『お気の毒ですジャックさん』




 サラザール一味の元へ潜入してから2ヶ月が経った。
 最初はラモンの部屋掃除や敷地内での犬の散歩、晩酌の付き合いだけ しかやることを与えられなかったが、
ラモンはやっとジャックを仕事に 使うことに決めたようだった。

「お前の能力は前から認めていた。頭の回るヤク中だってな」

 初仕事の前夜、ラモンはジャックを自室に呼び出した。
 ジャックをソファに座らせ、自身は部屋を歩き回りながら時折目を細め てジャックを見遣る。

「それに、お前も…早く俺の役に立ちたかったようだな。仕事に出かける 俺を、不満げな顔で見送るお前は
それはそれでクるものがあった…」

 あくまで一人称で悦に入るラモンに、ジャックはその内容をよく理解で きないまま曖昧に微笑んだ。
 ともかくも、やっとサラザール達の輪に入れ るのだ。よそ者で新米のジャックが信用を得るにはもっと長い
時間がかか ると思っていたが、予想外の好展開だ。

「ああ、ラモン。俺は犬の散歩や掃除よりも実戦の方で役に立つ。明日、 それを証明してやるよ」

 勢い込みすぎない程度に自信ありげに告げると、何故だかラモンの顔 が歪んだ。
 ジャックに顔を見られたくないとでもいうように掌で隠し、 窓際へとよろめいていく。

「お、おいラモン?」
「くっ…なんて健気なんだ、お前って奴は…」

 その声は震えていて、ついでに厳つい肩も震えていた。
 ラモンはどうやら泣いているらしい。食後のデザートに打った ヤクが回ってきたのだろうか。

「何のことだラモン? 俺はお前に心配されるほど頼りないか?」
「ジャック…! そうじゃねぇ、お前ほどの男だ、上手くやり通せる だろうよ。ただ、だからといってそれを
やらせる自分に腹が立っちまって」

 ジャックは彼を気遣う表情を変えないまま、周辺にクエスチョンマーク を撒き散らした。

「何か問題でも? シシルって男はそんなに厄介な奴なのか?」

 明日のジャックの役目は、とあるパーティへ参加し、主人の目をラモン達 から逸らすことだった。
 言わば接待で、飲ませて潰すかどこか陰で失神でも させるか。その間にラモン達は倉庫の上等な麻薬を失敬する。
シシルという 主人とラモンとは懇意な仲のようだが、盗まれる方が馬鹿という黄金の方式 がここ一帯の麻薬組織にはあるようだ。

 いずれにせよジャックにとっては容易なことのように思えた。
 シシルはイギリスの湖水地方に憧れているらしいので、ピーターラビット の話でも持ちかける予定だ。絵本はどうしよう?
持っていくべきだろうか。 大学では英国文学を専攻していたジャックは、少し楽しみでさえあった。 心配なのはラモン達の
方で、たかが主人と側近数人を引きつけたところで、 他にも警戒している奴らはいるだろう。

「俺なら大丈夫だ、ラモン。それより今後もシシル達と交流を続けるん なら、お前達の方こそしっかりしてくれよ」
「そうだな、ジャック。そこまで覚悟してくれているんなら俺も遠慮は しねぇ。ただ覚えておいてくれ。辛くないわけ
じゃあないんだ…」

 そう言って、ラモンがふいに顔を近づけてきた。
 決して強引ではない口付けに、しかしジャックの反応は遅れた。
 触れる だけで離れ、今までに見たことのない色を瞳に浮かべて自分を見つめてく るラモンに、ジャックの二の腕に
一気に鳥肌が立った。

「ラモっ…!!」
「こんな仕事をしてるからって、好きな奴も大事にしてやれねぇなんて情け ねぇな。だがお前が最適なんだ。
シシルもきっと気に入るだろうよ」
「ら、もん。ちょっと待ってくれ」

 思っても見なかった展開に、思考がついていかない。
 それでは、明日着ていく服にやけに胸元の開いたシャツを渡されたのも、 上目遣いのレクチャーを受けたのも、
グラスから少しこぼして喉に垂らす 酒の飲み方も、全て”その”想定のもと、計算されたものだったというのか。

「つまり、俺は、明日シシルと…」
「言わないでくれ! 俺の為とはいえ、お前が他の奴に…なんて」

 感極まったラモンが再び顔を寄せてきて、ジャックは思わずその腕を振り 払って逃れた。

「触るな!」
「ジャック…気にするな。お前は汚れちゃいない」
「はあ!?」
「お前の過去に何があったか…聞くつもりはない。明日のことも、責められ るのは俺だ。
ただ、頼む、今夜は俺のものになってくれ」

 いやだ!!!
 本心はそう絶叫していたが、自分の立場と仕事を思いその言葉を飲み込んだ。
かといって、ラモンの申し出を受けるわけにもいかない。シシルの相手をする わけにもいかない。ジャックはにじり寄る
ラモンに押されて壁まで後ずさると、 潤んだ瞳でラモンを見つめた。

「ラモン…ダメだ」
「どうしてだ、ジャック!」
「明日も、シシルとは…やっぱり無理だ。俺…俺、腹を壊したみたいだ!」

 そう叫ぶと、唖然としているのかショックを受けているのか判別のつかな い顔で口をあけているラモンに背を向けて
部屋を走り出た。周囲の人間にも 腹下しを演じるため、即効でトイレへと駆け込む。幸い、かどうかは知らな いが、
ヤク中の症状には嘔吐や下痢もある。ラモンは納得してくれるだろうか。

 初仕事で、まさかそんな役回りがくるとは思っていなかった。知らずに 決行されていたら、シシルを瞬殺してしまって
いたに違いない。そんな腐っ た趣味の奴が他にいるとも思えないが、まさか今後も似た役目を任されるの だろうか。

 それに、ラモン…。
 思った以上に彼の心を掴んでしまったようだ。そして、自分達は両思いだ と信じている。それを吉と取るか凶と取るか。
ジャックは便座に座り込むと 頭を抱えた。数々の死線を潜り抜けてきたが、こんなプレッシャーは初めて だった。サラザール
一味の犯罪ネットワークを暴くという潜入捜査以外に、 ひたむきな恋人を演じつつ貞操を守るという負荷まで背負ってしまったのだ。

 ジャックは深く溜息を吐いた。
 唇の上だけで最愛の娘の名を幾度も呟く。
 下痢止めを持った心配顔のラモンが訪れるまで、あと24秒――


   〜END〜




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2006.12.16
定例24会議第二回に出品。








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