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嵐のあと
「靴を脱いで」
コンクリート製の大きくビルのような外観、中もオフィスビルのような味気ない内装だったが、住居部は土足厳禁だという。ニアはこれまで、外に出る時以外はあまり靴も履かないでいた。そして見つかる度に靴を履きなさい、という注意をハウスでも、そしてSPK内でも受けてきた。だから家の中では靴を履かないことが当たり前という習慣はニアにとって都合が良いのか悪いのか、不思議な気持ちだ。
素直に靴を脱いで上がる。足の裏が所々に冷たく感じる。靴下に穴が空いているようだ。
集合住宅とは思えないほどの天井の高さだった。魅上の住居は、彼の行動を監視していたジェパンニからの報告で、内部構造は分かってはいたが、天井の高さは実際に見ると印象が随分異なる。冬は寒いだろうなと漠然と思ったが、すぐに暖かい空気に包まれた。
魅上は、車から降ろすときにニアの肩にかけていた上着を取った。そして顔色を変えた。
「…? どうかしましたか」
東京から遠く離れた土地に拉致され、生殺与奪を完全に握られてしまった事実は忌々しい。しかしいつまでも悲観しているのも馬鹿馬鹿しくなったニアは、いつもの平静を取り戻していた。眼を丸くした魅上を見上げる。
「…発疹が首筋に出ている」
「そうですか? あの鎮静剤だか睡眠剤だかのアレルギーですかね」
大して気にも止めなかったのは痛みも痒みも感じないからだ。薬物だけでなく、この状況下のストレスもあるだろう。とどのつまりは夜神月の所業が原因だ。発疹どころか、ニアの人生すら激変している。しかも、これからもどうなるか分からないという有り様だ。
ふつふつと怒りが沸き上がるが表に出さないでいると、魅上がニアと目線を合わせるように身をかがめた。指が衿に触れて、あらわになった個所に眉をひそめた。そんなに酷いのだろうかとニアは漠然と思った。
「……これは…病院にいこう」
再び背筋を伸ばした魅上はニアを残して奥にあるドアへ向かい入っていった。
「……は?」
数秒遅れて聞き返したのは、言葉がニアの中で意味を成すまで時間がかかったのだ。
すぐに戻ってきた魅上の腕には厚手のカーデガンがあった。それを広げて有無を言わさずニアの腕に袖を通す。ベージュ色のそれはニアには大きすぎたが、袖口を折り返して魅上はニアの手を掴んだ。
ようやく我に返ったニアは口を開いた。
「魅上、待ってください」
「?」
「病院に行って、あなたは医師に私の素性をどう説明するんですか」
「あ」
はたと気付いたように魅上の動きが止まった。
「それにあなた、さっき私を殺そうとしてませんでしたか」
「−−−」
ほんの数分前、勝手な行動をすれば殺すと言った男が、その相手に対し、病院へなどと普通言うことだろうか。ニアの真っ当な指摘に魅上は黙り込んだ。自分の言動に狼狽えている。
「少し考えてみたんですが、私にとって今、あなた以外の人間に関わることが必ずしも良い結果を招くとは思えなくなっています。夜神がどの程度まで予測しているかがまったく読めない。今日のことでも、何通りかの指示をあなたにしているはずだ」
襟元を少し引いて自分の胸元を覗くと、小さな赤い粒が点々と広がっていた。こういったアレルギー反応は初めてのことだ。
「このアレルギーで体調を崩すことよりも、他者と関わることで起きる事態のほうが厄介です」
「しかし…薬品のアレルギーは自己判断しないほうがいい」
「…それはそうなんですがね」
ニアは魅上に監禁者としてのふるまいをレクチャーしている気分になってきた。被害者は自分だというのに。それよりなにより、この男は犯罪者としての自覚が無さ過ぎる。
魅上が普通の人間ならニアは喜んで病院に行き、事情や素性を訴えるのだが、先ほどから何か話がかみ合わない。
『………面倒な』
ある可能性に気付いたニアは、この状況に追い込んでくれた夜神月に内心で舌打ちした。
「…熱ももってないので大丈夫です。そこのソファ、いいですか?」
「あ、ああ…」
布張りのソファに歩みより、もそもそとソファに上がった。
□
10歳ほどに見える少年は、文語的な言葉使いだが流暢な日本語を話す。ソファに上がって肩膝を抱えた少年の大きな黒い目がくるりと動いて魅上を捕らえた。
「休めば治ります」と、ソファにころんと横になると目を閉じてしまった。魅上は慌てて駆け寄ると、ニアはすうすうと寝息をたてていて、力が抜けたようにその場に座り込む。
突然、頭痛と眩暈が襲った。吐き気が込み上げる。病気らしい病気などしたことがない魅上は、急激な体調の変化に焦った。立っていたなら間違いなく倒れているだろう。ニアが眠るソファに手をついてすべての不快要素が収まるまで待った。
頭痛は脳裏に凄まじいまでの音の洪水を起こした。
狂ったように打ち鳴らされる鐘の音、嵐で決壊する濁流のように全てを飲み込む、何十、何百、何千人もの断末魔。
聞こえる筈のない音が声、言葉が頭を乱打する。
ナマエヲ カカナケレバ
誰を、誰の名を…
ソレハ −−ノ、
「………」
数分後、魅上にとっては数十分ほどにも感じた。頭痛はやみ、そろそろと顔をあげた。眩暈もない。今度こそ、安堵のため息をついた。
何者かの会話が聞こえたような気がするが、それが魅上自身が心の奥底でくり返してきたもので、双方とも自分の声だろう。
「拉致監禁、か」
苦笑する。自分が目指す地へ到達するのだろうか。
炎と熱風の中より現れたかの人の、背後に迫る崩壊をものともしない、一切の揺らぎを見せない眼光は一生忘れられないだろう。あれはすべてを貫く光だ。あのような光をもつ人間がいたことが驚きだった。
かの人は、キラはどこへ導くのか、それが自分が望む場所なのか。
発疹を覗かせてはいるものの、意外なまでに健やかな寝息をたてている子どもを見やった。
白色人種特有の白い頬は、室内の温度に馴染んでほんのりと紅色がかっている。白に近い金髪、いや銀髪なのか、少しだけうねっていた。
しばらく見つめていた。魅上の目にはニアの本名が漂うように浮かんでいて、邪魔に感じた。この子どもの寝顔があまりに無垢に思えるからだろうか。
魅上は立ち上がり、ニアに掛ける毛布を取りに寝室に向った。
09.06.25
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