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 ラビリンス

「…まずこれがないと始まらない、六法全書」
「う、うん……」
 どさりとカーペットのうえに出した。大判の分厚い辞書の重みが過剰に伝わる。
 兄妹二人、リビングの床に座り込んでいた。月が法試験専門の予備校の資料を持ってくるというから、朝から待ちかまえていた。ミサは例によってロケである。今回は北海道だそうだ。
 新しく配属された先の同僚だという人の車で現れた月は、台車まで持ちだして荷物を取りだしていた。それをみて、実家にしばらく泊まる気なのかと思っていたら、すべて、司法試験用の資料だった。
 軽く眩暈を覚えたが、座り込んでいたので助かった。そして恐る恐る、一抱えほどもありそうな辞書を箱から引きずり出した。重すぎる。
「………お兄ちゃん、わざと大判の辞書買ってきたでしょう。小さいサイズの、あるのは知ってるんだからっ」
「大きい方が書き込めるだろ?」
「え?」
「ほら、余白に」
 月の長い指が適当にページをめくり、余白を指した。
「………」
 粧裕は眺めて、なるほどと納得しそうになったが、すぐに重大なことを思いだした。いきおいよく顔をあげる。
「これじゃ持ち運べないじゃない」
「心配いらない。すぐ慣れるさ」
 10kgはある。ぜったいにある。自室にさえどうやって運ぼうか、途方にくれてしまうというのに。
「大げさだな。せいぜい3kgだろ」
 粧裕の心を見透したように月が言う。
「………いじわる………」
「人聞き悪いな」
 月は楽しそうに小さく笑っている。
「………」
 家ではこんなふうによく笑う。
 外で見る兄は、笑っているようで実は笑っていない。相手に合わせているだけで、快いとも不快とも感じていないようにみえた。少なくとも粧裕は家以外で笑っている月を見たことはなかった。家を出てから、ますます笑うことがなかったのではないかとふと思い至る。
「勉強もいいけど、デートにもいかないのか?」
「相手がいないとできません」
「……付きあってなかったか? 高校の時の同級生とかいうのと」
「んー…。いろいろあったし、それっきり」
「……お前……」
 呆れた月にすました顔をしてみせた。だいたい、兄は人のことを言えないと思う。
 何人もの女性と付きあっていたくせに、月は、いつのまにかその女性たちとは連絡すらしていない。だから、入院していた時に、その彼女たちが一斉に押し掛けてきて大騒ぎになったこともあったのだ。病院から警察へ苦情が言ったとも聞いた。

 六法全書のほか、法律関係の予備校のパンフレットや、今年度の受験者数や内容の資料、過去問題を集めた本などなど、すべて床に広げられた。呆然としていた粧裕は、気を取り直すかのようにそのなかの一冊を取り上げた。そして、ぎゅっと抱きしめる。
「?」
 月は妹の不可解なしぐさに目を丸くした。
「……これは数学じゃないもの。大丈夫。ましてや二次関数でもないもの。私は大丈夫」
「………」
 月は、呪文のように呟く粧裕を黙って見つめていた。何をつっこめばいいのかわからなかったのだ。
 『儀式』は終わったのか、晴れ晴れとした顔で粧裕は月を見た。
「じゃ、お茶にしよっか。コーヒーがいい?」
「待て、今のはなんのまじないだ」
「司法試験、一番苦手な数学じゃないんだもの。どうにかなると思って」
「……そうなのか…」
 粧裕が中学生になったころから高校生まで、何度も数学を教えてきた月は脱力した。成績は悪かったわけではなかったし、教えたところはなんとか理解していたから、苦手といっても他の得意な教科に比べてなのだろう。
「私はこのおまじないで、大学の追試を全部クリアしたもの。効果はてきめん」
 粧裕は、誘拐され、そしてそのショックから自失して、復学したのは年明けだった。その間の遅れを追試で取り戻したのだが、月の入院、母の死と、次々に起きる中で勉強どころではなかったはずだった。
 抱きしめていた本をそっと床に置くと、粧裕は立上った。
「粧裕」
「なに?」
「お前はキラをどうしたいんだ」
 月は、自分でもなぜ粧裕にこんな質問をするのか内心で驚いていた。もちろん表情には出さずに、まっすぐ見据える。
「どうしたいって…」
 宙を見つめて少し考え込む粧裕は、すぐに月に視線を戻した。
「たぶん、わたしはあの人をひっぱたく権利はあるのよね」
 大まじめな顔で、突拍子もない答えが帰ってきたことに月は虚を突かれた。そんな月の様子に気づかずに、粧裕は続けた。
「でも、実際に会ってどうするかなんてその時にならないとわからないでしょ?」
「…会えば、殺されるぞ」
「どうして?」
「――――――」
 この時、月は粧裕の考えが読めなくなったことを自覚した。いや、読む必要などなかったのだ。月が唯一、無条件で接する人間が粧裕だ。
「向きあえる位置に立ちたいって言ったけれど、大部分は自分のためなの。社会的地位が欲しいというのでもなくて」
 言葉を探してまた宙を見つめるが、今度はふと柔らかく微笑んだ。
「ありきたりな理由になってしまうけれど、自立したいの。今までお父さんお母さん、お兄ちゃんに守られてきたから」
「キラに対してお前はどう思う」
 今さらながら、月は問う順番を間違ったことに舌打ちしたい気分だった。
 月の問いに、粧裕はじっと月を見つめ返した。笑みが静かに消えていく。
「到底、肯定する気になれない。できるわけないじゃない」
 自分は、今どんな表情をしているのか、月は分らなかった。粧裕の目が少し見開いた。不安そうな顔をして月の側にもどる。
「あのね、キラを捕まえるとかそんなことは思ってない…危ないことをしようとしてるんじゃないの。心配しないで」
 よほど表情を蒼ざめさせたに違いなかった。苛立ちではない、この裡に渦巻く不快さは説明がつかない。それがさらに月を混乱させた。誤魔化すように苦笑してみせた。
「……そうだな。第一、捜査に関わるなら警官にならなければいけないし…お前には検事より無理があるな」
「あ、そうなの?」
「身体検査ではねられるな、狭心症がネックになる」
「やっぱり。あんまり走っちゃダメだって言われたもの」
 粧裕はくすりと笑う。幼いころから変わらない笑顔だというのに、あの瞬間に価値観が変質してしまい、自然に笑みを返すことができなくなっていた。しかしまだ、意識すれば可能だ。知られなければいい。先刻のような動揺は、粧裕には二度と見せなければいいだけだと、月は決意した。
「まだ通院するのか?」
「わたし? うん、だけど月に一回ぐらいでいいって。わたしはお兄ちゃんと違って、ちゃーんとお医者様の言うことは聞くの。お兄ちゃんも行きなさいよ、まだやらなくちゃいけない手術があるんでしょ」
「わかってるよ」
 座り直すと、月は粧裕の背に腕をまわして抱きしめた。粧裕が目を白黒させているのが見なくても分る。
 泣きたくなったのは生まれて初めてかもしれなかった。

10.3.26

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