そわそわと、その日のクルーズは落ち着きがなかった。
いつもの軽口も叩かず、ジュリーに体調が悪いのかと心配されたくらいだ。
通りすがりに、TCに声をかけられる。
「クルーズ、お前大丈夫か」
「え、ああ。もちろん。風のせいで一機遅れてるけどー」
「そうじゃなくて。この後、行くんだろう」
「ああ…」
集中しているフリをしてじっとモニターを見つめていると、TCはクルーズの肩を叩いてすぐに立ち去ってくれた。
初めてジャックと会った日から、つまりはあの夜から4日が経っていた。まだ4日だ。しかしクルーズからすれば人生で
一番辛い期間だった。TCに頼み込んでジャックの住所を聞き出したので、今夜にでも謝りに行くつもりだ。ジャックは自
分になど会いたくないだろうが。話をどう切り出そうかと、朝からそのことで頭が一杯になっている。
「クルーズ。1703便、西に煽られてるぞ」
「ヤベッ!」
再びTCに声をかけられ、クルーズは慌てて画面に集中した。
到着先の管制官に繋いでフゥと息を吐いてから、TCがまだ傍にいることに気付く。
「さっきは助かった。ありがとう」
「…ふむ。やっぱりお前、素直になったな」
「え?」
「いや、こっちの話だ」
てっきり怒られるかと思ったのだが、TCの機嫌は悪くないようだ。
「何か用…か?」
「ああ、そうだった。これを持っていけ」
無造作に物を投げられ、自分の腹にぶつけるようにして受け取る。
メイプルクリームを挟んだ、とてつもなく甘そうなクッキーだ。
「TC、これは?」
「いいか、お前らの問題に、俺はもう口出ししないことに決めたんだ」
そう言いつつも、頑張れよと肩を叩いていく上司に、クルーズは口の端を上げた。
ジャックの好きなクッキーなのだろ
うか。箱ではなく一枚だけというところが彼らしい。クルーズはクッキーの包みをジャケットのポケットに入れると、これ以
上醜態を晒さないよう仕事に集中した。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
仕事が終わると、すぐに管制塔を出た。
道が混んでいてイライラしたくせに、ジャックの住むアパートメントに着いた途端、
クルーズの動きは鈍くなった。のろの
ろと廊下を歩き、扉の前ではベルを押すまでに10分はかかった。軽いベルの音はやけにそっけなく、拒絶しているかの
ように響く。クルーズはポケットの中のお守りにそっと触れると深呼吸した。
『はい?』
「あ、じゃ、ジャック…!」
インターホンの向こうでジャックの声が聞こえた途端、深呼吸の甲斐なくクルーズの思考は真っ白になった。幾通りの
謝罪を考えてきたのに、何も出てこない。どころか、声は詰まり涙が浮かんできた。
「ジャック、俺…その、」
なんて無様なんだ、俺は。
「つまり、その…謝りに来たんだけど。ああっクソ! 違うんだジャック、ええっと」
しっかりしろ、クルーズ。
これじゃまるで二日酔いして泊めてもらっただけのようじゃないか。舌打ちして歯噛みしていると、プツリとインターホン
が切れた。絶望的な気分になるが、小さな足音が聞こえて胸が高鳴る。カチャリと鍵が回る音がした。しかし扉は開かれ
ない。自分から開ける勇気はなく、クルーズは扉に額を押しつけた。
「ジャック…聞こえる?」
「…聞こえる」
「開けてくれるのか?」
「迷ってる」
短い言葉の中に、ジャックの気持ちを推し量ることはできない。
「ジャック、本当にすまなかった。謝ってすむ問題じゃないだろうけど。でも、あの時に言った気持に嘘はないんだ。それ
だけは信じてくれ。っても、アンタには迷惑な話だろうけど」
「目が覚めたわけじゃないんだな」
「え?」
扉越しのため、声がこもってよく聞こえない。
クルーズは聞き返したが、ジャックはそのまま黙ってしまった。
「ジャック、ジャック。せめて、顔を見て謝らせてくれないか? 本音を言うと俺はアンタと縁を切りたくないけど、もう二度
と会わないようにするから…なあ?」
それでも扉の向こうは静かで、これが最後と覚悟を決めてきたクルーズは持ち前の意固地さを出す余裕がでてきた。
「ジャック、俺の性分は知ってるだろ? 一度でいいんだ。会ってくれなきゃ、毎日だって通ってやるぞ」
それでは犯罪の上塗りだが、実際自分はそうするだろうと思った。
「ジャック、頼むよ。俺を見ると吐きそうになるってんなら、俺の顔に吐いてくれていいから。TCに殴られてお終いなんて…
せめてアンタに殴られないと、俺、一生最低野郎の気分のままだ」
咳払いが聞こえた。笑いを押し殺しているようだと思ったのは気のせいだろう。
それでも扉が開かれないので、クルーズは今日は諦めることにした。ストーカー行為で警察を呼ばれたって、これからも
通ってやるつもりだ。
「急に悪かった。もう少し日が経ってから来るから、その時には会ってくれよな」
踵を返そうとして、ポケットの中のお守りを思いだす。
ビニール袋に包まれた、一枚のメイプルクッキー。しょうもないお土産だが、今の自分には似合っている気がした。TCの
好意を無駄にしたくないし、ジャックが好きだというのなら渡したい。珍しい菓子でもなんでもないのだが。扉に付けられて
いる郵便受けに、少し表面を削りながら押し入れる。床に落ちる音がしなかったので、ジャックが受け取ったのだろう。
それほど、近くにいるのだ。
クルーズはじっと扉を見つめ、ため息を落とすと背を向けた。
数歩歩いたところで、重そうな扉の開く音がした。
「クルーズ」
すぐに振り返ったものの、どんな表情をすればよいかわからない。
固まっているクルーズに、ジャックは手に持ったクッキーで自分の頭を軽く叩いた。その顔は無表情だ。
「これからも来る気なら覚えといてくれ。僕は、このクッキーは苦手なんだ」
……TCの野郎。