いかわからないまま、クルーズは息を顰めてバス
ルームへと
向かった。
バスタブを打つ水音に混じって、嗚咽が聞こえる。次いで苦しそうに
咳き込む様子に、強い罪悪感
がクルーズを襲う。できれば身を清めるの
を手伝いたかったが、彼の心情を思うと入れなかった。
どんな理由があ
ろうとも、クルーズが触れることを今のジャックは望まないだろう。
脱衣所にタオルと
衣服を置くと、リビングのソファに腰掛けて待つこと
にした。
昨夜の痕跡が残るソファを整え、コーヒーカップを片付ける。
コーヒーを飲みながら楽しく会話していた時間を思い出し、クルーズ
は自分を呪った。自分はジャック
の信頼を裏切り、築き始めていた関係
をぶち壊してしまったのだ。ブライアントにもう一度、殴り飛ばし
てほ
しい気分だった。
バスルームの扉が開く音がして、更にずいぶんと時間がかかってから
ジャックはリビングに現れた。
クルーズがいることをあらかじめ知っていたせいか、驚く様子はない。ただ、決して視線を合わせて
くれないことが辛かった。
「ジャック、その…」
「タクシーを呼んでくれないか」
ひどく掠れた声だった。顔色も青白く、僅かな歩行にすら表情を歪ませ
ている。苦しそうな様子を
見ていられなくて、クルーズはソファから立ち
上がるとジャックの傍へと駆け寄った。彼が全身を
強張らせるのも構わず、
負担がかからないよう身体を支える。
「放せ、クルーズ…!」
顔を上げてクルーズを睨み付けたジャックの動きが固まる。
何事かとクルーズはジャックを見返した。ああやっぱり綺麗な瞳だな、
などとどこか場違いなこと
を考える。
「クルーズ…その顔…」
「え、ああ…」
TCに殴られた頬のことだろう。じんじんと痛みが止まらないので、
腫れているのかもしれない。
ジャックの緊張が少し和らいだ。気遣うよ
うなその気配に、クルーズの胸に申し訳ない気持ちが
こみ上げる。自分
がジャックにしたことを思えば、こんなものでは罪は償えないと思った。
「自業自得さ。…あんたに心配してもらうようなもんじゃないよ」
「どうしたんだ? まさか喧嘩でもしたのか?」
「いや、これはブライアントが――」
しまった、と思ったが遅かった。
出した名前にジャックの目が見開かれる。だが次に浮かんだのは、怒
りではなくどこか諦観めい
た苦笑だった。
「職場に行ったのか?」
「ああ…あそこしか、行く場所が思い当たらなくて…」
「TCに殴られたのか。あいつはこのことを知ってる?」
「たぶん…いや、はっきりとは言ってないけど」
あいつもお節介だなと洩らしたジャックに、甘い期待が湧く。このまま
謝り倒せば、許されるんじゃ
ないだろうか…そう思って顔を輝かせたクル
ーズに、ジャックはそのままの穏やかな口調で続けた。
「じゃあ、空港まで送ってくれ。後はTCに家まで送ってもらうから」
「ジャック待てよ! その、俺、謝らなきゃ…」
「許さない」
きっぱりと告げられ、クルーズは言葉を詰まらせた。
「ジャック…」
「今は何も聞きたくない。すまないが、空港まで送ってくれ。自分じゃ
ろくに動けないんだ」
暗に昨日の行為を責められては何も言えなかった。本当に億劫そうに
立っているジャックの身体
を支えたまま、再び駐車場へと向かう。なん
とか糸口を掴もうと、クルーズは焦って口を開いた。
「ジャック、俺、俺が家まで送るよ」
「いいや。昨日から僕の車を管制塔前に置きっ放しだ。部外者の車が何
日もあるのはマズいだろう」
「じゃあ、俺がアンタの車を運転してく」
「いらない。午後から仕事なんだろ」
仕事はTCに免除してもらったのだが、冷ややかな口調で断られてク
ルーズはそれ以上言い募れな
かった。後部座席にジャックを横たえさせ
ると、極力静かに車を発進させる。先ほどブライアントに殴っ
てほしい
と思ったが、すぐに実現できそうだ、そう絶望的に溜息を吐いた。