ジャックはホテルの11階分の階段を一気に駆け上がった。
エレベーターが下りてくるまで、じっと待っていられなかったからだ。たと
え乗っていたとしても、狭い箱の中でゆっくりと
上昇していく数字を苛々と見
るだけだ。それよりは、自分が動く方がいい。ジャックはそんな人間だった。
大きく息を喘がせながら指定された部屋へと急ぐ。
簡素な扉の前には明らかに一般人ではない男が2人控えていて、ジャックは
見知った1人に自分の身分証明書を提示
した。男は頷き、胸元のポケットから
携帯を取り出すと「バウアーが着きました」と相手に伝えた。扉が開くまでの
僅かな間、
気を急かせるジャックの肩に、男の手が置かれた。普段は無口で無
愛想な男だ。ジャックは訝しげに視線をやる。
「なんだ?」
男は何も答えず、まるで労わるようにポンポンと叩くとまた直立不動の姿勢
に戻った。SPにまで伝わるほど、事態は深
刻なのかとジャックは眉を顰めた。
「やあ、バウアー。よくきてくれた」
「大統領主席補佐官」
扉を開けてジャックを招きいれたのは、デイビット・パーマー大統領の主席
補佐官で実の弟でもあるウェイン・パーマー
だった。毅然とした顔立ちには、
やや疲労の影が浮かんでいる。
「突然の呼び出しで悪かった。誰にも見られなかったか?」
「無茶を言いますね。私はCTUのオフィスにいたのですよ」
「どう理由をつけて抜けてきた?」
「火急の用ができたから外へ行くと」
「それだけ? 場所は聞かれなかったのか?」
軽く肩を竦めたジャックに、ウェインは呻いた。
国家の安全を守るCTUが、捜査官を無断で野放しにするとは。
そうなるまでにあった、職員とジャックとの規則を挟んでの熾烈な攻防を
ウェインは知らない。だが今回ばかりは哀れな
CTU職員の杜撰な対応に感謝した。
「それで、深刻な話とは? 大統領は中にいらっしゃるのですか」
「ああ……」
そこで何故かウェインは視線を泳がせると、先ほどのSPと同じくジャックの
肩をポンポンと叩いた。
「パーマー大統領はメインルームで君を待っている。私は出て行くから、話は
彼から聞いてくれたまえ」
「わかりました」
そそくさと部屋を出るウェインに、ジャックはますます緊張が高まるのを感
じた。大統領から直接の話とは、一体どれほど
の国家危機なのだろうか。自分
は散々、規則違反だ何だと非難されているが、その無謀さがまた役に立つのか
もしれない。
ジャックの心は愛国と大統領への忠義に燃え立った。
「大統領、ジャック・バウアーです」
「入りたまえ」
豪奢すぎることもない、しかし広々とした間取りで柔らかい照明が灯る部屋
で、パーマーはくつろいでいた。スーツは着て
いるがネクタイは緩められ、手
にはワイングラスを持っている。そして何よりジャックのハザードランプを消
滅させたのは、彼
の笑顔だった。多くの国民を虜にした、和み系大型動物の
鷹揚な微笑だ。ピカピカと光るパーマーの頬に、ジャックは戸惑った。
「忙しいのによく来てくれた。ワインは?」
「いえ、けっこうです。あの、大統領……さっそくですが、話とは」
「話?」
パーマーの笑顔は微塵も揺るがない。
彼はこのうえなくご機嫌で、テロの脅威などどこにも潜んでいそうにない。
グラスを置いて近付いてくるパーマーを見上げる
形になりながら、ジャック
は口早に答えた。
「深刻な話、と伺いました。内密に話したい緊急の用があると……」
「ふーむ、そうすると、深刻な話というのは解消されたな」
「解消された?」
「つい今な。君が足りなくて、この国の大統領は使い物にならなかったんだ」
「……だ、大統領!?」
きょとんと目を瞠り、次いでその言葉を理解したジャックの顔が急激に赤く
染まっていくのを見て、パーマーは大きな腕で
ジャックを抱きしめた。
「大統領!」
「ジャック。会えて嬉しいよ」
「冗談なのでしょう? 何か、他の大事な用件が――」
「とんでもない。君はもっと自惚れてもいい」
「わ、私は、仕事中だったのですよ!」
「では帰るかい?」
もごもごと抵抗していたジャックの動きが止まった。
完全にジャックを見下ろす背丈のパーマーには、伏せられた表情がわからな
い。だが耳元まで染めている可愛い恋人に、
パーマーは愛おしさがこみ上げて
きた。
「意地悪を言ってすまない。私の我儘なんだ。許してくれないか」
「……許すなんてそんな」
「では許してくれないのかい?」
「ち、違いますっ」
慌てて顔を上げたジャックに、パーマーは微笑んだ。
視線が合うと、ジャックの纏っていた硬い雰囲気がやわりと解けた。
「ジャック、会いたかったよ」
「……デイビット……私もです」
2人の唇がゆっくりと重なる。
強く抱きしめられ、ジャックはふと自分の現状に思い当たった。なんとか
ジャケットを羽織ってくるマナーは持ち合わせて
いたものの、下のTシャツは
肌に張り付いて気持ち悪い。焦って来たうえに最後は階段を駆け上ったので、
汗だくだったの
だ、自分は。
そう自覚した瞬間、ジャックは大きく身を捻らせた。
咄嗟に逃げようとしたのだが、パーマーがそれを許すはずがない。
「大統領、放してください!」
「だめだ」
「逃げませんから! その……汗をかいてるので、先にシャワーを」
しどろもどろになって言い募るが、パーマーは抱擁を解かずにジャックの
首筋へと舌を這わせた。
「っ……」
「本当だ、しょっぱいな」
「なっ……!」
羞恥に顔を歪まされて、さすがにパーマーも良心が咎めた。
ジャックの嫌がることはしたくない。
「ジャック、どうしてそんなに嫌がるんだ」
「き、汚いでしょう…。それに、汗臭いし…」
「なんだ、そんなことか」
パーマーは破顔した。
つまりジャックは、自分が汗をかいているから、パーマーが嫌がらないかと
気を使っているのだ。パーマーは全く気にし
ていなかった。それより、息せき
切って恋人が会いに来てくれたのだと思うと、彼の汗すら愛おしく感じる。
再び首筋に顔を埋めると、ジャックが息を詰めるのがわかった。柔らかい
皮膚を舐め上げると、腕の中の身体が微かに
震える。ジャケットの下に掌を
滑り込ませ、汗で張り付いたシャツ越しに肌を撫でる。
「や、うわっ!?」
抗議の声は直前で悲鳴へと変わった。
ジャックの身体が床から持ち上げられる。腰と尻を抱え上げられ、
揺れる上体にジャックはパーマーの首へと咄嗟に腕を
回した。難なくジャック
を抱き上げたパーマーは、そのままクルクルと踊りだしそうな優雅な足取りで
寝室へと向かった。
「大統領! 下ろしてください!」
「また大統領、に戻ってるな、ジャック。名前で呼んでくれないか」
「人の話を聞いてください! いつも言ってるでしょう、あまり恥ずかしい
真似はしないでくださいと!」
「恥ずかしいのかい?」
「私をなんだと思ってるのですか!? いい年をしたおっさんで、ムサイ
軍人出身なのですよっ」
常の大人物な振る舞いとは異なるパーマーの子供っぽい一面は、ジャックも
気に入っている。しかし、自分を子供や女性
のように扱うのは勘弁してほしか
った。同じ男性として、けっこうなコンプレックスがあるのだ。
なのに、ぎゃんぎゃんと喚く声に構わず、パーマーはゆっくりとジャック
をベッドへ下ろした。
「そうとも。君は優秀な捜査官で、そして私の恋人だ」
優しいキスで唇を塞ぐと、観念したように応えてきた。
束の間の逢瀬の後、ウェインに用意させた服にジャックは着替えた。
白い肌は、興奮の跡をなかなか消してくれない。上気した身体を宥めようと
ベッドを離れて水を飲むジャックを、パーマー
は満ち足りた顔で眺めていた。
おそらく別れの言葉だろう、口を開こうとしたジャックを遮って手招きする。
ジャックは逡巡した後、素直にパーマーの隣へ腰を下ろした。
「ジャック、今日はすまなかった」
「いいえ、大統領」
「CTUへの言い訳に窮すれば、私の名前を出してくれて構わない」
「そんなわけには。大丈夫、なんとかしますよ」
すっかり柔らかくなったジャックの態度に気を良くしたパーマーは、もう
少し我儘を言いたくなった。
「また会いたくなったら呼んでもいいかな」
「もう少し私の心臓を気遣ってほしいですね。何事かと思いましたよ」
「国家の危機、で間違いはないんだがなぁ」
「大統領」
軽く睨まれて、パーマーはおどけてホールドアップの形をとった。
ジャックが呆れたように笑い、指で銃を作って撃つ真似をする。パーマーは
ウッと悲鳴を上げ、ベッドへと仰向けにダイブ
した。その際、ジャックの腕を
しっかりと掴んで。
「わっ!」
慌ててパーマーから下りようとするが、腰を抱きこまれて動けない。
「あの、大統領、そろそろ戻りませんと…」
「ああ、お互いにな」
パーマーは深々と息を吐いた。
「なぁ、ジャック。君はないのかい? 私に会いたくて、仕事を放っぽりだし
たくなるようなことは」
「ないです」
きっぱりと否定され、パーマーはショックに表情を固まらせた。
「ジャック……私は、君も同じ気持ちかと……」
「気持ち? 気持ちは同じですよ。いつだって会いたいし、こうして会えたら
とても幸せです。でも、私の仕事は貴方とこの
国を守ることなので。放ること
はできません」
視線を外しながらも淀みなく答えるジャックに、パーマーは自らの狭量を
罵った。
ジャックに信頼されている。そのことを、こんなにも誇りに思う。
「ジャック……」
「はい、大統領」
見上げれば、青く澄んだ瞳と出会う。
自分はこの瞳にどのように映っているのかと思い、優しく見返してくれる
のだからそう悪くはないのだろうと自信を持った。
「ジャック。私達は、本当に良いカップルだな!」
「ええと……」
身を起こそうとしたジャックを留め、感謝のキスを。
ジャックに尊敬され続けるためにも、パーマーはそろそろ米国大統領に
戻らなければならなかった。
後日、ジャックはトニーの嫌味攻撃に耐えかねて、パーマーの名前を出し
た。それによってシャペルは途端に押し黙った
のだが、理由であればともかく、
「大統領に呼ばれて」だけで収まるほどトニーは大人しい部下ではなかった。
更にその数日後、
トニー・アルメイダに説教されて頭を垂れるパーマの姿が
あった。
『聞いてますか、大統領?』
「ああ、聞いているとも。勝手してすまなかった」
『そう思っていただけるのでしたら恐縮です。貴方はもちろん、組織のなん
たるかを知っているでしょうから』
「ああ、もちろんだ、アルメイダ君」
『結構です。では今後、上を通さずに直接捜査官を呼び出すのは遠慮してく
ださい』
「ああ、ううむ」
『私は何か間違ったことを言っているでしょうか? 個人的な理由で、勤務
中の捜査官を呼び出すのをやめてくださいと
言いたいだけなのですが』
「ああ、その通りだな。よくわかったよ。じゃあ、公務があるのでこれで
失礼する。ジャックによろしく伝えてくれ」
『ええ、会えれば。ここ数日、オフィスに閉じ込めて書類整理をやらせ……
失礼、書類整理に勤しんで他者を受け入れ
ていませんから』
「……で、ではこれで失礼する……」
お前、どうしてそうエラそうなんだ――。
隣で聞いていたウェインはそうツッコミを入れ、手帳を開いた。パーマーは
明日から国外へ視察に出かける。となると、
また今夜あたりジャックを補充し
ておかないと危険だ。視察先で鬱になられたら困る。そして呼ばれれば、どれだけ
見張
られていてもジャックならCTUを抜け出してパーマーのもとへ来るはずだ。
この2人は、止められない。
そのことにCTU側が気付くのはそう遠い未来ではないだろう。