…いつでも言いだせる機会はあっただろうに、遂に言い出す事が出来なかったのだ。
いつも傍らには彼が居て、それが当然の様に思っていて、そしてある日突然、息苦しくなってしまって。 何かの病気かと思ってバーバラに相談すると、バーバラは笑って、病気だね、病だね、と言ってクローディアの背中を優しく撫でてくれた。何の病気かは言ってくれなかったけれど、苦しい事だけではなかったから悪い病気ではない、とクローディアは思った。 思いを告げる機会は何度でもあった。頭の中で何度もその言葉を反芻した。 ふとした時に彼と視線が合う。何故か居たたまれなくなって目を反らしてしまう。そんな時、彼はいつもの、困った様な、悲しい様な笑顔をする。 私は彼を傷つけてしまった、と、何度も思った。 そして、遂に彼に何も告げる事なく旅が終わってしまった。 少しの安堵と同じくらいの落胆。 彼は王宮へ戻り、自分は森へ戻る。 彼と結びつける物も何もない。これで終わってしまう。 そうしていつもの日々に戻ろうとしていた時に、顔見知りの詩人が彼女の元へ訪れた。 「懐かしい顔ぶれともう一度、会ってみたいとは思いませんか?」 穏やかになった胸がまたざわついた。 … 人との付き合いが以前より上手くなったからと言っても、沢山の人がいる所は苦手だった。一人、喧騒から離れた所で佇んでいると、グレイがクローディアの元へやってきた。彼と会うのは久しぶりだったが、変わった様子も無かった。無口で無表情な所も相変わらず。 遠くで詩人の奏でるギターが聞こえる。その曲に合わせて若い者達が手を繋ぎ、ステップを踏む。 グレイ曰く、こういう時は戦いに勝利した仲間達と手を取り、お互いの無事と勝利を称え合いながら踊るという。 そして、踊りと聞いてクローディアはある事を思いだす。 「ああいうのじゃなくて」 「ん?」 「王宮で、貴族達が踊る…その…何て言えばいいのかしら」 「ワルツか」 「そう、それ、かしら。それの方が良いわ。知っているなら教えて」 いつだったか、クリスタルシティの噴水広場の前で結婚式が行なわれており、そこでのダンスパーティを少し見た事がある。 男女が二人、向かい合い、緩やかなリズムと共にステップを踏む。 その様子がクローディアには、白いウェディングドレスと共に、とても印象が残っていた。 しかし、その手の作法ならばジャンの方が詳しいと、グレイは思った。 「ジャンに教えて貰えば良い」 「それじゃ意味無いわ」 「何故」 「…ジャンの驚く顔が見たいの」 クローディアが少しおどけた表情を見せる。 それを見たグレイは少し苦笑し、そして、彼女の片手を貴婦人を敬うが如く優しく握る。 突然の事に戸惑ったクローディアだが、既にダンスは始まっているのだと気付き、それを受け入れる。 「俺もあまり覚えていないのだが」 「知っている事だけで良いわ」 軍に居た頃に訓練の一環として作法を習った事があったが、貴婦人の護衛などした事もなかったので、実践した事はほぼ無い。それでも、身体は覚えているもので自然と足が動く。 対するクローディアは、慣れない事をしているせいで度々グレイの足を踏みつける。それでもグレイは嫌な顔一つせず、クローディアにダンス中の身体の動かし方から足の動かし方、ダンスが終わった後の振舞いまでを根気良く教えて行く。 皇女という血筋がなせる業なのか、クローディアの飲み込みの良さにグレイは舌を巻いた。これならばいつでも社交界デビューは出来るな、と思うが口には出さない。 「どう?」 「うん、それでいい」 グレイはあまり世辞など言わない質だから、その言葉が素直に嬉しかった。 「ジャンは私と踊ってくれるかしら」 遠くで騒がしくやっている面々を眺めて言う。 銀髪頭の男が黒装束の男と乾杯をしているのが見えた。 「喜んで踊ってくれるさ」 グレイにそう言われると妙に安心する。 「ここで少し練習していくわ」 「そうか」 「一人で大丈夫だから」 ありがとう。 そう、声には出さないが、グレイは察し、彼女を置いて騒がしい輪へ戻って行く。 その彼を見て仲間が一人、酒を振舞う。 一人残ったクローディアは背筋を伸ばし、先ほどグレイが教えてくれた様に身を躍らせる。 目の前は一面の闇。遠くからは喧騒が聞こえる。 そして一人でこうしているのが段々と馬鹿らしくなってきた。 木のベンチに腰掛ける。 踊るも何も、まず声を掛けないと話は始まらないのに。 それでも賑やかな輪へ飛び込む事は憚られた。 このまま姿を消したら、彼はどう思うだろうか。 私の事を追いかけて探しに来てくれるかしら。 それとも、気にも留めないだろうか。 思考が段々と後ろ向きになってきているのに気付いて頭を振る。 こんな事では駄目だ。 少しでも良い笑顔が出来るようにと、クローディアは自分の頬をつねって外側へ伸ばし、強張った顔をほぐしてみる。 仏頂面の自分を見たバーバラがよくしてくれた方法だった。 そうしていると、人の気配がしたので両手を離す。 グレイが戻ってきたのかと思い、そのままうつむいたままで居ると 「クローディアさん、お相手願いませんか」 意外な声がして顔を上げる。 ジャンが片手を差し出してきた。 目の前の事が信じられなくてクローディアは瞬きを繰り返す。次第に頬が熱くなる。 先ほどグレイが教えくれた様に、差し出された片手を取る。ジャンはその手を握り返す。 手から伝わる熱にこれが夢では無いという事を知る。 ジャンの片手がクローディアの腰に回され、二人は向かい合う形になった。 跳ね上がる心臓がジャンにまで伝わっていないか不安になったが、ジャンの口から吐かれる息が酒臭いので多少、気が紛れる。手が熱いのも酒の所為なのか。 「ジャン、飲みすぎじゃないの?」 「申し訳ない!勝利の後の酒は旨くって」 そして勢い良くステップを踏むものだから、クローディアは躓いてジャンの胸元に倒れ掛かりそうになってしまった。 酔いのお陰でジャンの足取りが度々もつれ、踊りが台無しになったりもしたが、それで良かった。その度に笑いがこぼれるのが心地よかった。 驚いた顔を見れなかったのは少し悔しいけれど。 「ジャン、そこの足は違うわ。私が足を引いたら貴方は足を出さなくちゃ」 「さすがだ。グレイの教え方が上手かったんですね」 その言葉から、ジャンがここへ来てくれたのも、踊ってくれているのも、グレイが取り計らってくれた事なのだと知り、少し落胆する。 ジャンは自分の意思でここに来てくれた訳ではない。 それでも。 「来てくれてありがとう」 普段は言えない言葉が素直に出た。 「いえいえ、お相手出来て光栄の極みに存じます」 「もう、そんなかしこまった事、言わないで」 遠くからの喧騒はやがて静かになってゆき、宴会も終りに近い事を知らせていた。 終わってしまう前に言いたい事があった。 この人はグレイと違って言葉で言わないと気付いてくれない人だから、ここで言わないと一生後悔する。 なのに、その言葉は喉に引っかかって上手く出てこない。 ジャンはクローディアの様子に気付き、彼女の顔をじっと見つめて言葉を待つ。 「また踊ってくれる?」 絞り出す思いで出した声は震えていた。 喉の奥が痛くて、何かが込み上げてくる。 目の奥が熱い。 「はい、喜んで」 そう言って、ジャンの手がクローディアの目元に浮かんだ涙を優しく拭う。 クローディアもまた、ジャンの顔に手を伸ばす。 手を何かが濡らした気がしたが気付かないふりをして、少し背伸びをし、そっと頬に口付け目を瞑った。 … |